Tuesday, November 23, 2010
What's So Great About Organic Food?
http://www.time.com/time/specials/packages/article/0,28804,2011756_2011730_2011720,00.html
By Jeffrey Kluger
自分自身を惨めだと感じる簡単な方法を探していますか?それなら健康的な食事について考えることを忘れて、体が欲しているものをただ食べればよいのです。あなたの体は肉を欲している。脂を欲している。そして塩分や糖分を欲している。食べなきゃだめなら果物や野菜を我慢して食べるけど・・・ただし肉、脂、塩分、糖分を全部食べた後ならね。食べ物がどこからやってきたのか―つまり、産地はどこか?持続的な栽培方法か?家畜の餌に草を食べさせているか?放牧地か?それとも無農薬か?ということについては気にしてる?あなたの体はそんなことには関心がないのです。
けれども、あなたと体はこの試練に関心を持った唯一の人間ではないのです。医者はあなたが食べるべき物について意見がある。家族も同様だ。そして、最近どこにでもいるようなフード純粋主義者にもありすぎるほどの意見がある。彼らは、口に入るものは全て栽培され収穫した後すぐに市場に運ばれるべきだと主張している。あなたがこのことを厄介だと思っても、でしゃばっているとさえ感じても、あなただけではないんですよ。「それは食べ物なんです。生きている証なんです。」とテキサス州立大学の環境歴史学教授であるJames McWilliamsは言う。「我々は皆さんに実用的で高潔な食べ方を推奨します。そして、皆さんがそれをどう実施するかについて信じられないほどに高いハードルを設けているのです。」
理想は、我々が何度も気づかされているように、オーガニック食品に転向すること、加工食品をやめて生鮮食品にすること、スーパーマーケットではなく直営市場にすることである。アメリカ合衆国農務省による最新の統計によると、全食品のうちオーガニック食品は、現在、全アメリカ市場の3%に過ぎないが、我々皆さんがもっと考えなければならない分野なのだ。
それはすばらしい考えのように聞こえるが、我々はその分お金を上乗せすることになる。オーガニックフルーツや野菜は、一般食品に対し1ポンドにつき13~36セント値段が高い。ただし、価格は特定の食品や国の地域によって変動するが。一般的に食料品ストアで売っている牛乳が3.5ドルであるのに対し、ホルモンや抗菌剤無添加と認められる牛乳は平均1ガロンにつき6ドルもする。
さらに、草を食べさせた牛は脂肪含量が少なく、化学物質の入っていない牛乳は明らかに良い考えであるが、オーガニックフルーツや野菜は、言うほど栄養的有効性がないのも明白なのだ。American Journal of Clinical Nutritionの2009年の論文は食品業界に物議を醸し出した。調べた限りビタミンや他の食品成分のうち3成分以外に関しては、オーガニック食品と従来の食品に差異がなく、その3成分のうち1つについては実際、従来食品がオーガニック食品に対しかろうじて上回ることがわかった。
「我々はオーガニック食品と従来食品の間に明確な境界線を引いた。」とMacWilliamsは言う。「しかし科学ではこれらの境界線を引かない。その境は交わっており、データを引き合いに出した議論の両端に人々は立たされているのだ。」消費者が健康を維持し、家族を養おうと努めるためには、その両方を今まで以上に厳しい予算状況下で行なうには、議論はまったく役に立たない。必要とされているのは、議論ではなく、答えなのだ。
フード純粋主義者を無視できない一番の理由は、多くの点で彼らが正しいと言うことなのだ。私たちの食事は確かに我々にとって悩みの種だが、それは地球についても同様のことである。今月初旬に、アトランタにあるアメリカ疾病予防管理センターが発表した文書によると、アメリカ人のおよそ27%は現在肥満であると考えられており(肥満は、標準体重より20%以上超過した状態)、9つの州では、肥満率は最高で30%にも上る。我々は肉を食べ過ぎている。その量は、アメリカ人の男性、女性、子供1人につき、毎年最高で220ポンド摂取している。それに対し、我々のうちたった14%だけしか我々が推奨する“1日フルーツと野菜で5品目”を行なっていない。加工食品は塩分濃度が高く、高フルクトースコーンシロップであふれている。この2つの味は我々は食べずにはいられない味だ。我々は健康的な食事生活を送るためには、アメリカ人1人につき1日2350キロカロリーで十分なのに、現在、3800キロカロリーに相当するだけの十分な食事がアメリカで生産されている。また、そのうちのいくらかは廃棄されるが、多くは棚の上で賞味期限が切れるよりもずっと前に食べ尽くされている。
食べ物が豊富にある状態を維持し、なおかつ消費者が購入し続けられるだけ低価格であるには、多くの工業的な仕掛けが必要であり、仕掛け自身も継続する必要がある。1年間に最大1000万トンの化学肥料がとうもろこしを栽培するためだけに畑に散布され、例えば、そのことによって1990年から2009年で収穫量が23%も増加したが、困難な状況にあるメキシコのペルシャ湾を汚染している有害な排水をもたらす。産業的な事情で飼育された牛は抗菌剤と成長促進ホルモンを投与され、その肉やミルクに化学残渣が残留する。肥満に関する報告あったまさに2日後多角的な論文が発表された。その報告によると、7歳のアメリカ人の女の子が成長期に入る割合が、1990年代後半と比べ2倍になっているという。しかもそれは肥満の流行が原因である可能性があるが、その上、食物を含む環境ホルモンが原因の可能性があるようだ。旬じゃない食べ物がいつでも手に入るために、穀物はある場所で栽培され、市場へ何マイルも運ばれているに違いない。こういったことが、12月にプラムを食べれるのと引き換えに、ひどく巨大な二酸化炭素の跡を残している。
様々な分野で食物戦争が引き起こされているが、最も激しい争いを生み出しているのは肉を巡る戦いである。アメリカ人は、いつも非を認めない肉食性の人種であり、無限に広がる平原で水牛を追い込み、畜牛を飼育しながら成長する国家にふさわしい。しかし後になってそのことが手に負えなくなってきた。アメリカでは、1年間に800億トンという並外れた量の肉を生産しており、そのうち家禽だけでは3500万トンにのぼる。動物たちがほとんど粗末な状態で飼育されていることは今となっては周知の事実である。飼育場でぎゅうぎゅう詰めにされ、高カロリーでとうもろこしを主成分とした食事で満たされ、できるだけ早く屠殺するために移動させる。草で育てた牛では2年半を要するが、食物過多の動物はたった14ヶ月で屠殺されるだろう。
動物がそのような短命で粗野な生涯を送っているという考え方は、他の食べ物にはない肉を巡るオーガニック対商業の議論に利他主義の要素を持ち込んでいる。ちょうど今月に、オハイオ州知事Ted Stricklandは、豚、食用牛、子牛、そして雌鳥の飼育条件を改善することについて、動物愛護団体と州の農家の人たちとの議論を仲裁した。それは、2008年にカリフォルニア州で制定された同様の改革を習って合意がなされた。
「循環器系や神経系に何かが引き起こされるなら、それらの系に気をつける必要がある。」とBevEgglestonは言う。彼は、ヴァージニア州モネタにある明らかに工業的ではない農場EcoFriendly Foodsの所有者で、畜牛、豚、子牛、羊、家禽を飼育している。Egglestonの動物たちは牧草地や小屋におり、食物過多ではなく檻の中で飼育されている。農場には、ふれあい動物園があり、動物が屠殺されるときに清潔で、できるだけ苦痛を与えない状況であることが訪問者にわかるよう、食肉処理場の扉は開かれている。「動物に話しかけたい」Egglestonは言う。「包丁を引くとき、私は彼らに贈り物はいただいております、と知らせたい。」
そのような人道的な対応には本質的な利点がある。草をより多く食べる畜牛はオメガ6s脂肪酸よりオメガ3s脂肪酸の割合が高い。それは癌、心臓病、関節炎のリスクを軽減し、認知機能を改善すると広く考えられているバランスである。牛を牧場の外に連れ出し、食物過多にし、とうもろこしを主原料とした食事をたくさん食べさせると、オメガ3s脂肪酸の量は急激に減少する。
Thursday, July 29, 2010
Curtains up at the Dallas Performing Arts Center
ダラス・パフォーミング・アーツ・センター開幕
http://www.time.com/time/arts/article/0,8599,1931386,00.html
http://www.time.com/time/arts/article/0,8599,1931386,00.html
ディー&チャールズ・ワイリー・シアター、ダラスAT&Tパフォーミング・アーツ・センターの一部として新たに増築
長い間、ダラスの中心地は、映画「波止場」の中でのマーロン・ブランドのようだった。国際的都市の候補になりたいのだ。すでに2,3の必要条件は満たしている―それは、スカイライン、人気のあるNFLチームそして深刻な交通問題だ。しかし、一流の文化的な会場が見事に揃っていなければ、辺鄙な田舎町でしかない。
そういうわけで、ダラス市は、何年もかけて、中心街に大掛かりなアート街、つまり、有名建築家の設計による美術館や劇場やオペラハウスの集まった場所を作ろうとしてきた。ついに先週、ダラス市は、このパズルにはめ込む最後の大きな2つのピースを公開した。その1つ、ディー&チャールズ・ワイリー・シアターは、オランダ人建築理論の大家であるレム・コールハースと、REX建築事務所のジョシュア・プリンス-ラモス(アメリカ人)の共同による作品である。一方の、マーゴット&ビル・ウィンズピア・オペラハウスは、イギリス人建築家ノーマン・フォスター卿率いる大会社によるものだ。この2つの建物はそれぞれ全く異なっていて、建築家達が互いに話をする仲ではないのだが、それぞれのやり方で、ダラス市が長年捜し求めてきたことに答えている。
まだ未完成のダラス・アート街の隙間を埋めるのに、30年以上もかかった。1977年にマスター・プランの幕が上がり、翌年、この計画に投じるための公債発行を有権者が却下するまではほぼうまく行っていた。最初の施設、エドワード・ララビー・バーンズ設計によるダラス美術館が完成するまでに1984年までかかる予定ではなかった。マイヤーソン・シンフォニーセンターが公開されるまで更に5年が過ぎた、こちらはイオ・ミン・ペイ設計によるもので、クリーム色で文化的なものをふんだんに取り入れた弧を描くような建築物である。それから長い中断の後、2003年に、レンゾ・ピアノ氏の手によるナッシャー彫刻センターがその1つに加わった。
決して分が悪い状況ではない、この68エーカーの地区における段階的な開発は結果として災い転じて福となった。あっという間に機能停止する一揃えの即席博物館、まあこれはニューヨーク市にあるリンカーンセンター・パフォーミングアーツ部門についての公正な描写なのだが、を作る代わりに、ダラス市は、30年かけて、先駆的な建築家たちによる建築物の多様な見本を纏め上げたのである。そして、ワイリーとウィンズピアによって非常に多様なものになった。ハイモダニズム主義の忠実な後継者であるフォスターと、どれが引き継がれていくべきか考えようと、そういった様々な理念を調べることにその生涯を費やしたコールハースの2人以上に違いのある2人の建築家を思い浮かべることは困難だろう。フォスターの建築物は落ち着いているデカルト派のものが多い。コールハースの建築物は、壊れていると言ってもいいほど珍妙な傾向がある。フォスターは、つやのある素材と研ぎ澄まされた仕上がりを好む。コールハースはワイリーの屋外テラスに人工芝に見えるようなものをポンと置くような人物である。どちらの建築家も、建築家としては最高の栄誉であるプリッツカー建築賞を受賞しているが、控えめな表現で言うと、受賞理由は異なっている。
言うまでもないのだが、フォスターとコールハースがお互いの作品のファンであるということは知られていない。ワイリーとウィンズピアの設計段階から完成までに要した5年以上ずっと、この2社の代表者が同時にダラスに現れることは滅多になく、むしろ、電話での会議やEメールを用いた、距離を置いた関係を好んだ。ダラスの権力者の怒りについての記事が地方紙に取り上げられはじめた。さらなるゆがみは、3年前に、ワイリーの共同設計者であるプリンス・ラモスが、コールハースの会社のニューヨーク支社を率いていたのだが、自分自身の会社、REX設計事務所を立ち上げるために辞職したことである。しかしながら、コールハースはワイリー建築チームとの関わりを持ち続けた、その主な相手が、ワイリーの完成まで関わり、"責任者" として名を残したプリンス・ラモスであった。
こうして、建築物は素晴らしく仕上がった。ワイリーの外観は、垂直のアルミ菅で出来た尖りくいに囲まれた、味気のない11階建ての箱である。正面から見ると、細長い非対称の窓で薄くスライスされた銀色のバーコードのように見える。近づいてくる人は皆、芝居が始まる前でさえ、旅が始まっているように思うだろう。下り坂を降りてくると、ガラス張りのロビーに降りてゆく広いコンクリートで出来た入り口がある、ロビーは地下にあって、冷たいコンクリートと灰色の金属で出来ており、その天井には剣型の照明が、まるで鍾乳石のようにぶら下っている。オルフェウスの時代、それよりももっと前から、地下の旅は心理的な影響があった。ここの場合は、正に石造りの地下、まるで古代の劇場の内部とも言える古い洞窟に降りてゆく気配を湛えている -それはたとえ、"マンマミア!" を観るために来た場合でもだ。
Saturday, June 12, 2010
What's Wrong with the World Cup Ball?
By SEAN GREGORY Thursday, Jun. 03, 2010
http://www.time.com/time/specials/packages/article/0,28804,1991933_1991952_1994179,00.html
http://www.time.com/time/specials/packages/article/0,28804,1991933_1991952_1994179,00.html
アディダス社はワールドカップの公式スポンサーになるために大金を払い、今年開催される試合に公式試合球を提供する権利を得た、つまり世界中に数え切れないほどの数のボールを売りさばくチャンスだ。このワールドカップ公式試合球 「ジャブラニ」 は、南アフリカの公用語のひとつであるズールー語のバンドゥ語群で「祝う」を意味するのだが、一部の選手は祝福していない。この新しい試合球に対する不満は轟々たるもので、ともすると、アディダス社はボールの名前を変更しなければならないかもしれない。"不満" をズールー語では何と言うのだろう?
ワールドカップ公式試合球に関する不満は、4年に一度の年中行事になっている。「この試合球は酷い」 と言うのはイングランド代表GKデイヴィッド・ジェイムズである。「酷い、みんなもそう思っているはず。いつもよりゴールが決まるだろうけど、GKは間抜けにみえるだろう。」これは、イングランド代表で、大失敗をしがちなために 「不幸なジェームズ」 として知られている男の言葉だが、不満を言っているのは彼だけではない。不満の対象は、ジャブラニを蹴ると、まるで負傷したアヒルのように飛んでいくことだ。もし、このボールがピッチ上で悲劇を引き起こしたら、WCトーナメントにおける一貫性を脅かしかねない上に、このアディダス社試合球の小売価格も脅かすだろう、ジャブラニはしその仕様によって、25ドルから150ドルまで価格に幅がある。これまでのところ、今回の論争が売り上げに影響しているようには見えない:アディダス社は、アメリカで、2006年WC時の2倍を既に売り上げた。
ブラジル代表の守護神ジュリオ・セザールは、世界屈指のGKだが、ジャブラニに「惨劇」と名付け、よくスーパーマーケットで見かけるような安っぽいゴムボールと比べさえした。シュートしたボールが少しブレながらゴールネットに飛んでいくのは芯にあたっている証拠で、ストライカーは大概好きなはずだが、イタリア代表FWジャンパオロ・パッツィーニはこの試合球を「大惨事」と呼び、ブラジル代表FWルイス・ファビアーノはこの試合球の予測不可能な軌道について不満をこぼしている。「このボールは、蹴っても思い通りには飛ばないんだ」 とファビアーノは語っている 「不自然な感じで、よくないよ。」 1970年WCメキシコ大会のためにアディダス社が開発した "テルスター" 以前の、サッカーボールが皮を縫い合わせた球体だった時代と比べると、技術が格段に進歩した。"テルスター" はバックミンスター・フラーの幾何学的デザイン "バッキーボール" に概ね基いた32面で構成されており、完全な球形にならないよう縫い合わされている。
アディダス社は、ジャブラニのことを 「これまでで最も革新的なボール」 だと述べ、自社の"Grip N'Groove" 技術がこのボールを、歴史上 「最も正確でよく回転する」 ようにさせていると主張している。「ジャブラニは、FIFA基準を満たすために広範囲に及ぶテストを受け、現在、市場に出ている試合球よりも27%正確さが増しているという結果を出した。」とアディダス・アメリカ社のサッカー部門総括であるアントニオ・ズィー氏はeメールを送ってきた。「我々は、今回のWCが成功し、このボールが、最も目に見える象徴のひとつとなるだろうと自信を持って言えるのだ。」アディダス社は、この試合球はたったの8面で構成されているので真っ直ぐ飛ぶのだ、と主張している。同社によれば、ボール表面にある小さな溝もまた風の流れを捉えて、表面の空気抵抗を抑え、その結果として、より理想的な軌道を描くという。アディダス社は今回11という数にこだわっている:ジャブラニは11の色を取り入ているがこれは、11人で1チームということと、南アフリカの公用語が11あること、それからアディダス社が11回連続でWCの公式試合球を製造したことを象徴している。
大会前に、なにか駆け引きが行われているのだろうか?この12月以降プロのトップチームの多くがこの試合球を使用しているが、苦情は皆無であることを、アディダス社は指摘している。その上、不満の多くは、アディダス社のライバルであるプーマ製品やナイキ製品を着用しているチームからのものだった。逆に、全身アディダス製品を着用し、アディダス本社を自国に有するドイツ代表は、このボールを絶賛している。奇妙なことに、"ジャブラニ" のデザイナーはドイツ最大のライバルであるイングランド出身なのだが、母国の選手に、この試合球の有利な扱い方を無償でアドバイスしたいと提案した。しかし、もしこの試合球がそんなにちゃんと飛ぶのならば、ワールドカップ直前になって、世界最高のチームがボールの扱い方を学ぶ必要があるのはなぜだろう?
アディダス社は、一旦試合開始のホイッスルが吹かれればこの論争も沈下するだろうと主張している。確かにそうかもしれない、どちら側の選手も同じボールで試合に臨むのだから。もし、3-0で負けたとしても、たとえ祝福を受けられなかったとしても、ボールのせいにしてはいけない。
Thursday, May 27, 2010
How Facebook Is Redefining Privacy
By Dan Fletcher
あと数週間のうちに、Facebookでは、5億人目となる活発な閲覧者が正式登録するだろう。Facebookサイトが土地だとしたら、それは人口ベースで世界第3位、つまりアメリカの人口の2/3さらに多い人口の国になるだろう。ネットサーフィンしている4人に1人以上の人は、Facebookアカウントを持っているだけにとどまらず、過去30日以内にFacebookサイトに再ログインしている。
ハーバード大学の学部生だったマーク・ザッカーバーグが、アイビーリーグの学生とお互いにお互いを登録しておく方法として、寮内でFacebookを立ち上げる手助けをしてからたった6ヶ月で、Facebook社はウェブサイト業界の大物の地位に参入した。マイクロソフトのおかげでコンピューターはが誰にでも使い易いものになった。googleは情報検索の手助けとなっている。YouTubeは我々を楽しませる。だが、これらのサイト以上にFacebookには多大な利点がある。それはユーザーが感情出資できる点だ。Facebookによって、私たちは笑ったり、身震いしたり、後でオンライン上で自分たちを見れるように写真に釘付けになったり、誰も気のきいたコメントを返してくれなくていらいらしたり、高校卒業後太った誰かを馬鹿にしたり、新婚さんが身分を更新するため結婚式中はネットを中断したり、独身に戻ったという身分を設定することで離婚を記述したりできる。(俺は俺たちがまだ友達でいられることが嬉しいよ、エリーゼ。)
我々の多くがFacebookのある生活を快適に過ごしているということは、要するに、すさまじい早さで文化的シフトが起こっているということだ。とりわけFacebookサイトのユーザーの28%が34歳以上で、その年齢層はFacebookで最も増加している層となっている。Facebookは我々の社会的特性を変化させ、よりオープンな状態に順応された。しかし、Facebookサイトは反論があることを前提としている。つまり、Facebookでは親しくなる機会―姪が初めて歩いたことを祝福したり、親友の死を悲しんだりする機会―は豊富にあるが、あなたたちがオンライン上でそういった瞬間を掲載することで、Facebook社はお金を稼いでいるのだ。あなたがFacebookで経験した感情は偽りのないものだ。と同時に、あなたが提供している情報は収益を伴っている。
Facebookユーザーが情報―食中毒症状の記載(気持ち悪いですね)から、削除されない上司への感情(分別がないですね)まで―の共有を快諾していることは、Facebookの成功にはかかせない。今までは会社の方針はさらなる共有を勧めることであったので、情報の多くが不満ばかりならば制限をかけることにしている。そういうわけで、Facebook社は個人情報保護について激しい議論の真っ只中にいる。2007年にそれは勃発した。Facebook Beaconというシステムの初期設定のせいで、Facebookの友人全員に、ある別なサイトで行なった購入歴の更新情報を送ってしまっていた。Beaconはユーザー―自動的に登録されていたユーザー―間で騒動を引き起こし、ザッカーバーグは公式に謝罪した。
そして、騒動は再燃している。ユーザー、そしてアメリカと海外で選ばれた議員らの最近の心配事を鎮めるために、Facebook社は個人情報保護の改定案を明らかにする準備をしている。5月5日に電子情報プライバシーセンターが連邦取引委員会に申請した不服申し立てをした直後に変化が訪れている。その申し立てでは、Facebook社が頻繁に方針を変えていることと、だますのでなければ、より使いづらい個人情報保護を設計する傾向にあることを問題としている。(当社の広報担当者でさえ、同僚が私よりも使いやすい個人情報保護機能を持っているわけを私に説明しようとしていることに気づいた。)38ページに上る不服申し立て書には、連邦取引委員会がFacebook社に共有した情報がどうなっているかということはもちろんのこと、我々が投稿した情報それぞれに付加するプライバシー設定についても明確にするよう強要すると申し立てをしている。
Facebook社は、個人の好みを堀り下げようとしてプライバシーに対する関心がそれほど高くなかったので、プライバシーの政策の見直しを図っている。4月に、Facebook社はOpen Graphという新しい試みを開始した。それはユーザーにウェブ上に好みを加えるもので、たとえばTIMEの記事からリーバイスのジーンズといったものまで示すことができる。理屈は、友人が何かをお薦めすると、自分もそれに対する関心度が高まるだろうという仕組みだ。そして、Facebookはかなり多くのユーザーを抱えているので、また、多くの企業が自社のユーザーの注目をあげたいので、Facebookはどこのどのウェブサイトでもユーザーの好みを公開するにはよいポジションにある。Open Graphが公開されてから1ヶ月もたたないうちに、10万以上のサイトがその技術を統合した。
Sunday, May 23, 2010
The End of the Euro
By Niall Ferguson
NEWSWEEK Published May 7, 2010
From the magazine issue dated May 17, 2010
http://www.newsweek.com/2010/05/07/the-end-of-the-euro.html
Crisis、語源のギリシャ語"krisis"は病状における山場を意味するが、古代アテニア人から借りてきた数多くの英語の単語の中のひとつであるが、最近、古代アテニア人の末裔はこの言葉の本来の意味を、私たちに思い出させている。
"経済回復" という言葉を使い始めても大丈夫だろうと思われたばかりなのに、ギリシャの経済危機が世界経済と、世界で2番目に力のある通貨の存在を脅かしている。
ちょうど10年前、ユーロはいいアイディアのように思えた。ヨーロッパは、共通の法律をもつ合同体としてはいうまでもなく、ひとつのブロック経済圏としての統合の状態はすでに目覚ましいものだった。貨幣統合は、様々なかたちの魅惑的な利益を提供したのだ。1970年代のブレトン・ウッズ協定の固定金利以降、ヨーロッパを悩ませ続けてきた為替レートの変動を終わらせたし、旅行者やビジネスマンにとって、手間とお金が掛かる通過換算がなくなった。さらに、より一層の価格透過性はヨーロッパ内の貿易の流れをスムーズにするものだった。
ヨーロッパの単一通貨制によって、貿易の条件がよりよくなるようにも見えた。過大な公債の問題を抱えているヨーロッパ諸国は、ドイツ式の低インフレと低金利を取り入れられる。ドイツは、ユーロが超強力なドイツマルクよりも少しだけ弱いことをひそかに望んでいたかもしれない。
通過統一には地政学的な魅力もあった。ドイツ東西統合のすぐ後で、フランスは、ヨーロッパがその最大の加盟国による新たな支配を受けるのではないかと懸念していたが、ドイツに貨幣主権を提供させることによって、第四帝国になる可能性のあるドイツに対する他の加盟国の勢力を高めることが出来る。それに、一番いいことは、強力なアメリカドルに対抗できる代替の準備通貨を作ることが出来ることだ。
それでもやはり、欧州委員会の代表であるジャック・デロワが通貨統合を最初に提案した時、乱暴なくらい大がかりな計画のように思われた。1992年のマーストリヒト条約において欧州連合の第三の支柱として通貨統合が正式に採用された時でさえ、私自身を含む経済学者の多くが、懐疑的なままだった。
当初加盟した11カ国が"最適な通貨区画" を構成したのは明白だとはとても言えなかった。単一通貨統合は、生産性の高いドイツとやや効率の劣る他の加盟国との根本的な格差を、減少させるというよりむしろ広げることになるだろう。
しかし、経済通貨統合の仕組みにおける最悪の欠点は、我々が訴えたのは、加盟各国の財政政策を全く統一しないままでヨーロッパ各国の通貨を統合したことだった。確かに、財政赤字額が国内総生産の3%を、国債残高が60%を下回っていなければ加盟できないと明確に記された "収斂基準" はあったのだが、これらのことが、安定・成長協定に固定された財政規則になったときでさえ、強制力がないものだった。
欧州通貨統合の立案は人間の制度に関する重要な真実を深淵に例証している。起きなければいいのにと思っていることのためにしっかり準備しなかったからといって、それが起きないとは限らない。それが、イギリスがこの単一通貨制度に加盟しないと決めた理由の1つである。1998年に流出したイングランド銀行の極秘書類が推測していたのは、ある国("I国"とだけ言っておこう)が、もし、許容されていた以上の財政赤字を抱えていたとしたらどうなるかだった。イングランド銀行が警戒したその結果は、とてつもない混乱だ。
何故?何故ならば、新設された欧州中央銀行は、そこまで巨額の財政赤字をかかえた国を、直接政府に融資することによって救済することを禁止されていたからだ。さらに一方で、I 国が通貨統合から離脱する方法がないのだ。この硬直性が、ハーバード大学の経済学者マーティン・フィールドシュテイン氏が、単一通貨制はヨーロッパに調和ではなく対立をもたらすと予想した理由の1つであった。
G国の場合
ギリシャが2001年1月1日に12番目の欧州通貨統合加盟国になってからほぼ9年に渡って、カッサンドラの予言は間違っていたように思われていた。ユーロは順調な成功を遂げていた。長期金利は収束した。事実、財政規則は強制力がなかった―いかにも、ユーロを立ち上げた1999年にはどの加盟国も収斂基準を満たしてはいなかった―しかし、これまでは好調にきていた。財政赤字は縮小した。それに、望まれたほどのインフレ率や経済活動の収斂はなかったのだが、懸念する材料はほとんどなかったように思われた。ヨーロッパ諸国だけでなく、世界中がユーロを支持した。1999年から2003年の間は、世界中の国際銀行がドル立てを上回る額の債権をユーロ立てで発行した。加盟しなかった国は、バスに乗り損ねたというよりもむしろ豪華な馬車を逃したのではないかと思い始めていた。
そして、2009年10月、新たに選出されたギリシャ政府はが実情を告白したのだ。ギリシャの財政赤字は、旧政府が発表していた国民総生産の6%ではなく、12.7%ととてつもなく大きく、これは2009年初頭、欧州委員会に約束していた3.7%の3倍を上回る額だった。さらに、欧州中央銀行が、ギリシャ政府への緊急融資を経由して、政府負債額の3分の1を上回る額を、ギリシャの銀行に間接的に資金提供していたことが判明した。("救済してはいけない" 規則の反証)この報道がきっかけとなって、ユーロ懐疑論者たちがつねに恐れていたことが連鎖的に起こり始めた。金融機関は、つねに、ドイツ国債と比較して高い利子をギリシャ国債に課していた、ユーロ全盛期にさえも、しかしその調達運用金利差は突如として1%から5%に膨れ上がり、やがて10%に達した。ギリシャは財政的な死のスパイラルに陥った、つまり、金利引き上げが債務処理の経費を嵩ませ、ギリシャの財政赤字を悪化させたのだ(現在は13.6%まで増加している)。自暴自棄になって、ギリシャは欧州の同盟国に援助を求め始めた。その救済額は1月のうちは比較的高額ではなかったが、ドイツ政府は躊躇した。世界規模の金融危機とドイツ国内における景気後退、それから地方選挙が迫っている時期に、ドイツの有権者は、国家の会計額を勝手に書きかえていたような外国を救済する気分になれなかった。しかし、ドイツが躊躇している間に、ギリシャ救済のための費用はどんどん高額になってしまった。
最終的に、4月末にある対策が打ち出され、それによってギリシャは1億1,000万ユーロを受け取った、そのうち3,000万ユーロは国際通貨基金から提供され、残りはユーロ圏諸国から提供された。条件として、ギリシャ政府は、厳重な財政節約を約束した、支出削減と増税を組み合わせて、2014年までには財政赤字を3%縮小することを宣言した。
問題は解決しただろうか?残念なことに解決はしていない。今回のギリシャの悲劇はまだ幾つか幕が残っている。
まず、ギリシャの約束不履行があるだろう。根深い景気後退の時期に、ギリシャ政府がそれほど深刻に財政を引き締められるとは単に信じられないということではない。たとえ全てが計画通りにいったとしても、負債額は国民総生産の150%まで上昇するだろう、国民総生産の7.5%という破滅的な額を利子返済に充てなければならないのだから。ギリシャには問題解決のための明白な政治的結論がない。予想すると、ゲオルギオス・パパンドレウは失墜し、その後継者が、ギリシャ国債の債権者たちに30%の減額を強いるだろう。
次の場面はより劇的になるだろう。生国ギリシャの財政危機ががそこまで深刻になった原因が悪影響を及ぼすということ、つまり、もしこういったことがギリシャ国債に起こりうるのならば、他の公債にも起こりうるだろうという、投資者のなかにある現実感である。他にもユーロ圏の2カ国(イタリアとベルギー)が、膨れ上がった負債を抱えており、また他の2カ国(ポルトガルとスペイン)がギリシャ同様、外国からの融資に過度に依存していることが、資料の解析によって明らかにされた。
先週、格付け評価会社ムーディーズはポルトガルの長期国債をAa2に格下げの可能性があるとして再検討した。さらに、スペインが5年国債を利回り3.5%で販売した時には、―その2か月前には利回り2.8%だったのと比較して―マドリッドがギリシャを上回る救済を必要としているのではないかという噂が渦巻いた。
これもまた、ギリシャ経済危機がヨーロッパじゅうの経済にウィルスのように蔓延する唯一の道ではない。欧州諸国の貸借対照表は危険な国債で一杯になっており、ギリシャの銀行はリーマン・ブラザーズの領域に向かっている。ブルガリアやルーマニアのようにギシリャの銀行に融資を頼っている近隣諸国にとってこれは信用収縮を意味する。
さらに由々しいことに、他の欧州の銀行へのギリシャの負債が露呈した、国際決済銀行によれば、その総額は1億9,300万ドルである。
NEWSWEEK Published May 7, 2010
From the magazine issue dated May 17, 2010
http://www.newsweek.com/2010/05/07/the-end-of-the-euro.html
Crisis、語源のギリシャ語"krisis"は病状における山場を意味するが、古代アテニア人から借りてきた数多くの英語の単語の中のひとつであるが、最近、古代アテニア人の末裔はこの言葉の本来の意味を、私たちに思い出させている。
"経済回復" という言葉を使い始めても大丈夫だろうと思われたばかりなのに、ギリシャの経済危機が世界経済と、世界で2番目に力のある通貨の存在を脅かしている。
ちょうど10年前、ユーロはいいアイディアのように思えた。ヨーロッパは、共通の法律をもつ合同体としてはいうまでもなく、ひとつのブロック経済圏としての統合の状態はすでに目覚ましいものだった。貨幣統合は、様々なかたちの魅惑的な利益を提供したのだ。1970年代のブレトン・ウッズ協定の固定金利以降、ヨーロッパを悩ませ続けてきた為替レートの変動を終わらせたし、旅行者やビジネスマンにとって、手間とお金が掛かる通過換算がなくなった。さらに、より一層の価格透過性はヨーロッパ内の貿易の流れをスムーズにするものだった。
ヨーロッパの単一通貨制によって、貿易の条件がよりよくなるようにも見えた。過大な公債の問題を抱えているヨーロッパ諸国は、ドイツ式の低インフレと低金利を取り入れられる。ドイツは、ユーロが超強力なドイツマルクよりも少しだけ弱いことをひそかに望んでいたかもしれない。
通過統一には地政学的な魅力もあった。ドイツ東西統合のすぐ後で、フランスは、ヨーロッパがその最大の加盟国による新たな支配を受けるのではないかと懸念していたが、ドイツに貨幣主権を提供させることによって、第四帝国になる可能性のあるドイツに対する他の加盟国の勢力を高めることが出来る。それに、一番いいことは、強力なアメリカドルに対抗できる代替の準備通貨を作ることが出来ることだ。
それでもやはり、欧州委員会の代表であるジャック・デロワが通貨統合を最初に提案した時、乱暴なくらい大がかりな計画のように思われた。1992年のマーストリヒト条約において欧州連合の第三の支柱として通貨統合が正式に採用された時でさえ、私自身を含む経済学者の多くが、懐疑的なままだった。
当初加盟した11カ国が"最適な通貨区画" を構成したのは明白だとはとても言えなかった。単一通貨統合は、生産性の高いドイツとやや効率の劣る他の加盟国との根本的な格差を、減少させるというよりむしろ広げることになるだろう。
しかし、経済通貨統合の仕組みにおける最悪の欠点は、我々が訴えたのは、加盟各国の財政政策を全く統一しないままでヨーロッパ各国の通貨を統合したことだった。確かに、財政赤字額が国内総生産の3%を、国債残高が60%を下回っていなければ加盟できないと明確に記された "収斂基準" はあったのだが、これらのことが、安定・成長協定に固定された財政規則になったときでさえ、強制力がないものだった。
欧州通貨統合の立案は人間の制度に関する重要な真実を深淵に例証している。起きなければいいのにと思っていることのためにしっかり準備しなかったからといって、それが起きないとは限らない。それが、イギリスがこの単一通貨制度に加盟しないと決めた理由の1つである。1998年に流出したイングランド銀行の極秘書類が推測していたのは、ある国("I国"とだけ言っておこう)が、もし、許容されていた以上の財政赤字を抱えていたとしたらどうなるかだった。イングランド銀行が警戒したその結果は、とてつもない混乱だ。
何故?何故ならば、新設された欧州中央銀行は、そこまで巨額の財政赤字をかかえた国を、直接政府に融資することによって救済することを禁止されていたからだ。さらに一方で、I 国が通貨統合から離脱する方法がないのだ。この硬直性が、ハーバード大学の経済学者マーティン・フィールドシュテイン氏が、単一通貨制はヨーロッパに調和ではなく対立をもたらすと予想した理由の1つであった。
G国の場合
ギリシャが2001年1月1日に12番目の欧州通貨統合加盟国になってからほぼ9年に渡って、カッサンドラの予言は間違っていたように思われていた。ユーロは順調な成功を遂げていた。長期金利は収束した。事実、財政規則は強制力がなかった―いかにも、ユーロを立ち上げた1999年にはどの加盟国も収斂基準を満たしてはいなかった―しかし、これまでは好調にきていた。財政赤字は縮小した。それに、望まれたほどのインフレ率や経済活動の収斂はなかったのだが、懸念する材料はほとんどなかったように思われた。ヨーロッパ諸国だけでなく、世界中がユーロを支持した。1999年から2003年の間は、世界中の国際銀行がドル立てを上回る額の債権をユーロ立てで発行した。加盟しなかった国は、バスに乗り損ねたというよりもむしろ豪華な馬車を逃したのではないかと思い始めていた。
そして、2009年10月、新たに選出されたギリシャ政府はが実情を告白したのだ。ギリシャの財政赤字は、旧政府が発表していた国民総生産の6%ではなく、12.7%ととてつもなく大きく、これは2009年初頭、欧州委員会に約束していた3.7%の3倍を上回る額だった。さらに、欧州中央銀行が、ギリシャ政府への緊急融資を経由して、政府負債額の3分の1を上回る額を、ギリシャの銀行に間接的に資金提供していたことが判明した。("救済してはいけない" 規則の反証)この報道がきっかけとなって、ユーロ懐疑論者たちがつねに恐れていたことが連鎖的に起こり始めた。金融機関は、つねに、ドイツ国債と比較して高い利子をギリシャ国債に課していた、ユーロ全盛期にさえも、しかしその調達運用金利差は突如として1%から5%に膨れ上がり、やがて10%に達した。ギリシャは財政的な死のスパイラルに陥った、つまり、金利引き上げが債務処理の経費を嵩ませ、ギリシャの財政赤字を悪化させたのだ(現在は13.6%まで増加している)。自暴自棄になって、ギリシャは欧州の同盟国に援助を求め始めた。その救済額は1月のうちは比較的高額ではなかったが、ドイツ政府は躊躇した。世界規模の金融危機とドイツ国内における景気後退、それから地方選挙が迫っている時期に、ドイツの有権者は、国家の会計額を勝手に書きかえていたような外国を救済する気分になれなかった。しかし、ドイツが躊躇している間に、ギリシャ救済のための費用はどんどん高額になってしまった。
最終的に、4月末にある対策が打ち出され、それによってギリシャは1億1,000万ユーロを受け取った、そのうち3,000万ユーロは国際通貨基金から提供され、残りはユーロ圏諸国から提供された。条件として、ギリシャ政府は、厳重な財政節約を約束した、支出削減と増税を組み合わせて、2014年までには財政赤字を3%縮小することを宣言した。
問題は解決しただろうか?残念なことに解決はしていない。今回のギリシャの悲劇はまだ幾つか幕が残っている。
まず、ギリシャの約束不履行があるだろう。根深い景気後退の時期に、ギリシャ政府がそれほど深刻に財政を引き締められるとは単に信じられないということではない。たとえ全てが計画通りにいったとしても、負債額は国民総生産の150%まで上昇するだろう、国民総生産の7.5%という破滅的な額を利子返済に充てなければならないのだから。ギリシャには問題解決のための明白な政治的結論がない。予想すると、ゲオルギオス・パパンドレウは失墜し、その後継者が、ギリシャ国債の債権者たちに30%の減額を強いるだろう。
次の場面はより劇的になるだろう。生国ギリシャの財政危機ががそこまで深刻になった原因が悪影響を及ぼすということ、つまり、もしこういったことがギリシャ国債に起こりうるのならば、他の公債にも起こりうるだろうという、投資者のなかにある現実感である。他にもユーロ圏の2カ国(イタリアとベルギー)が、膨れ上がった負債を抱えており、また他の2カ国(ポルトガルとスペイン)がギリシャ同様、外国からの融資に過度に依存していることが、資料の解析によって明らかにされた。
先週、格付け評価会社ムーディーズはポルトガルの長期国債をAa2に格下げの可能性があるとして再検討した。さらに、スペインが5年国債を利回り3.5%で販売した時には、―その2か月前には利回り2.8%だったのと比較して―マドリッドがギリシャを上回る救済を必要としているのではないかという噂が渦巻いた。
これもまた、ギリシャ経済危機がヨーロッパじゅうの経済にウィルスのように蔓延する唯一の道ではない。欧州諸国の貸借対照表は危険な国債で一杯になっており、ギリシャの銀行はリーマン・ブラザーズの領域に向かっている。ブルガリアやルーマニアのようにギシリャの銀行に融資を頼っている近隣諸国にとってこれは信用収縮を意味する。
さらに由々しいことに、他の欧州の銀行へのギリシャの負債が露呈した、国際決済銀行によれば、その総額は1億9,300万ドルである。
Paris' Plan to Kick Cars Off Its Riverbanks
By Jeffrey T. Iverson
近頃パリの日曜日は、ベビーカーを押した夫婦、ローラーブレーダー、自転車に乗った人たちがセーヌ川の左岸を行き交い、普段にはない静かな広がりを楽しんでいた。普段この道は、勢いよく進む何千もの車であふれているが、週に一度、静寂のオアシスに変貌を遂げる。パリの川岸を車両通行止めにしたときに起こる状況について調査するため市役所が行っている実験の一部のためである。今のところ、実験は過去数年間継続しているが、、評判が良いと立証されている。Delphine Damouretteさんは31歳、モンマルトルの住民で、彼女が住んでいる石畳式の住宅街はローラーブレード地獄であるが、車が通らない日曜日は、彼女が最も好きな町の空気を感じることができると言う。夏休み中、パリはゆるやかになり、車は姿を消し、歩行者はセーヌ川を取り戻す。「もし、パリが一年中ずっとこうだったら素敵だわ。」と彼女は言う。まもなく、彼女はその願いを叶えるかもかもしれない。
もしベルトランドラノエ市長が自分の考えを押し通していたら、2012年までにオルセイ美術館とアルマ橋間の左岸にある高速道路1.2マイルは永久に車両通行止めになり、一方、右岸の交通速度は緩やかになるだろう。両岸とも首都高速を小さな都市の大通りに変えるという目標を持っている。およそ500万ドル計画―別名“セーヌ川両岸の奪還”は、カフェ、スポーツ施設、水上レストランなどを併設した川岸35エーカーの開発を提唱している。「つまり、汚染と自動車交通量を減少し、パリの人たちに幸せな機会を増やすことなのだ。」とドラノエ氏は4月14日の企画発表会で発言した。「もし我々がこのことを続けることが成功すれば、私は計画がパリを大いに変化させると信じている。」
しかし、パリの人たちはパリ中の自動車支配の終結を目指す、極端ではたまたそうでもない政策の下で既に数年過ごしている。彼らは別の改善可能な輸送計画に対応する心積もりをしているか?環境問題対策副市長デニスボーパンは、2001~2008年まで交通政策担当責任者として、路面電車、バス車両、自転車用通路、公共レンタル自転車事業ベリブ、その他各計画を開始した。その間に浴びた猛烈な批判や緑のクメールというあだを切り抜けてこれら全ての計画を始めたのだ。そんな彼は、何がきても大丈夫だと考えている。「もし、我々が今日セーヌ川両岸の再開発について議論できたら、我々は始めに日曜日を車両禁止にするので、住民が持続可能で、喜んで、積極的になる考え方に慣れてもらうだろう。」と彼はTIME誌に話す。「考え方が変わり、そして野望は、都市がどこかに向かっていくために、変化し、より環境にやさしい野望に成長している。」
Monday, May 17, 2010
Twilight Zone: Why Do Babies Have the Same Name ?
トワイライトゾーン: 子供に同じ名前をつける理由
by Claire Suddath
http://www.time.com/time/nation/article/0,8599,1988092,00.html
by Claire Suddath
http://www.time.com/time/nation/article/0,8599,1988092,00.html
子供に、あの吸血鬼にちなんだ名前を付けるのが流行っている。社会保障庁が発表した2009年版最も人気のある子供の名前リストによると、一番人気はイザベラとジェイコブだった。偶然なことに、どちらもトワイライトシリーズの主要な登場人物と同じ名前である。 実際、イザベラは1990年代以降着実に人気が上がってきてるし、ジェイコブは10年連続で一番人気である(つまり2005年に発表されたトワイライトよりも前からである)。しかしながら、人気上昇中の名前のうち1つは、ほぼ確実に、ステファニー・メイヤー作品である吸血鬼のラブストーリーから影響を受けている:カレンという名だ。このメイヤー作品に登場するセクシーな吸血鬼の苗字は、1年で297も順位を上げて、現在は、男の赤ちゃんのファーストネームとして485番目に人気のある名前になっている。
カレン(Cullen)という名前にはまた別の傾向も見受けられる:enという音で終わる2音節の男の子の名前である。エイデン(Aiden) もその例の一つである(これは12番目に人気のある名前)。8位のジェイデン(Jayden)や、17位のローガン(Logan)、24位のネイサン(Nathan)、44位のケヴィン(Kevin)、46位のジャスティン(Justin)、それから、これまで聞いたこともなかったような名前、ブライデン(Brayden)。この名前は47番目に人気がある、つまり、20年後には何人ものブライデンに会うことになりそうだということだ。同じように、女の子に人気の名前50位までのうちおよそ半分がa の文字で終わっている、イザベラ(Isabella) のように。どうしてこういったことが起こるのだろう?何故、親たちは赤ちゃんにみんな同じような名前をつけるのだろう?
簡単に言ってしまうと、人はまわりの人の真似をするものだからだ、変わったことをしたがる人はそういないからだ。まるでファッションや音楽の流行が変化していくように、子供の名前の流行も変わるのだ。1980年代に生まれた女の子たちは、y やie で終わる、元気で溌剌とした名前を付けられた―例えば、ティファニー(Tiffany)、やアシュリー(Ashley)、ケイティ(Katie)、ブリタニー(Brittany)。社会学者やジャーナリストはしばしば子供の名前に関する理論を提案するのだが、大概の場合、根拠のない憶測以上のものは打ち立てられないでいる。CBSニュースはかつて、2002年にエマ(Emma)と言う名前が人気があったのは、フレンズというドラマの中でジェニファー・アニストン演じる登場人物が子供に付けたからだと言いきったことがある。ところが、エマという名前は、1980年代から人気が出てきていて、レイチェルとロスがドラマの中で情熱的な夜を過ごす前に、すでに丸々3年間20位以内に入っていたのだ。つまり、フレンズの影響はほとんどなかったと言える。
もう少し掘り下げて考えると、赤ちゃんの名前の流行は少し複雑なものになる。ハーバード大学のローランド・フライヤーしとシカゴ大学のスティーヴン・ラヴィット氏によれば、1970年代までは、黒人も白人も、子供に同じような名前を付けていたが、そのあたりから、病院ではいわゆる黒人っぽい名前がよく見られるようになっていた、例えば、エボニー(Ebony)、シャニース(Shanice)、ダーナル(Darnell)などだ。人種間における名前の住み分けは現在非常に強く、フライヤーしとラヴィット氏が言うには、カリフォルニアで生まれた全てのアフリカ系アメリカ人のうち40%が、どの白人の出生証明書にも記載されていないような名前を与えられている。(研究を簡単にするために、カリフォルニア限定の調査になっている)
地理的要素もまた一因になっているかもしれない。2009年、ヘブライ大学の研究者であるジェイコブ・ゴールデンバーグ氏とモッシュ・レヴィ氏はアメリカ国内でも週によって人気のある名前が違っていることに着目した。親達が住んでいる町や都市や州など、地域で人気のある名前を、子供に付ける傾向があることを発見したのだ。社会保障庁の名前データベースから判断すると、まさにその通りのようだ。イザベラと言う名前は、まず最初にコロラドとロードアイランドで上位5位に入った。コロラドから、カリフォルニア、ネバダ、アリゾナにまで流行が広がった。ロードアイランドからは、マサチューセッツ、ニューヨーク、ニュージャージーに人気の波が押し寄せた。そして今、アメリカ全土で一番人気の名前になった。
しかしなぜ、コロラドとロードアイランドでその人気に火がついたのだろう?それに、1991年にイザベラという名前が、698位から、たった一年の間に210上昇して、突然に、それでもまだあまり一般的でない488位になったのは何があったからなのだろう?残念なことに、実際のところは誰にもわからない。結局は、子供の名前というのは、名付け親の気まぐれの産物なのだ。親達は、世界中のイザベラやエマやマディソンたちに責任があるのだ、独創的な綴りは言うまでもない(Keighty instead of Katie, Danyale instead of Danielle) こういった綴りは、子供達を一生煩わせるに違いない。
カレン(Cullen)という名前にはまた別の傾向も見受けられる:enという音で終わる2音節の男の子の名前である。エイデン(Aiden) もその例の一つである(これは12番目に人気のある名前)。8位のジェイデン(Jayden)や、17位のローガン(Logan)、24位のネイサン(Nathan)、44位のケヴィン(Kevin)、46位のジャスティン(Justin)、それから、これまで聞いたこともなかったような名前、ブライデン(Brayden)。この名前は47番目に人気がある、つまり、20年後には何人ものブライデンに会うことになりそうだということだ。同じように、女の子に人気の名前50位までのうちおよそ半分がa の文字で終わっている、イザベラ(Isabella) のように。どうしてこういったことが起こるのだろう?何故、親たちは赤ちゃんにみんな同じような名前をつけるのだろう?
簡単に言ってしまうと、人はまわりの人の真似をするものだからだ、変わったことをしたがる人はそういないからだ。まるでファッションや音楽の流行が変化していくように、子供の名前の流行も変わるのだ。1980年代に生まれた女の子たちは、y やie で終わる、元気で溌剌とした名前を付けられた―例えば、ティファニー(Tiffany)、やアシュリー(Ashley)、ケイティ(Katie)、ブリタニー(Brittany)。社会学者やジャーナリストはしばしば子供の名前に関する理論を提案するのだが、大概の場合、根拠のない憶測以上のものは打ち立てられないでいる。CBSニュースはかつて、2002年にエマ(Emma)と言う名前が人気があったのは、フレンズというドラマの中でジェニファー・アニストン演じる登場人物が子供に付けたからだと言いきったことがある。ところが、エマという名前は、1980年代から人気が出てきていて、レイチェルとロスがドラマの中で情熱的な夜を過ごす前に、すでに丸々3年間20位以内に入っていたのだ。つまり、フレンズの影響はほとんどなかったと言える。
もう少し掘り下げて考えると、赤ちゃんの名前の流行は少し複雑なものになる。ハーバード大学のローランド・フライヤーしとシカゴ大学のスティーヴン・ラヴィット氏によれば、1970年代までは、黒人も白人も、子供に同じような名前を付けていたが、そのあたりから、病院ではいわゆる黒人っぽい名前がよく見られるようになっていた、例えば、エボニー(Ebony)、シャニース(Shanice)、ダーナル(Darnell)などだ。人種間における名前の住み分けは現在非常に強く、フライヤーしとラヴィット氏が言うには、カリフォルニアで生まれた全てのアフリカ系アメリカ人のうち40%が、どの白人の出生証明書にも記載されていないような名前を与えられている。(研究を簡単にするために、カリフォルニア限定の調査になっている)
地理的要素もまた一因になっているかもしれない。2009年、ヘブライ大学の研究者であるジェイコブ・ゴールデンバーグ氏とモッシュ・レヴィ氏はアメリカ国内でも週によって人気のある名前が違っていることに着目した。親達が住んでいる町や都市や州など、地域で人気のある名前を、子供に付ける傾向があることを発見したのだ。社会保障庁の名前データベースから判断すると、まさにその通りのようだ。イザベラと言う名前は、まず最初にコロラドとロードアイランドで上位5位に入った。コロラドから、カリフォルニア、ネバダ、アリゾナにまで流行が広がった。ロードアイランドからは、マサチューセッツ、ニューヨーク、ニュージャージーに人気の波が押し寄せた。そして今、アメリカ全土で一番人気の名前になった。
しかしなぜ、コロラドとロードアイランドでその人気に火がついたのだろう?それに、1991年にイザベラという名前が、698位から、たった一年の間に210上昇して、突然に、それでもまだあまり一般的でない488位になったのは何があったからなのだろう?残念なことに、実際のところは誰にもわからない。結局は、子供の名前というのは、名付け親の気まぐれの産物なのだ。親達は、世界中のイザベラやエマやマディソンたちに責任があるのだ、独創的な綴りは言うまでもない(Keighty instead of Katie, Danyale instead of Danielle) こういった綴りは、子供達を一生煩わせるに違いない。
Monday, April 19, 2010
Hu's Visit:Finding a Way Forward on U.S.-China Relations
By Joshua Cooper Ramo
http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1978640,00.html
昨年の秋のある日の午後、北京はいつになく湿気の多い日だったが、町の中心部では、デザイナーや兵士、共産党員らが中華人民共和国建国60周年記念式典の準備を完結したという噂が広まっていた。式典は中国が唯一10億人の視聴者に届けられる番組の一つとして全国的に放送される。共産党は、Eternal Peace Street沿いに飛ばす戦闘機飛行隊とミサイルのパレードと、10年に1度の儀式を計画していた。その儀式とは、国家主席が人民服を着て、1950年代型リムジンのサンルーフの上に立ち、紫禁城の周辺を車で周るというものである。その光景は西洋人にとっては幻想的に見える。それはまるでアメリカ大統領が1776年の冬から10年ごとに催される記念祭で三角帽をかぶってデラウェア川を渡るような光景である。しかし、中国人はそのような象徴が重要なのだと考えている。改革がはっきりしない状況で、中国人ははっきりと境界線を引いたのだ。我々が来た方向(過去)を見るのだ。そして我々が向かっている方向(未来)を見据えるのだ。
催しの一つの要素である、夜間の花火打ち上げに取り組んでいる共産党員らは、デザイナーに特別な依頼をした。中国は、党員の悩みどころなのだが、多くのほかの国のようだ。そのような国では、健全な愛国心と国家主義の境界線は、そこに踏み入れるまでわからない。党員が軍事的な刺激を受けて一日を過ごした後、花火打ち上げの夜を過ごすのはあまりに激しすぎるといらいらした。そこで、党員らは頼んだのだった。大きくて、美しく、静かな花火にアレンジできませんか?
静かな花火。中国生活での魅惑と危険について多くを物語るには、一種の要望であった。中国は矛盾で成り立っている国家だ。中国には現在、記録的な経済成長を生み出す考え方と、一方では壮大な環境保全都市計画という市場社会主義の考え方がある。その考え方はまるでヘルシーなチーズバーガーのようだ。中国は、改革時期にうまくやるエリート党員が今、与党である共産党についてかつてないほど大げさに不満を言うような国家なのである。いつもなら魂、野心、奇跡があるのだが、過去と未来の境界線を引き伸ばしている、それが今日の中国なのである。中国はもっと爆発的な変化を望んでいる、まぁ、本物の爆発は起こさずに。
中国とワシントンの間にある悩ましい緊張が続いた過去数ヶ月が我々に思い出させたように、中国がもつ複雑なまた別の野望のため、この全てが重要な意味を持つ。別の野望とは、国際的な仕組みを崩壊させずに中国の地位を向上させることである。そんなこと起こりそうにない。歴史上ほとんどの国家がそのような偉業を成し遂げられなかった。そして、偉業を今成し遂げるために、危険と意外性のある現代で、財政市場から国家保全までのあらゆることが爆発する恐れをなして詰め込まれているような国家がどこにあるのか。そのような冒険が成功につながる多くのチャンスをはらんでいるとは想像し難い。
だからこそ、尋ねる価値がある。実際、バラクオバマは、来たる核安全サミット開催中、中国の胡錦濤国家主席の隣に座っているとき、ワシントンで誰を見ているのか。友好国?敵国?中国がそんなに早急に変化しているという事実を我々は実はまだ知らない。オバマが本当に注目していることは、はるかに重要なことである。つまり、これからの50年間を世界勢力と定める関係を再建するために、力強く、創造的な政治的手腕を行使する機会を狙っている。国際政治の問題は、首尾一貫した中国の戦略なくして解決されない。だから、さらに面白い論点は、胡錦濤の思惑ではなく、オバマの意思であるということだ。オバマは自分が扱っているような人間の明瞭な感覚を持っているか。そして我々の関係性の中にある緊張情勢をどのように形成しているのか。オバマは、できるだけ中国と真の友好関係を築くための権力の使い方をわかっているのか。それとも壊滅的な膠着状態を招いてしまうのか。
Saturday, April 17, 2010
The map that changed the world
世界を変えた地図
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/magazine/8328878.stm
ヴァルトゼーミュラー自身は、後に、自身の地図が1,000枚印刷されるという記録を作ることになった、この数字は時代を考えると実に大したものである。しかし、急速なペースの地理学的発見によって、間もなくヴァルトゼーミュラーの地図は、より新しくより最新式の世界地図にとってかわられて忘れられてしまい、1570年までには人々の記憶からほぼ消え去ってしまっていた。
地図製作者アブラハム・オルテリウスが、その年(1570年)、地図製作者の先駆者たちについてとそれぞれの地図の総覧を出版した際に、ヴァルトゼーミュラーについて言及したが、この偉大な1507年の地図は取り上げていなかった。
残っていた最後の地図
幸運にも、複写が1枚残っていた。1515年から1517年の間のどこかで、ニュルンベルグの数学者ヨハネス・シェーナーがヴァルトザーミュラー地図の複写版を手に入れて特大の二つ折りのフォルダーに挟み込み、自身の参考図書にしていた。
それから数年の間、シェーナーは地図を詳しく調べたが、何十年かが過ぎてより新しい地図が手に入るようになると、シェーナー自身の興味は地理学から天文学へと移ってゆき、ヴァルトゼーミュラー地図を開いてみることもしだいに少なくなっていった。シェーナーはその地図を、1545年に死亡するまで何年ものあいだ開かなかっただろう。その最後に残ったヴァルトゼーミュラー地図の複写は、シェーナーのフォルダーの中で美しいまま保たれ、長いまどろみにつき始めていた―そしておよそ350年もの間再び目覚めることはなかったのだろう。歴史的に貴重なものが時としてそうであるように、その地図は偶然発見された。
1901年の夏、イエズス会の地理学教師であるジョセフ・フィッシャーが南ドイツにあるヴォルフエッグ城の書庫を調べていて偶然シェーナーのフォルダーを見つけ、すぐに何を見つけたのか気がついた。
数ヶ月間、彼の発見は世界を駆け巡った。「待望の地図発見」、と、ニューヨークタイムスのある見出しが1902年3月に報じた。「最古のものとして知られているアメリカという言葉の記録書がついに白日のもとに」と。
その地図は、それから100間ヴォルフエッグの所蔵品のままだった―2003年にアメリカ国会図書館が、1,000万ドルという大金をはたいてヴォルフエッグ城の所有者からその地図を手に入れたことを鳴り物入りで発表するまでは。
この金額はアメリカ国会図書館がその膨大な商品のなかのどれに支払ったよりも高額であった。自信満々に、記者会見の席でアメリカ国会図書館はこの地図のことをアメリカの「出生証明書」だと言った。
金額ほどの価値は?
その金額に見合う価値があったのだろうか?そんな価値はなかったとぼやく有識者たちもいた。ところが最近国会図書館で公開展示されているこの地図は、その分野の研究者も他の分野の研究者も新たな視点から見るようになり、かつて予想されていたよりもずっと意味深く、独特で非常に歴史的な価値のある記録書であることがわかってきた。
ヴァルトゼーミュラー地図には、いくつかの異なる地図の寄せ集めであることが如実に表れていることがわかった:古代ギリシャ・ローマ人によって描かれたようであり、ヨーロッパのキリスト教神学者たちによって図式化されたようでありまた、地中海と大西洋を定期的に往復していた水夫たちによって図表化されたような世界である。
他にもある。例えば、アメリカの国名には、おそらくアメリゴ・ベスプッチに対する敬意だけではなく、「新生」と「どこでもない場所」の2つの意味にとれる異なる言語を組み合わせた語呂合わせも見てとれる―トマス・モアにひらめきを与え、海の向こうの新世界を考えださせた、ふざけた新造語の1つの意味もまた「どこでもない」であった、ユートピアのことである。
この地図自体は他でもないニコラス・コペルニクスその人に強い印象を与えたようでもある。コペルニクスは、代表作である「天体の回転について」の冒頭で、アメリカを、自身が見たヴァルトゼーミュラー地図に描かれていたとおりに記述し、それから第4の大陸(アメリカ)の存在は、地球だけでなく宇宙における従来通りの形を再考しなければならないということを意味するのだと主張した。
最後に残ったヴァルトゼーミュラー地図は、アメリカにその名を与え、ヨーロッパに新大陸の存在を知らせただけでなくコペルニクスが宇宙について再考するのに一役買ってもいたのだ、1,000万ドルはまさに妥当な金額だったようだ。
トビー・レスターはその著書「第4の大陸」において、ヴァルトゼーミュラー地図について述べている、プロフィール・ブックスより出版。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/magazine/8328878.stm
半世紀前に描かれて間もなく忘れ去られていた一枚の地図が、現在我々が知っているのと同じ世界を見せてくれ、またアメリカという国名をつけるのに一役買った。しかし、トビー・レスターが発見したように、世界最強国アメリカの国名は語呂合わせでもあった。
ほぼ500年前の1507年に、マーティン・ヴァルドゼーミュラーとマティアス・リングマンという、東フランスの山岳地方に拠点のある2人の無名なドイツ人研究者たちが、地理学的考察の歴史において、いくつかの最大の飛躍のうちの1つをおこした、実際にはより広義な考察の歴史を変えのた。
「宇宙構造論への誘い」と銘打ったもう1つのの平凡な論文の終わりのほうで、ヴァルトゼーミュラーとリングマンの2人は、世界が古代より知られていたように、アジア、アフリカ、ヨーロッパの3大陸のみで成り立っているのではなかったという驚くべき情報を読者に向けて発信した。これまで発見されていなかった第4の大陸が、イタリア商人であるアメリゴ・ヴェスプッチによって最近発見された、そこでヴェスプッチの功績をたたえて、新大陸をアメリカと命名することにしたと、宣言したのだ。
しかしそれは始まりでしかなかった。ヴァルドゼーミュラーとリングマンが「宇宙構造論への誘い」を執筆したの、実は、彼らの代表作である大きくて革命的な新世界地図への単なる手引書としてであった。この新世界地図こそ1507年のヴァルトゼーミュラー地図として今日知られているものだ。
このヴァルトゼーミュラー地図はかつて(そして今でも)素晴らしく目を見張るものである。コロンブスが最初の大西洋横断をはたした15年後に、横8フィート縦4と1/2フィートという並はずれた大きさのこの地図は、地球の構造について基本的な新しい知識ををヨーロッパの人々に浸透させた。
この地図は膨大にある史上初のものを意味した。アメリカにその名をつけたことに加えて、新大陸を独立した大陸として描いた最初の地図だった ― コロンブスやヴェスプッチや他の昔の探検家たちは、大陸はアジアの極東限までつながっていると終生主張したかもしれないが。
ヴァルトゼーミュラー地図は、探検家フェルディナンド・マゼランが後に太平洋と呼んだものを最初に示唆したものであるが、新世界発見の歴史標準によれば、ヨーロッパの人々が、この時より数年後までは、太平洋地域について知らなかったと考えるとはこれは奇妙な見解である。
世界は4大陸
ヴァルトザーミュラー地図はごく最近ポルトガル人が一周したアフリカ大陸の海岸線全域を表記した最初の記録書である。もしかすると最も重要なことは、経度360度全体を用いて世界地図を配置した最初の地図のうちの1つでもあったということだ。要するに、今日われわれが知っているのとほぼ同じ世界を描いた最初の記録書として、まさに現代の地図の母だったのだ。
1507年から数年のうちに、ヴァルトゼーミュラー地図の複写版が、中央ヨーロッパ中の大学に出回り始めた。大学で講義室に展示され、地理学者や旅行者のような人たちが議論したりして、この世界地図は一般の人たちに4大陸世界の考え方を浸透させた。
ヴァルトゼーミュラー自身は、後に、自身の地図が1,000枚印刷されるという記録を作ることになった、この数字は時代を考えると実に大したものである。しかし、急速なペースの地理学的発見によって、間もなくヴァルトゼーミュラーの地図は、より新しくより最新式の世界地図にとってかわられて忘れられてしまい、1570年までには人々の記憶からほぼ消え去ってしまっていた。
地図製作者アブラハム・オルテリウスが、その年(1570年)、地図製作者の先駆者たちについてとそれぞれの地図の総覧を出版した際に、ヴァルトゼーミュラーについて言及したが、この偉大な1507年の地図は取り上げていなかった。
残っていた最後の地図
幸運にも、複写が1枚残っていた。1515年から1517年の間のどこかで、ニュルンベルグの数学者ヨハネス・シェーナーがヴァルトザーミュラー地図の複写版を手に入れて特大の二つ折りのフォルダーに挟み込み、自身の参考図書にしていた。
それから数年の間、シェーナーは地図を詳しく調べたが、何十年かが過ぎてより新しい地図が手に入るようになると、シェーナー自身の興味は地理学から天文学へと移ってゆき、ヴァルトゼーミュラー地図を開いてみることもしだいに少なくなっていった。シェーナーはその地図を、1545年に死亡するまで何年ものあいだ開かなかっただろう。その最後に残ったヴァルトゼーミュラー地図の複写は、シェーナーのフォルダーの中で美しいまま保たれ、長いまどろみにつき始めていた―そしておよそ350年もの間再び目覚めることはなかったのだろう。歴史的に貴重なものが時としてそうであるように、その地図は偶然発見された。
1901年の夏、イエズス会の地理学教師であるジョセフ・フィッシャーが南ドイツにあるヴォルフエッグ城の書庫を調べていて偶然シェーナーのフォルダーを見つけ、すぐに何を見つけたのか気がついた。
数ヶ月間、彼の発見は世界を駆け巡った。「待望の地図発見」、と、ニューヨークタイムスのある見出しが1902年3月に報じた。「最古のものとして知られているアメリカという言葉の記録書がついに白日のもとに」と。
その地図は、それから100間ヴォルフエッグの所蔵品のままだった―2003年にアメリカ国会図書館が、1,000万ドルという大金をはたいてヴォルフエッグ城の所有者からその地図を手に入れたことを鳴り物入りで発表するまでは。
この金額はアメリカ国会図書館がその膨大な商品のなかのどれに支払ったよりも高額であった。自信満々に、記者会見の席でアメリカ国会図書館はこの地図のことをアメリカの「出生証明書」だと言った。
金額ほどの価値は?
その金額に見合う価値があったのだろうか?そんな価値はなかったとぼやく有識者たちもいた。ところが最近国会図書館で公開展示されているこの地図は、その分野の研究者も他の分野の研究者も新たな視点から見るようになり、かつて予想されていたよりもずっと意味深く、独特で非常に歴史的な価値のある記録書であることがわかってきた。
ヴァルトゼーミュラー地図には、いくつかの異なる地図の寄せ集めであることが如実に表れていることがわかった:古代ギリシャ・ローマ人によって描かれたようであり、ヨーロッパのキリスト教神学者たちによって図式化されたようでありまた、地中海と大西洋を定期的に往復していた水夫たちによって図表化されたような世界である。
他にもある。例えば、アメリカの国名には、おそらくアメリゴ・ベスプッチに対する敬意だけではなく、「新生」と「どこでもない場所」の2つの意味にとれる異なる言語を組み合わせた語呂合わせも見てとれる―トマス・モアにひらめきを与え、海の向こうの新世界を考えださせた、ふざけた新造語の1つの意味もまた「どこでもない」であった、ユートピアのことである。
この地図自体は他でもないニコラス・コペルニクスその人に強い印象を与えたようでもある。コペルニクスは、代表作である「天体の回転について」の冒頭で、アメリカを、自身が見たヴァルトゼーミュラー地図に描かれていたとおりに記述し、それから第4の大陸(アメリカ)の存在は、地球だけでなく宇宙における従来通りの形を再考しなければならないということを意味するのだと主張した。
最後に残ったヴァルトゼーミュラー地図は、アメリカにその名を与え、ヨーロッパに新大陸の存在を知らせただけでなくコペルニクスが宇宙について再考するのに一役買ってもいたのだ、1,000万ドルはまさに妥当な金額だったようだ。
トビー・レスターはその著書「第4の大陸」において、ヴァルトゼーミュラー地図について述べている、プロフィール・ブックスより出版。
Sunday, April 11, 2010
Why Obama in Disappointing Asia-Even in Indonesia
By Hannah Beech / Jakarta
http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1973182,00.html
スニーカーを履き、空中で蝶々をつかみんでいる10才のバラクオバマのブロンズ像は、すぐに観光名所となった。外国人はアメリカ大統領に敬意を表してジャカルタにある国立公園に群がっていた。アメリカ大統領は幼少時代4年間インドネシアの首都に住んでいた。地元住民も訪れるが、彼らは賞賛としてではない。「インドネシア人は大概抗議しに来た。」と公園の管理人Yunusは言う。「地元住民にとってはここに像はいらなかった。」地元オバマのファンクラブがモ像のために1万ドルを集めてから3ヶ月もたたないうちに、像はオバマのかつての学び舎の近くに2月にすぐに移された。「私はオバマに反対しているわけではない。」とProtus Tanuhandaruは述べている。彼はFacebookというHPのインドネシア人創刊者の一人で、Facebook「だが、インドネシアに何も貢献していない人物の像を国定公園に置くのは間違っている。」
自身を、アメリカ初の太平洋大統領と呼んでいるので、予定しているオバマ大統領のインドネシア訪問は、帰郷であると喜ばれることである。何百万のインドネシア人は、Barry Soetoroが、オバマのインドネシアの継父の名だと既に知っているので、彼のことを名誉市民だとみなしている。しかし、オバマ氏が記憶の道筋をたどる時でさえ(続いてオーストラリア訪問が続くが)、幼少期の像の行方からすると、オバマ氏、そしてアメリカがアジアに対して抱いている問題が浮き彫りになるのは明らかである。ジャカルタ市職員がオバマの像を移設するのに暗幕を用いたすぐ後に、アメリカの最高外交特使は、北京で、世界第3位の経済大国との危うい関係をまさに修復しようとしていた。一方、世界第2位の経済国である日本は、アメリカとのより対等な関係(従順ではない)を要求していた。というのも、昨年、半世紀ぶり2度目の政権を握った日本の民主党が、アメリカとの外交政策が密になりすぎていた旧政権を打開すると公約したことが選挙の勝利につながったからなのである。
新しいアジア
アジアでは正当性を主張するリーダーが増加しており、彼らは、アジア大陸が経済的・地勢的勢力を増していることをアメリカが認めるよう要求している。オバマ氏は、アジアとの個人的なつながりにかかわらず、アジアが思っている自己評価ほど、アジアに敬意を払っていないと、多くは感じている。タイは一般的にアメリカ派の国家である。そのタイで最も売れている英字新聞バンコクポストに掲載されている社説で
一般意見を要約したものがこれだ。「オバマ氏のアジアでのアメリカの利益を回復するための望みは、内容よりも会談をもっとこなすことだと今のところ証明している。」
アジアはアメリカにとって重要である。中国は、カナダ、メキシコに次ぐ第3位のアメリカ製品消費国である。第4位の地域は、東南アジア諸国連合(ASEAN)である。ASEANは1960年代に共産主義に対する砦として、アメリカ支援を受けて設立した10カ国からなる連盟である。中国の経済回復力(2009年度はGDPで8.7%増)は、アメリカや他の先進国が世界的金融危機による痛手の更なる悪化を防ぐ手助けとなった。こんな暗雲立ち込める年に、立派な経済成長を計上した経済国って他には主にどこがあるか?インドとインドネシアだ。アジアは、言い換えれば、世界経済を支えているのではないだろうか。そして、その努力を感謝してもらいたいものだ。
オバマは、アジアの重要性について説得しながら演説している。昨年11月、大統領として初めてアジアを訪問した際、オバマはブッシュ政権がワシントンの太平洋同盟国をないがしろにしていたという認識に取り組むことを誓った。「私は各国民にアジアの未来に関わり合いがあると知らせたい。」と東京でオバマ氏は述べた。「なぜならここで起こることが、本国のわれわれの生活に直接影響するからだ。」しかし、それからオバマ政権がアメリカ-アジア貿易の促進を途中でやめ、地域の自由貿易協定の実行をおろそかにした。「我々は、オバマのアジア訪問が、サンタクロースがやってきて、ただわずかな贈り物を贈り、それから飛び去るようなことではないと望んでいる。」とタイの福利通商大臣Alongkorn Ponlabootと言っている。彼は多くのアジア人がアメリカの保護貿易主義だと見抜くことを批判している。「なぜなら、我々がアメリカに必要としていることは、信念と誠意、つまりは偽りのない行動なのだ。」
インドネシアが重要なわけ
インドネシアは、まさにその価値がある。アメリカ人に、地震大国ではなく、地震が起こってもアメリカの利益にとって重要な国であると紹介するためにオバマの訪問は欠くことができない。17000の島からなる諸島、インドネシアは、世界最大のイスラム人口を有していることを誇りにしている。また、世界第3位の民主主義国(インド、アメリカに次ぐ)である。ただし、イスラム教が必ずしも政治的に自由を害していないとするなら。オバマがジャカルタで生活していたころにさかのぼると、ジャカルタではオバマの母は人類学者で救急隊員だったが、インドネシアは独裁者による支配がなされ、貧困に陥っていた。今日、インドネシアは裕福な経済国からなるG-20の名誉ある会員である。インドネシアの多くはまだ貧しい(貧困層は18%にのぼる)一方で、市民の生活を向上させるため、天然ガスや鉱物のような豊富な天然資源が生み出す利益を最終的に用いている。「外国人はかつてはインドネシアを自然災害地域だと思っていた。」とGita Wirjawanは言う。彼は、国家投資委員の委員長で、今年初めにアメリカを訪問し、自国で必死に利益を獲得しようとしていた。「だが、現在彼らはインドネシアが上向きの軌道に乗っている5500億ドルの経済国であることを認識している。」
Sunday, March 28, 2010
The Rise of Extremism in Somalia
http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1966455,00.html
Monday, Mar. 01, 2010
By Alex Perry / Nairobi
ソマリアにおける過激主義の台頭
昨年9月21日夜、南アフリカ駐在アメリカ外交官は、翌日は出勤しないようにという電話を自宅で受けた。国務省当局者はこの警告に関する説明を拒否したが、アフリカにいるある西側の情報部員は、この警告はは、アルカイダ工作員からの電話が、ケープタウン市内にある番号にかかってきた電話が傍受された後に発せられたとTIME誌に教えてくれた ― この電話で、南アフリカにあるアメリカ政府の建物への攻撃について話題になっていた。攻撃はなかったので、3日後、プレトリアにある大使館と3か所の領事館は再開した。しかし、南アフリカは今年の6月と7月のサッカーワールドカップへ、50万人の集客を見込んでいるので、治安当局者たちは当然のことながら神経質になっている。特に、この電話の発信ちが問題になっている。TIME誌が聞いたところによると、それはソマリアからの電話だった。
ソマリアは、テロ対策関係者にとって、最近非常に気がかりな国である。2月1日、シャイフ・ファド・ムハマド・シャンゴールという、アル・シャバブ(若者たちという意味)としてしられていて、アフリカの角と呼ばれる場所にある国の覇権を支配しようと戦っているイスラム原理主義派の指導者が、ウサマ・ビン=ラーディンへの忠誠を公式に宣言した。もしこのことで、アフガンのタリバン政権とビン・ラディンの間にあったかつての関係の記憶を呼び覚まさないとしても、やはり気がかりに違いない。ソマリアとアフガニスタンの両国は1世代以上もの間戦争状態にあった。どちらの戦争も似通った展開を辿ってきた:何年もの軍司令官の反目に続いて起きた中央政権の打倒(1993年、モガディシュで国連使節団を護衛していた米兵18名が死亡したエピソードは、後に、ブラックホークダウンという本と映画の題材になっている)、その後に起こったムーブメント(アフガニスタンのタリバン政権、ソマリアにおけるアルシャバブのこと)が、無政府状態への1つの解決策として、イスラムの過激主義的な考え方を提案した。両国とも貧しく、居住者の多くは、よくそんな感じがするのだが、一用に好んで、あごひげを生やし、AK-47銃を抱え、ピックアップトラックに乗っている男たちである。
何年もの間、両国がアルカイダを受け入れていたころ、アルカイダは、ソマリアの平坦で開けた低木地帯よりもむしろ、アフガニスタンとパキスタンの国境にある近付くのが困難な険しい山々を好んでいるようだった。ソマリアに拠点を置く数人の聖戦兵士は国際的な攻撃を実行した:1998年8月に彼らはナイロビ(ケニア)とタンザニアのダルエスサラームにあるアメリカ大使館を同時に攻撃して224人の命を奪った、それから2002年11月にはケニアの沿岸地域にあるイスラエル人所有のホテル前での自動車爆弾攻撃で13人を犠牲にした。しかし、彼らは9.11規模の攻撃は行わなかった。しかし今、彼らの野望が高まっている恐れがある。このソマリアに関する懸念にもまた地域的側面がある:アデン湾の向こう側はまさにイエメンだ、長い間アルカイダによる攻撃のための準備基地になっていて、ウマル・ファルーク・アブドルタラブという、クリスマスの日にデトロイト行きの飛行機を爆破しようとしたナイジェリア人が訓練を受けていたと思われる場所である。
アルシャバブの長い腕
もし、ソマリアの過激派が国際的な脅威になっているとしたら、彼らの全世界におよぶ指導力がその理由の一部である。戦争がもたらす1つ確かなことは難民である、ソマリアにおける戦争が続く何十年もの間、ケープタウンからミネアポリスにおよぶ様々な場所へ大勢のソマリア人海外移住者が急激に増加した。しかし、アフリカから遠く離れざるを得なかった人々がみんな安全に暮らしていたわけではない。外交情報筋によると、ここ数年は、200人から300人のソマリア系の若者が、アメリカやイギリス、カナダ、オーストラリア、ノルウェイ、スウェーデンから入国している、つまり移民者の子供たちが祖国に戻ってきているのだ。ソマリア駐留の西側兵士が言うには、こういった外国生まれのソマリア人が、今やアルシャバブの中心になっている。「アルシャバブの下部組織は全て1人の外国人が指揮している」と彼は言う。「全ての戦術、戦略的決定は外国人たちによるものだ」
外国への勢力を拡大するために、ソマリア内のアルシャバブ指揮官たちが過激派になりそうな若者を探して海外を周って来るのだと考えられている。FBIは、10名を超えるソマリア系アメリカ人で自宅から消えてアルシャバブに参加している疑惑のある者を追跡しており、11月には14名のソマリアと関係のあるミネソタの男たちをテロ組織を援助したといったような犯罪行為で告発し、そのうち4名は罪を認めている。8月、オーストラリア警察はメルボルンのソマリア系コミュニティにいた5人の男を、シドニー郊外にある軍兵舎攻撃を計画したとして逮捕した。情報部員によると、ケーブタウンにかかってきた9月の電話が傍受されたのは、ケープタウンのソマリア系グループが、アルシャバブへの資金提供疑惑により、既に監視下にあったためである。「ソマリアを優先的脅威だと断定する時期を待っている時に、他に何が必要なのだ?」と、ソマリア駐留の西側の兵士に尋ねた。「ソマリア南部が聖戦士の出動可能な配備基地になるかもしれないという深刻な危険は、もはやない。すでに実戦可能だからだ。」
それでどう対応するのか?ソマリアでは、当局は名目上、西側諸国との実利的なかかわりを説くイスラム原理主義者が主導する暫定連邦政府の支配下にある。この暫定連邦政府は、アフリカにおけるアメリカの主要な同盟国であるエチオピアから持ち込まれたもので、2006年にその勢力がソマリアに及び、ソマリアより大きくてよりキリスト教勢力の強い西側の同胞であるエチオピアに対して、愚かにも聖戦を布告した旧イスラム教主義政府を打倒した後のことだ。ところが、暫定連邦政府当局者の多くは実際にはナイロビに住んでいるようだ。(例外の中にいるのは、シェイク・シャリフ・アフマド大統領とユスフ・モハメッド・シアド国防大臣である、この大臣は老練の軍指揮官で、2月15日にモガディシュで起こった自爆テロ暗殺攻撃による難を逃れていた)5,300人のアフリカ連合部隊(主に、ウガンダ人とブルジア人からなる)による防衛にもかかわらず、暫定連邦政府は実際には、モガディシュの数ブロックを規制しているだけである。「シャバブを無力化させるために」と情報当局者は言う「実際に機能する政府が必要だ。それはまさに欠けているものなんだ。」
アフリカの外側からの対応は統制がない。いくつか財政的援助がるが、そのほとんどはアメリカからのものだ(アフリカ連合平和維持軍はこれまで1億6千万ドルを費やしてきた)2007年に、エチオピア側に特殊作戦部隊を送り(アメリカ側を支援するソマリア国会議員のアブディラシッド・モハメッド・ヒディングが言うには)10名から20名の外国人兵士を捕らえた。アメリカ国防総省広報によれば、その後でアメリカは少なくとも6回の空襲をソマリア国内で行った、アルシャバブ指導者であるアデン・ハッシ・ファラハ・アヨロは、2008年5月のミサイル攻撃を被弾し死亡、2002年のケニア攻撃の指導者であったサレフ・アリ・サレフ・ナブハンは昨年9月の米軍武装ヘリコプターにより殺害された。アメリカは他国からの軍事的援助を受けていなかった、しかしながら、ソマリアの長期にわたる人道的危機への取り組みを助けるために一部の国が援助した。海賊行為とそれが引き起こす国際貿易への脅威だけが、世界中の軍事力の協調を生み出した。現在20を超える国々からの艦隊が、アデン湾とインド洋で海賊を追跡し、商船を護衛している。
つまり、ソマリアからの脅威は全体的に捕えておく必要がある。アルシャバブはタリバンよりはるかに小さい。「L.A.にはもっと大きなギャングがいる」と、諜報部当局者は言う。派閥争いをする傾向があり、一般のソマリア人から援助を募るのは困難である。国連の発表によると、アルシャバブは、金品および武器を中東やエリトリア政府から受け取っている。(アルシャバブはエチオピアと対立しており、エチオピアはエリトリアの敵) しかしそういった援助は、パキスタンやアフガニスタンにいる過激派グループが世界中にいるイスラム過激派から受けていた援助と比較すると少ない。ついに、ソマリアが、アフリカの角を超える大規模な紛争に火をつける危険性は(エチオピア、エリトリア、そしてケニアまでも巻き込んでの)現実のものとなったが、これもまた、アフガニスタン近隣で起こっている程のものではない。ケニア駐在のアメリカ大使マイケル・レンヌバーガー氏が辛抱強く指摘し続けるのは、ソマリアの隣国はどこも核武装していないことである。「われわれはその違いに少し警戒している」と彼は言う。
しかし、この非対称なテロ算出による小さな数が重要なのではなくて、ダメージを与えようという考えこそが問題なのだ。レンヌバーガー氏が認めたように、ソマリアが何も変わらないのは「状況がより悪くなっている」ことを意味している。ますます厳しくなるアルシャバブへの対応が懸念されている。アフリカ連合平和維持軍は、モガディシュ市内に「安全地帯」を作ろうとして規模を拡大している。このところ何百人ものアルシャバブ戦士が、暫定政府の攻撃態勢を見越して、モガディシュに流れ込んできている。ウガンダ大統領ヨウェリ・ムザベリは、ソマリアを侵攻し、キスマユ南部の港を占領してアルシャバブとの闘いに利用しようという提案を推し進めてきた。1993年にあった悲惨な第三者介入の記憶がいまだ鮮明に残っているので、その提案はかつてのようにアメリカから多くの援助を受けようというものではないようだ。しかし、これは棚上げになっている問題をソマリアが刺激するのではないかという高まる懸念に対する1つの手段なのだ。
http://www.time.com/time/photogallery/0,29307,1653255,00.html
Monday, Mar. 01, 2010
By Alex Perry / Nairobi
ソマリアにおける過激主義の台頭
昨年9月21日夜、南アフリカ駐在アメリカ外交官は、翌日は出勤しないようにという電話を自宅で受けた。国務省当局者はこの警告に関する説明を拒否したが、アフリカにいるある西側の情報部員は、この警告はは、アルカイダ工作員からの電話が、ケープタウン市内にある番号にかかってきた電話が傍受された後に発せられたとTIME誌に教えてくれた ― この電話で、南アフリカにあるアメリカ政府の建物への攻撃について話題になっていた。攻撃はなかったので、3日後、プレトリアにある大使館と3か所の領事館は再開した。しかし、南アフリカは今年の6月と7月のサッカーワールドカップへ、50万人の集客を見込んでいるので、治安当局者たちは当然のことながら神経質になっている。特に、この電話の発信ちが問題になっている。TIME誌が聞いたところによると、それはソマリアからの電話だった。
ソマリアは、テロ対策関係者にとって、最近非常に気がかりな国である。2月1日、シャイフ・ファド・ムハマド・シャンゴールという、アル・シャバブ(若者たちという意味)としてしられていて、アフリカの角と呼ばれる場所にある国の覇権を支配しようと戦っているイスラム原理主義派の指導者が、ウサマ・ビン=ラーディンへの忠誠を公式に宣言した。もしこのことで、アフガンのタリバン政権とビン・ラディンの間にあったかつての関係の記憶を呼び覚まさないとしても、やはり気がかりに違いない。ソマリアとアフガニスタンの両国は1世代以上もの間戦争状態にあった。どちらの戦争も似通った展開を辿ってきた:何年もの軍司令官の反目に続いて起きた中央政権の打倒(1993年、モガディシュで国連使節団を護衛していた米兵18名が死亡したエピソードは、後に、ブラックホークダウンという本と映画の題材になっている)、その後に起こったムーブメント(アフガニスタンのタリバン政権、ソマリアにおけるアルシャバブのこと)が、無政府状態への1つの解決策として、イスラムの過激主義的な考え方を提案した。両国とも貧しく、居住者の多くは、よくそんな感じがするのだが、一用に好んで、あごひげを生やし、AK-47銃を抱え、ピックアップトラックに乗っている男たちである。
何年もの間、両国がアルカイダを受け入れていたころ、アルカイダは、ソマリアの平坦で開けた低木地帯よりもむしろ、アフガニスタンとパキスタンの国境にある近付くのが困難な険しい山々を好んでいるようだった。ソマリアに拠点を置く数人の聖戦兵士は国際的な攻撃を実行した:1998年8月に彼らはナイロビ(ケニア)とタンザニアのダルエスサラームにあるアメリカ大使館を同時に攻撃して224人の命を奪った、それから2002年11月にはケニアの沿岸地域にあるイスラエル人所有のホテル前での自動車爆弾攻撃で13人を犠牲にした。しかし、彼らは9.11規模の攻撃は行わなかった。しかし今、彼らの野望が高まっている恐れがある。このソマリアに関する懸念にもまた地域的側面がある:アデン湾の向こう側はまさにイエメンだ、長い間アルカイダによる攻撃のための準備基地になっていて、ウマル・ファルーク・アブドルタラブという、クリスマスの日にデトロイト行きの飛行機を爆破しようとしたナイジェリア人が訓練を受けていたと思われる場所である。
アルシャバブの長い腕
もし、ソマリアの過激派が国際的な脅威になっているとしたら、彼らの全世界におよぶ指導力がその理由の一部である。戦争がもたらす1つ確かなことは難民である、ソマリアにおける戦争が続く何十年もの間、ケープタウンからミネアポリスにおよぶ様々な場所へ大勢のソマリア人海外移住者が急激に増加した。しかし、アフリカから遠く離れざるを得なかった人々がみんな安全に暮らしていたわけではない。外交情報筋によると、ここ数年は、200人から300人のソマリア系の若者が、アメリカやイギリス、カナダ、オーストラリア、ノルウェイ、スウェーデンから入国している、つまり移民者の子供たちが祖国に戻ってきているのだ。ソマリア駐留の西側兵士が言うには、こういった外国生まれのソマリア人が、今やアルシャバブの中心になっている。「アルシャバブの下部組織は全て1人の外国人が指揮している」と彼は言う。「全ての戦術、戦略的決定は外国人たちによるものだ」
外国への勢力を拡大するために、ソマリア内のアルシャバブ指揮官たちが過激派になりそうな若者を探して海外を周って来るのだと考えられている。FBIは、10名を超えるソマリア系アメリカ人で自宅から消えてアルシャバブに参加している疑惑のある者を追跡しており、11月には14名のソマリアと関係のあるミネソタの男たちをテロ組織を援助したといったような犯罪行為で告発し、そのうち4名は罪を認めている。8月、オーストラリア警察はメルボルンのソマリア系コミュニティにいた5人の男を、シドニー郊外にある軍兵舎攻撃を計画したとして逮捕した。情報部員によると、ケーブタウンにかかってきた9月の電話が傍受されたのは、ケープタウンのソマリア系グループが、アルシャバブへの資金提供疑惑により、既に監視下にあったためである。「ソマリアを優先的脅威だと断定する時期を待っている時に、他に何が必要なのだ?」と、ソマリア駐留の西側の兵士に尋ねた。「ソマリア南部が聖戦士の出動可能な配備基地になるかもしれないという深刻な危険は、もはやない。すでに実戦可能だからだ。」
それでどう対応するのか?ソマリアでは、当局は名目上、西側諸国との実利的なかかわりを説くイスラム原理主義者が主導する暫定連邦政府の支配下にある。この暫定連邦政府は、アフリカにおけるアメリカの主要な同盟国であるエチオピアから持ち込まれたもので、2006年にその勢力がソマリアに及び、ソマリアより大きくてよりキリスト教勢力の強い西側の同胞であるエチオピアに対して、愚かにも聖戦を布告した旧イスラム教主義政府を打倒した後のことだ。ところが、暫定連邦政府当局者の多くは実際にはナイロビに住んでいるようだ。(例外の中にいるのは、シェイク・シャリフ・アフマド大統領とユスフ・モハメッド・シアド国防大臣である、この大臣は老練の軍指揮官で、2月15日にモガディシュで起こった自爆テロ暗殺攻撃による難を逃れていた)5,300人のアフリカ連合部隊(主に、ウガンダ人とブルジア人からなる)による防衛にもかかわらず、暫定連邦政府は実際には、モガディシュの数ブロックを規制しているだけである。「シャバブを無力化させるために」と情報当局者は言う「実際に機能する政府が必要だ。それはまさに欠けているものなんだ。」
アフリカの外側からの対応は統制がない。いくつか財政的援助がるが、そのほとんどはアメリカからのものだ(アフリカ連合平和維持軍はこれまで1億6千万ドルを費やしてきた)2007年に、エチオピア側に特殊作戦部隊を送り(アメリカ側を支援するソマリア国会議員のアブディラシッド・モハメッド・ヒディングが言うには)10名から20名の外国人兵士を捕らえた。アメリカ国防総省広報によれば、その後でアメリカは少なくとも6回の空襲をソマリア国内で行った、アルシャバブ指導者であるアデン・ハッシ・ファラハ・アヨロは、2008年5月のミサイル攻撃を被弾し死亡、2002年のケニア攻撃の指導者であったサレフ・アリ・サレフ・ナブハンは昨年9月の米軍武装ヘリコプターにより殺害された。アメリカは他国からの軍事的援助を受けていなかった、しかしながら、ソマリアの長期にわたる人道的危機への取り組みを助けるために一部の国が援助した。海賊行為とそれが引き起こす国際貿易への脅威だけが、世界中の軍事力の協調を生み出した。現在20を超える国々からの艦隊が、アデン湾とインド洋で海賊を追跡し、商船を護衛している。
つまり、ソマリアからの脅威は全体的に捕えておく必要がある。アルシャバブはタリバンよりはるかに小さい。「L.A.にはもっと大きなギャングがいる」と、諜報部当局者は言う。派閥争いをする傾向があり、一般のソマリア人から援助を募るのは困難である。国連の発表によると、アルシャバブは、金品および武器を中東やエリトリア政府から受け取っている。(アルシャバブはエチオピアと対立しており、エチオピアはエリトリアの敵) しかしそういった援助は、パキスタンやアフガニスタンにいる過激派グループが世界中にいるイスラム過激派から受けていた援助と比較すると少ない。ついに、ソマリアが、アフリカの角を超える大規模な紛争に火をつける危険性は(エチオピア、エリトリア、そしてケニアまでも巻き込んでの)現実のものとなったが、これもまた、アフガニスタン近隣で起こっている程のものではない。ケニア駐在のアメリカ大使マイケル・レンヌバーガー氏が辛抱強く指摘し続けるのは、ソマリアの隣国はどこも核武装していないことである。「われわれはその違いに少し警戒している」と彼は言う。
しかし、この非対称なテロ算出による小さな数が重要なのではなくて、ダメージを与えようという考えこそが問題なのだ。レンヌバーガー氏が認めたように、ソマリアが何も変わらないのは「状況がより悪くなっている」ことを意味している。ますます厳しくなるアルシャバブへの対応が懸念されている。アフリカ連合平和維持軍は、モガディシュ市内に「安全地帯」を作ろうとして規模を拡大している。このところ何百人ものアルシャバブ戦士が、暫定政府の攻撃態勢を見越して、モガディシュに流れ込んできている。ウガンダ大統領ヨウェリ・ムザベリは、ソマリアを侵攻し、キスマユ南部の港を占領してアルシャバブとの闘いに利用しようという提案を推し進めてきた。1993年にあった悲惨な第三者介入の記憶がいまだ鮮明に残っているので、その提案はかつてのようにアメリカから多くの援助を受けようというものではないようだ。しかし、これは棚上げになっている問題をソマリアが刺激するのではないかという高まる懸念に対する1つの手段なのだ。
http://www.time.com/time/photogallery/0,29307,1653255,00.html
Tuesday, March 16, 2010
The Next American Century
By Andres Martinez
1949年、アメリカが第二次世界大戦に参戦する前に、この雑誌の共同創刊者Henry Luceは、LIFEの中で不幸なアメリカ人は不干渉主義に対する活気のない主張に当惑しており、そんなアメリカ人に、最初の偉大なアメリカの時代―いいかい、あくまでも最初であり、最後ではない―を築くよう説いた論文を書いた。私たちは今、より一層際立ってアメリカの時代になるであろう2期目の10年間に差し掛かっている。実際、世界のアメリカ化は過去よりもはるかに予測可能な未来を特徴付けるだろう。
ブランドアメリカがこの10年で大成功を収めたのは事実である。世界の超大国は自国の選挙と海外の占拠にしくじった。アメリカ自慢の金融市場は10年間の早い段階で概算により悪化し、さらにその後の世界的経済危機の引き金となった。それはウォール街が一度で危機を回避していたという借入額の多い賭けが原因だった。これらの過失全てが、アメリカの信頼性に不利な影響を与えたが、正当かどうかはあるが、アメリカがひどく広範囲にわたる過失を抱えているということを思い出させるものでもあった。また、経済混乱の時代が唯一、アメリカの他に負けない利点を強調しているのである。その利点とは、アメリカの俊敏さと適応力。
世界人口のたった5%の人口で、アメリカは世界の経済産出量の1/4を占めている。世界経済危機がG-7(またはG8、誰が計上しているかによる)からG20へ拡大していったときでさえ、どの参入国もアメリカのやり方に対して強固に異議を申し出る国はいなかった。むしろ、参入国は確実にアメリカが自国の規律に従うことを望んでいるのである。ギリシャの負債危機によって通貨同盟が政治的・財政的一貫性に欠ける危険性があることが明らかになると、世界の基軸通貨であるドルの地位が唯一強化された。中国は表向きはアメリカに次ぐ経済大国であるが、私有資産に欧米の概念を取り入れる方向に向かって動き始めている。一方、北京では数十億ドル分の財務省短期証券を買い上げることでアメリカの将来に投資している。中国、ブラジル、インド諸国で、中流階級社会における消費者保護運動家が増加していることがより安定な世界を生まれており、それがアメリカ製品や文化に新たな市場を生み出すことは言うまでもないだろう。
その上、経済評論家がアメリカの衰退について公然と非難し続けている。これは今に始まったことではない。1988年まで遡ると、ポール・ケネディの著書「大国の亡命」がベストセラーとなると、ケネディ氏はアメリカがあちこち手を出しすぎる危険を冒していると(念頭に置くというより回避すべきだと)しきりに警告している。その危険は昔から続いているやっかいな事実なのである。というのも、アメリカが世界から受けている関心や責務を全てあわせると、今日では、同時に全てを防御するだけの国力をはるかに超えているからである。
では、次に何が起こったのか? ベルリンの壁が崩壊し、世界中の多くの国が市場資本主義を採用した。アメリカは世界に恐れをなし、アメリカの文化的優位性を強化すべく革新的な新技術を導入して世界をオンライン化した。一方、アメリカ支配による平和に対する維持費は極めて少なくなっている。アメリカにはアフガニスタンとイラクに関する2つの長期遂行中の公約があるにもかかわらず、海外に派遣予定又は派遣済みの288000人のアメリカ軍兵士とGDPの4.6%を占める防衛予算は、戦後の底値に近い数字となった(1987年に類似の数字を出しており、その数字は524000人の海外派遣軍兵士とGDPの6%を超過するほどの防衛予算)。そして、この歴史的に少ない投資のおかげで、軍が次に挙げる締結国9カ国に費やすことができなくなった。
依然として、我々は自国の地位に大いに悩まされている。これは部分的にはいいことである。自己満足を打開できるという点では。しかし、最近の他国の財政力をしぶしぶ認めるとなると悪いことになる。何百万のインド人や中国人が繁栄の味を覚えて始めているという事実がまずかった。アメリカの気分を害してしまったのである。
与えられた観点から、アメリカの権力と影響力を測定するには2つの方法がある。アメリカがそれ以外の国よりどれだけ裕福かという観点から権力と影響力を単純に測定すると、世界中の多くの国が荒廃した1945年は、アメリカにとっては明らかに最盛期であっただろう。第二次世界大戦終結時に、アメリカは世界の工業輸出品の1/3を占めていた。そして、その基準の下で、ヨーロッパの失われた優れた技術を修復することを目的とした、マーシャルプランは後に間違いを起こすことになってしまった。その計画がアメリカの世界マーケットシェアを崩壊させる運命になったからだ。
しかし、アメリカの影響力と権力を測定するよりふさわしい方法は、世界の中での国の財力と財政支配を結合することで見えてくる。1941年に戻ると、Luceはこう記している。「アメリカンジャズ、ハリウッド映画、アメリカンスラグ、アメリカ製の機器、特許製品らは、実際ZanzibarからHamburgまで世界中のあらゆる
地域が共通で認識している唯一のものである」。彼はわからなかった。アメリカに住んでいる人々と同じだけ中国で英語を勉強している(又はバスケットボールをしている)人がたくさんいる時代において、世界中でテレビ番組10作品のうち7つは、アメリカ製である。アバターは中国で史上最高収益を上げた。世界ではかつてないほどアメリカブランドが定着している。マクドナルドからナイキにいたるアメリカの多国籍企業はその総収益を半分以上海外で計上している。もし、ナイジェリア、スウェーデン、南アメリカ、アルゼンチンの10代の子供-ランダムに選んだ4人組-を一緒に連れて行き、ある地域に4人を一緒にしておくとアメリカ文化になるのである。つまり、音楽、ハリウッド上映作品、電子ゲーム、Google、アメリカの消費ブランドで満たされる。彼らが共通にやりそうで、アメリカでは盛んではない唯一のものといったらサッカーに対する興味くらいだ。世界のほかの国がアメリカにより近づくようになるという事実は、良くも悪くも、どれだけアメリカに浸かっているかということを強調するのである。明らかにアメリカ特別主義という概念が腐敗していても関係ないのだ。
Sunday, February 21, 2010
J.D.Salinger Dies at 91: The Hermit Crab of American Letters
J.D.サリンジャー氏91歳で死去:アメリカ文学界のヤドカリ
http://www.time.com/time/arts/article/0,8599,1957492,00.html
By Richard Lacayo Friday, Jan. 29, 2010
「ライ麦畑でつかまえて」の著者J.D.サリンジャー氏、2010年1月27日、ニューハンプシャー州コーニッシュの自宅にて老衰のため死去。91歳であった。
イブニング・スタンダード紙より
書棚から、簡素な数冊のペーパーバックを取り出すと、J.D.サリンジャーの作品(一遍の小説と3巻の短編集)を全部片手でつかめるだろう。彼のお気に入りの作家たち(大昔の詩だけで知られているサッポーや、17音節で俳句を作った日本の詩人達)と同様、サリンジャーは、ほんのわずかな作品に纏わる栄誉で知られる作家だった。1948年に最初に出版された作品について、本人は、ニューヨーカー誌に掲載されてもよい出来栄えだと思っていた。それから17年後、最後の作品をニューヨーカー誌に掲載して日よけを下ろしてしまった。
その日から、ニューハンプシャー州コーニッシュの自宅で1月27日に91歳で亡くなるまでの間、サリンジャーはアメリカ文学界のヤドカリだった。世間に姿を見せるのは、大概、誰かが自分の貝殻をつついたと不平をいう時だった。サリンジャー特有の名声辞退は、次第に、彼の作品と同じくらい重要だと判るかもしれない。1960年代、コーニッシュの小さな家に隠居した彼は、有名人としての暮らしを拒んだ。トーマス・ピンチョンはそういった意味ではほぼ間違いなくサリンジャーの後継者であるが、ピンチョンはウィンク1つと一度のチェシャ猫の薄笑いを見せて世界に背を向けるやり方をあみ出していた。サリンジャーのやり方は睨み付けることだった。さらにまた、サリンジャーはある考えをひねり出すと、発案者の汗まみれの熱心さでもってそこに傾倒していった。
サリンジャー唯一の小説、ライ麦畑でつかまえては1951年に出版されてから徐々に、サリンジャーをうんざりさせるような地位に登りつめた。数十年の間、この小説は、世界中で青春の通過儀礼だったし、怒れる若者の声明文だった。(時として死を招くほどの怒りもあった:1980年にジョン・レノンを射殺したマーク・デイヴィッド・チャップマンは犯行後に、サリンジャー作品を読むことを宣伝するために犯行を犯したと発言した。その数ヵ月後、ジョン・ヒンクリーがロナルド・レーガン大統領を狙撃するために出かけたとき、ホテルの彼の部屋にはサリンジャーの本が一冊残されていた。)しかし、何百万もの頭がおかしくなっていなかった人たちにとってさえ重要だったのは、ホールデン・コールフィールド、サリンジャーが生み出した、不機嫌で憧れの強い(そしてほぼ間違いなく躁うつ病の)若き主人公が怒れる若者の原型だったということだ。コールフィールドが、皮肉屋の鎧に包まれた傷つきやすい性格でもあるということは、彼自身をより魅力的にした。ジェイムズ・ジョイスやアーネスト・ヘミングウェイもまた、不機嫌な若者を生み出した。だが、サリンジャーがコールフィールドを生み出したちょうどその頃、アメリカのティーンエイジ文化が生まれたばかりだった。反抗的な若者の世代丸ごと1つが、ある特定の反抗的な若者になった。
サリンジャーは、シャーウッド・アンダーソンや、イサク・ディネーセン、F.スコットフィッツジェラルド、それから特にリング・ラードナーから引用したので、サリンジャー作品の登場人物は、こういった人たちの作品中のワルみたいに早口で、日常的なことを話したり、時には、深刻な問題を早口で話し合ったりするのだが、これを、数年後のウッディ・アレン映画に登場するニューヨークっ子たちが引き継いでいる。しかし、サリンジャーはそういったことを全部何か新しいものに変えていった、その雰囲気は、世俗的なものと宗教的なものからとか、この世のものとこの世のものではないものから、有頂天と気だるさから引用したものだ。例のグラス家の7人兄弟(芸能人と聖職者が入り混じった複雑な構成のグラス家は、サリンジャーのもう一つの不朽の創造物である)が、サリンジャー自身の様々な面の集合写真を構成していると見なすのが一般的である。7人それぞれがサリンジャーの異なる特徴を映しだしている:作家と俳優、出世を望むものと研究者、宗教的熟練者とずっこけた馬鹿者。それが事実だということは十分ありうる。サリンジャーは誰にも確かめられないようにしてしまった。ホールデン・コールフィールドが言うには、「絶対に誰にも何にも言うな」。このセリフはサリンジャーの言葉かもしれない。
ジェローム・デイヴィッド・サリンジャーは1919年1月1日、ニューヨークで生まれた。母親はスコットランド生まれのプロテスタントだったが、ユダヤ教徒の義理の家族に合わせるため、マリーという名をミリアムと改名した。父親であるソロモンは、食品輸入業者であり、サリンジャーが13歳になった頃、家族でパーク・アベニューに引越し、成績の悪かったサリンジャーをマンハッタンの私立学校に入学させられるほど成功していた。サリンジャーは2年で退学になった。それからフィラデルフィア郊外にある、ヴァレー・フォージ・ミリタリー・アカデミーに送り込まれた。この学校が、後にペンスィ―・プレップ、つまりコーンフィールドが逃げ出した学校のモデルになったようだ。
ヴァレー・フォージを卒業後、サリンジャーはいくつかの学校から逃げ出している。ニューヨーク大学を中退するまでには、2セメスターをやっと修めただけだった。父親は、サリンジャーを家業に参加させようと決め、ハムについて色々と学ばせるためにオーストリアやポーランドに連れて行った。「結局あの人たちは、2か月もかけて、ブィドゴシュチュまで僕を引きずって行ったんだ。」とサリンジャーは後年に書き残している。「そこでは、僕はブタを解体して、大きな解体熟練者と一緒に雪の中を運んだんだ。」ハムはサリンジャーの未来ではなかった。アメリカに戻って、また別の学校に気乗りしないまま挑戦した、今度はペンシルバニア州の田舎町にあるウルジヌス大学だった。サリンジャーは1セメスターを終えると、ずるずるとマンハッタンに戻ってきた。
この頃までに、サリンジャーは曖昧な目標を心に抱いていた:作家になりたかったのだ。1939年の秋に、ウィット・バーネットが教鞭をとる、コロンビア大学の作家養成講座に参加した、バーネット氏は、評価の高い小さな文芸誌で、ウィリアム・サローヤンやジョセフ・ヘラ―、カーソン・マッカラーズらを排出したストーリー誌の創設者であり、編集者だった。バーネットはすぐに教え子サリンジャーの才能に注目し、サリンジャーの作品は最初にストーリー誌に掲載するように取り計った。1940年3-4月号のストーリー誌は、後にサリンジャー作品に登場することになる若者たちの原型である、とあるパーティでの大学生たちを辛辣に描写した短編 "若者たち" を掲載した。
その後数カ月の間、サリンジャーは、コリアーやエクスカイア―のような大衆雑誌に取り上げられ、夢見ていたニューヨーカー誌に、気をもませる書き下ろし作品を掲載し、単にプロの作家ではなく芸術家でもあることを証明した。
1942年4月、真珠湾攻撃の4ヶ月後に、サリンジャーは招集された。最終的に、ナチ協力疑惑のある人を尋問するようなことをするためにアメリカ兵を訓練していた、米軍諜報部隊の一員として船でイギリスに移送された。サリンジャーは小さなタイプライターをいつも持っていて、ヨーロッパ中を持って歩き、いつも書いていた。作戦決行日には、歩兵連隊の隊員としてノルマンディに上陸した。8月までに、サリンジャーの連隊はパリまで進軍し、そこからドイツまで強硬進軍した。その秋と冬には、1カ月も続く、凍える、泥だらけで地雷だらけの森の中での激闘だったヒュルトゲン森の闘いを含む、いくつかの最も恐ろしい軍事作戦に参加したようだ。
戦時中に、サリンジャーに何があったのかはあまりよく知られていない。しかし、悩ましい伝記作家である、イアン・ハミルトン(サリンジャーはハミルトンが自分の文章を引用できないように裁判を起こし勝訴している)は、戦後まもなく、サリンジャーが神経衰弱になったと考えている。ハミルトンの著書 "J.D.サリンジャーをつかまえて" の中で、1945年にサリンジャーが、一年前にパリで出会ったヘミングウェイに宛てて書いた手紙を紹介している、手紙の中でサリンジャーは、軍を離れて、ニュルンブルグの病院で、精神障害を引き起こすかもしれない症状の治療を受けていたことに触れている。もしそうだだったのだとすれば、彼の作品である、ある種の入院の後で、"精神を無傷に保とう" と苦しむ米兵について描かれた優れた、そして複雑な物語 "エズムへ、愛と堕落をこめて" の中心にいるのはサリンジャー自身だったことは確実である。その年の9月、サリンジャーはなにか、もしかすると安定剤に頼っている男の行動かもしれないような奇妙なことをしでかした:ドイツ在住のフランス人女性と、突然結婚したのだ。サリンジャーは、翌春、アメリカに帰国する時に彼女を連れて帰って来たのだが、その後まもなく、我々には解らない何らかの理由で、彼女はフランスに帰国し、結婚は解消された。
ニューヨークに戻り、また両親と暮らし始めたサリンジャーは、1日中執筆する生活に戻り、ようやく、ニューヨーカー誌の高い壁を越えた。1946年、ニューヨーカー誌は、かつておざなりに扱っていた、ホールデン・コールフィールドの物語を掲載した。2年後、サリンジャーはニューヨーカー誌に正式な作家として取り上げられ、6か月に3篇の作品を発表した。その時からずっと、サリンジャーは他の何処にも自分の作品を掲載していない。そして、1953年の短編集 "ナインストーリーズ" 中の2作品は別として、彼は他のところでかつて発表した作品に背を向けてしまい、自分の作品集に収めることを決して許さなかった。
http://www.time.com/time/arts/article/0,8599,1957492,00.html
By Richard Lacayo Friday, Jan. 29, 2010
「ライ麦畑でつかまえて」の著者J.D.サリンジャー氏、2010年1月27日、ニューハンプシャー州コーニッシュの自宅にて老衰のため死去。91歳であった。
イブニング・スタンダード紙より
書棚から、簡素な数冊のペーパーバックを取り出すと、J.D.サリンジャーの作品(一遍の小説と3巻の短編集)を全部片手でつかめるだろう。彼のお気に入りの作家たち(大昔の詩だけで知られているサッポーや、17音節で俳句を作った日本の詩人達)と同様、サリンジャーは、ほんのわずかな作品に纏わる栄誉で知られる作家だった。1948年に最初に出版された作品について、本人は、ニューヨーカー誌に掲載されてもよい出来栄えだと思っていた。それから17年後、最後の作品をニューヨーカー誌に掲載して日よけを下ろしてしまった。
その日から、ニューハンプシャー州コーニッシュの自宅で1月27日に91歳で亡くなるまでの間、サリンジャーはアメリカ文学界のヤドカリだった。世間に姿を見せるのは、大概、誰かが自分の貝殻をつついたと不平をいう時だった。サリンジャー特有の名声辞退は、次第に、彼の作品と同じくらい重要だと判るかもしれない。1960年代、コーニッシュの小さな家に隠居した彼は、有名人としての暮らしを拒んだ。トーマス・ピンチョンはそういった意味ではほぼ間違いなくサリンジャーの後継者であるが、ピンチョンはウィンク1つと一度のチェシャ猫の薄笑いを見せて世界に背を向けるやり方をあみ出していた。サリンジャーのやり方は睨み付けることだった。さらにまた、サリンジャーはある考えをひねり出すと、発案者の汗まみれの熱心さでもってそこに傾倒していった。
サリンジャー唯一の小説、ライ麦畑でつかまえては1951年に出版されてから徐々に、サリンジャーをうんざりさせるような地位に登りつめた。数十年の間、この小説は、世界中で青春の通過儀礼だったし、怒れる若者の声明文だった。(時として死を招くほどの怒りもあった:1980年にジョン・レノンを射殺したマーク・デイヴィッド・チャップマンは犯行後に、サリンジャー作品を読むことを宣伝するために犯行を犯したと発言した。その数ヵ月後、ジョン・ヒンクリーがロナルド・レーガン大統領を狙撃するために出かけたとき、ホテルの彼の部屋にはサリンジャーの本が一冊残されていた。)しかし、何百万もの頭がおかしくなっていなかった人たちにとってさえ重要だったのは、ホールデン・コールフィールド、サリンジャーが生み出した、不機嫌で憧れの強い(そしてほぼ間違いなく躁うつ病の)若き主人公が怒れる若者の原型だったということだ。コールフィールドが、皮肉屋の鎧に包まれた傷つきやすい性格でもあるということは、彼自身をより魅力的にした。ジェイムズ・ジョイスやアーネスト・ヘミングウェイもまた、不機嫌な若者を生み出した。だが、サリンジャーがコールフィールドを生み出したちょうどその頃、アメリカのティーンエイジ文化が生まれたばかりだった。反抗的な若者の世代丸ごと1つが、ある特定の反抗的な若者になった。
サリンジャーは、シャーウッド・アンダーソンや、イサク・ディネーセン、F.スコットフィッツジェラルド、それから特にリング・ラードナーから引用したので、サリンジャー作品の登場人物は、こういった人たちの作品中のワルみたいに早口で、日常的なことを話したり、時には、深刻な問題を早口で話し合ったりするのだが、これを、数年後のウッディ・アレン映画に登場するニューヨークっ子たちが引き継いでいる。しかし、サリンジャーはそういったことを全部何か新しいものに変えていった、その雰囲気は、世俗的なものと宗教的なものからとか、この世のものとこの世のものではないものから、有頂天と気だるさから引用したものだ。例のグラス家の7人兄弟(芸能人と聖職者が入り混じった複雑な構成のグラス家は、サリンジャーのもう一つの不朽の創造物である)が、サリンジャー自身の様々な面の集合写真を構成していると見なすのが一般的である。7人それぞれがサリンジャーの異なる特徴を映しだしている:作家と俳優、出世を望むものと研究者、宗教的熟練者とずっこけた馬鹿者。それが事実だということは十分ありうる。サリンジャーは誰にも確かめられないようにしてしまった。ホールデン・コールフィールドが言うには、「絶対に誰にも何にも言うな」。このセリフはサリンジャーの言葉かもしれない。
ジェローム・デイヴィッド・サリンジャーは1919年1月1日、ニューヨークで生まれた。母親はスコットランド生まれのプロテスタントだったが、ユダヤ教徒の義理の家族に合わせるため、マリーという名をミリアムと改名した。父親であるソロモンは、食品輸入業者であり、サリンジャーが13歳になった頃、家族でパーク・アベニューに引越し、成績の悪かったサリンジャーをマンハッタンの私立学校に入学させられるほど成功していた。サリンジャーは2年で退学になった。それからフィラデルフィア郊外にある、ヴァレー・フォージ・ミリタリー・アカデミーに送り込まれた。この学校が、後にペンスィ―・プレップ、つまりコーンフィールドが逃げ出した学校のモデルになったようだ。
ヴァレー・フォージを卒業後、サリンジャーはいくつかの学校から逃げ出している。ニューヨーク大学を中退するまでには、2セメスターをやっと修めただけだった。父親は、サリンジャーを家業に参加させようと決め、ハムについて色々と学ばせるためにオーストリアやポーランドに連れて行った。「結局あの人たちは、2か月もかけて、ブィドゴシュチュまで僕を引きずって行ったんだ。」とサリンジャーは後年に書き残している。「そこでは、僕はブタを解体して、大きな解体熟練者と一緒に雪の中を運んだんだ。」ハムはサリンジャーの未来ではなかった。アメリカに戻って、また別の学校に気乗りしないまま挑戦した、今度はペンシルバニア州の田舎町にあるウルジヌス大学だった。サリンジャーは1セメスターを終えると、ずるずるとマンハッタンに戻ってきた。
この頃までに、サリンジャーは曖昧な目標を心に抱いていた:作家になりたかったのだ。1939年の秋に、ウィット・バーネットが教鞭をとる、コロンビア大学の作家養成講座に参加した、バーネット氏は、評価の高い小さな文芸誌で、ウィリアム・サローヤンやジョセフ・ヘラ―、カーソン・マッカラーズらを排出したストーリー誌の創設者であり、編集者だった。バーネットはすぐに教え子サリンジャーの才能に注目し、サリンジャーの作品は最初にストーリー誌に掲載するように取り計った。1940年3-4月号のストーリー誌は、後にサリンジャー作品に登場することになる若者たちの原型である、とあるパーティでの大学生たちを辛辣に描写した短編 "若者たち" を掲載した。
その後数カ月の間、サリンジャーは、コリアーやエクスカイア―のような大衆雑誌に取り上げられ、夢見ていたニューヨーカー誌に、気をもませる書き下ろし作品を掲載し、単にプロの作家ではなく芸術家でもあることを証明した。
1942年4月、真珠湾攻撃の4ヶ月後に、サリンジャーは招集された。最終的に、ナチ協力疑惑のある人を尋問するようなことをするためにアメリカ兵を訓練していた、米軍諜報部隊の一員として船でイギリスに移送された。サリンジャーは小さなタイプライターをいつも持っていて、ヨーロッパ中を持って歩き、いつも書いていた。作戦決行日には、歩兵連隊の隊員としてノルマンディに上陸した。8月までに、サリンジャーの連隊はパリまで進軍し、そこからドイツまで強硬進軍した。その秋と冬には、1カ月も続く、凍える、泥だらけで地雷だらけの森の中での激闘だったヒュルトゲン森の闘いを含む、いくつかの最も恐ろしい軍事作戦に参加したようだ。
戦時中に、サリンジャーに何があったのかはあまりよく知られていない。しかし、悩ましい伝記作家である、イアン・ハミルトン(サリンジャーはハミルトンが自分の文章を引用できないように裁判を起こし勝訴している)は、戦後まもなく、サリンジャーが神経衰弱になったと考えている。ハミルトンの著書 "J.D.サリンジャーをつかまえて" の中で、1945年にサリンジャーが、一年前にパリで出会ったヘミングウェイに宛てて書いた手紙を紹介している、手紙の中でサリンジャーは、軍を離れて、ニュルンブルグの病院で、精神障害を引き起こすかもしれない症状の治療を受けていたことに触れている。もしそうだだったのだとすれば、彼の作品である、ある種の入院の後で、"精神を無傷に保とう" と苦しむ米兵について描かれた優れた、そして複雑な物語 "エズムへ、愛と堕落をこめて" の中心にいるのはサリンジャー自身だったことは確実である。その年の9月、サリンジャーはなにか、もしかすると安定剤に頼っている男の行動かもしれないような奇妙なことをしでかした:ドイツ在住のフランス人女性と、突然結婚したのだ。サリンジャーは、翌春、アメリカに帰国する時に彼女を連れて帰って来たのだが、その後まもなく、我々には解らない何らかの理由で、彼女はフランスに帰国し、結婚は解消された。
ニューヨークに戻り、また両親と暮らし始めたサリンジャーは、1日中執筆する生活に戻り、ようやく、ニューヨーカー誌の高い壁を越えた。1946年、ニューヨーカー誌は、かつておざなりに扱っていた、ホールデン・コールフィールドの物語を掲載した。2年後、サリンジャーはニューヨーカー誌に正式な作家として取り上げられ、6か月に3篇の作品を発表した。その時からずっと、サリンジャーは他の何処にも自分の作品を掲載していない。そして、1953年の短編集 "ナインストーリーズ" 中の2作品は別として、彼は他のところでかつて発表した作品に背を向けてしまい、自分の作品集に収めることを決して許さなかった。
Thursday, February 18, 2010
Behind the Troubles at Toyota
トヨタ問題の背景
http://www.time.com/time/business/article/0,8599,1963595,00.html
By Bill Saporito with Michael Schuman and Joseph Szczesny
Thursday, Feb. 11, 2010
カリフォルニア州、デーリーシティにある特約販売店に並ぶ2010年型トヨタ・プリウス
Robert Galbraith/ ロイター通信
トヨタの何が悪かったのか?
大したことではない。少なくとも、技術面、構造面、さらには品質において大して悪いところはない。ずば抜けて優れた車を作ったのでない限りは、大概の場合、国際的な自動車産業にトップギアで突っ込んだりはしないものだが、トヨタはやってしまった。自動車は身近なマシンだが、非常に複雑でもある。新型の自動車を作るために、企業はそのスタイルを考え、設計し、骨組みを作り、購入し、1万に及ぶ部品を集め組み立てる必要がある。780万台、トヨタは、2009年(自動車業界にとって最悪の年)に世界中に販売したのだが、その中には何10億ものガタンと壊れてしまうおそれのある新型の部品が使われている。実際に壊れるものが出てくることは避けられない。
11月以降のおよそ900万台に及ぶ加速制御不能やブレーキ作動不具合に陥りやすいトヨタ車のリコールがとてもショッキングな事件になった理由は、トヨタが若干手抜きの自動車を製造していたことや、さらにはトヨタの酷い危機管理体制ではなかった ― しかしながら、こういったことによって、トヨタは修復のためとして20億ドルを超える代償を強いられた上に今年の売り上げを見込めなくなったのだが。もっと酷い致命的なことが起きた:蒸気閉塞がトヨタの神話化された企業文化に襲い掛かり、世界中で最も評価の高い企業の1つであるトヨタを、数多ある落ち目の自動車メーカーの1つに変えてしまったことだ。トヨタは、これまでよりも多くの欠陥自動車を製造しているだけではなく、問題点を解明し修理しさらにそういったことを利点に変えてしまう比類ない手腕で知られている企業であったが、実は全然何も解っていなかったように見えてしまった。
今回のリコールは突然のように見えたけれども、その兆候は積み重なっていた。マサチューセッツに本拠地を置く安全性の研究と戦略(SRS)という消費者救済団体によると、2002年に、トヨタ車における "意図しない加速" の事例数が急増したというのだが、これはトヨタが電子制御スロットルを導入したのとほぼ同時期であった。この問題は当初、フロアマットや装備品に原因があるとされた、そういったものが適切に装着されなかった場合、スロットル全開状態のアクセルペダルに挟まってしまう可能性があるとされていた。これに続いて、米国道路交通安全局が調査したいくつかのうちの最初のものが2003年にあった、その後2005年と2007年に小規模のリコールがあった。ところが、事故件数は増加し、昨年11月にトヨタは、今回の問題に対処するために、およそ3,800万台のアメリカにある自動車を引き取らなければならなくなった ― これはかつてないほど大規模なリコールである。
フロアマットの改良、にもかかわらず、事態は終息しなかった。トヨタは当初、ペダルにシステム上の問題があることを信じるのを拒み、フロアマットを適切に取りつけていない顧客に責任があると主張した。1月21日に2度目のリコール、今回の2,300万台を申請する頃までに、トヨタはそれまでの高い評価を地に落とした。
今回の責任は無視出来なかった。トヨタは、アメリカの部品製造会社であるインディアナ州エルクハートのCTSグループを、欠陥ペダルの納品業者として名指しした、一方で同じ部品を製造している日本企業デンソーの責任は追求しないままだった。ところが、CTS社の最高責任者ヴィノド・M・クヒルナニ氏はその責任を負うつもりはなかった。彼が言うには、CTS社はトヨタの技術規格基準を満たしている、さらにこう言及している、今回のリコールの原因である "意図しない加速" は2002年製造の自動車にまで遡って関連している。「CTS社がトヨタに部品を納入し始めたのは2005年以降だ」と述べている。
これにはまだ続きがある。2月上旬、トヨタが40万台を超えるプリウスや他のハイブリッド車を自発的にリコールした時には、残っていた政治的信用を少しでも、なんとか取り戻した、今回は、凸凹の多い路面を走行した場合に事故を引き起こす可能性のあるABSのプログラム更新をやってのけた。レグザスはトヨタで一番売れている高級モデルである(これも相当悪い)が、プリウスはトヨタのお気に入りである、プリウスは、他の自動車メーカーのガソリン電気ハイブリッド車への進出を留まらせている技術的問題について、トヨタは解決できる実力があることを実証し、それと同時に、トヨタの環境に関する信頼性も解決した。つい先月、デトロイト・オートショーで、取締役たちが、トヨタの将来成長の基軸としてプリウスを紹介したばかりだ。トヨタは年間100万代のハイブリッド車を世界中に輸出する計画だった、そのほとんどは北アメリカだった。
http://www.time.com/time/business/article/0,8599,1963595,00.html
By Bill Saporito with Michael Schuman and Joseph Szczesny
Thursday, Feb. 11, 2010
カリフォルニア州、デーリーシティにある特約販売店に並ぶ2010年型トヨタ・プリウス
Robert Galbraith/ ロイター通信
トヨタの何が悪かったのか?
大したことではない。少なくとも、技術面、構造面、さらには品質において大して悪いところはない。ずば抜けて優れた車を作ったのでない限りは、大概の場合、国際的な自動車産業にトップギアで突っ込んだりはしないものだが、トヨタはやってしまった。自動車は身近なマシンだが、非常に複雑でもある。新型の自動車を作るために、企業はそのスタイルを考え、設計し、骨組みを作り、購入し、1万に及ぶ部品を集め組み立てる必要がある。780万台、トヨタは、2009年(自動車業界にとって最悪の年)に世界中に販売したのだが、その中には何10億ものガタンと壊れてしまうおそれのある新型の部品が使われている。実際に壊れるものが出てくることは避けられない。
11月以降のおよそ900万台に及ぶ加速制御不能やブレーキ作動不具合に陥りやすいトヨタ車のリコールがとてもショッキングな事件になった理由は、トヨタが若干手抜きの自動車を製造していたことや、さらにはトヨタの酷い危機管理体制ではなかった ― しかしながら、こういったことによって、トヨタは修復のためとして20億ドルを超える代償を強いられた上に今年の売り上げを見込めなくなったのだが。もっと酷い致命的なことが起きた:蒸気閉塞がトヨタの神話化された企業文化に襲い掛かり、世界中で最も評価の高い企業の1つであるトヨタを、数多ある落ち目の自動車メーカーの1つに変えてしまったことだ。トヨタは、これまでよりも多くの欠陥自動車を製造しているだけではなく、問題点を解明し修理しさらにそういったことを利点に変えてしまう比類ない手腕で知られている企業であったが、実は全然何も解っていなかったように見えてしまった。
今回のリコールは突然のように見えたけれども、その兆候は積み重なっていた。マサチューセッツに本拠地を置く安全性の研究と戦略(SRS)という消費者救済団体によると、2002年に、トヨタ車における "意図しない加速" の事例数が急増したというのだが、これはトヨタが電子制御スロットルを導入したのとほぼ同時期であった。この問題は当初、フロアマットや装備品に原因があるとされた、そういったものが適切に装着されなかった場合、スロットル全開状態のアクセルペダルに挟まってしまう可能性があるとされていた。これに続いて、米国道路交通安全局が調査したいくつかのうちの最初のものが2003年にあった、その後2005年と2007年に小規模のリコールがあった。ところが、事故件数は増加し、昨年11月にトヨタは、今回の問題に対処するために、およそ3,800万台のアメリカにある自動車を引き取らなければならなくなった ― これはかつてないほど大規模なリコールである。
フロアマットの改良、にもかかわらず、事態は終息しなかった。トヨタは当初、ペダルにシステム上の問題があることを信じるのを拒み、フロアマットを適切に取りつけていない顧客に責任があると主張した。1月21日に2度目のリコール、今回の2,300万台を申請する頃までに、トヨタはそれまでの高い評価を地に落とした。
今回の責任は無視出来なかった。トヨタは、アメリカの部品製造会社であるインディアナ州エルクハートのCTSグループを、欠陥ペダルの納品業者として名指しした、一方で同じ部品を製造している日本企業デンソーの責任は追求しないままだった。ところが、CTS社の最高責任者ヴィノド・M・クヒルナニ氏はその責任を負うつもりはなかった。彼が言うには、CTS社はトヨタの技術規格基準を満たしている、さらにこう言及している、今回のリコールの原因である "意図しない加速" は2002年製造の自動車にまで遡って関連している。「CTS社がトヨタに部品を納入し始めたのは2005年以降だ」と述べている。
これにはまだ続きがある。2月上旬、トヨタが40万台を超えるプリウスや他のハイブリッド車を自発的にリコールした時には、残っていた政治的信用を少しでも、なんとか取り戻した、今回は、凸凹の多い路面を走行した場合に事故を引き起こす可能性のあるABSのプログラム更新をやってのけた。レグザスはトヨタで一番売れている高級モデルである(これも相当悪い)が、プリウスはトヨタのお気に入りである、プリウスは、他の自動車メーカーのガソリン電気ハイブリッド車への進出を留まらせている技術的問題について、トヨタは解決できる実力があることを実証し、それと同時に、トヨタの環境に関する信頼性も解決した。つい先月、デトロイト・オートショーで、取締役たちが、トヨタの将来成長の基軸としてプリウスを紹介したばかりだ。トヨタは年間100万代のハイブリッド車を世界中に輸出する計画だった、そのほとんどは北アメリカだった。
Thursday, February 11, 2010
What is Robert Gates Really Fighting For?
By Elizabeth Rubin
米国防長官のRobert Gatesは、Doomsday Planeと呼ばれる冷戦の遺物に乗って、戦争地域やその隣国、中国やロシア、スリナムへと世界中に飛び回っている。その飛行機はBoeing社で1970年代に製作され、核戦争の真っ只中でも上空に留まれるために設計された。それはまるで飛んでいるペンタゴンだ。飛行機はかなり重いので、長時間のフライトでは上空で燃料補給する必要がある。大統領専用機の在外乗組員が私にこんなことを教えてくれた。浮かんでいるタンカーの燃料ノズルが怒り狂った宇宙生物のように操縦士側のフロントガラスを強打することがある、と。その飛行機は、核攻撃シールドで覆われ、全てのアメリカミサイル格納庫に対して発射コードを放つことができる数少ない飛行機のうちの一つである。
操縦室を過ぎたところには、プラグ、インターネット、漆塗りのテーブルが備え付けられた会議室がある。ローファーを履き、ジーンズとボタンダウンを着て、アフガニスタンとイラクから帰る途中ですっがりリラックスした長官がそのテーブルのところの席に着いている。長官と私は、議会公聴会で感じたストレス、若い男女を戦争に派遣しなければならないという重責について話し合っていた。そして、ちょうど会話が終わりに近づいたときに、長官は言ったんだ。「私にとってはテキサスA&M大学でのフットボールがこれまで遂行してきたどの仕事よりもストレスだったとよくみんなに話してたんだ。それで、みんなはいつも私が大げさに言っていると思ったんだよ。」私は信じられないことだと言ったが、長官はその言葉を曲げなかった。
「私はあるとき妻に、「それはどうして?」と聞いてみた。そしたら彼女は「だってあなたコントロールしないじゃない。」って言ったんだ。」長官は話を中断した。・・・「ここでは、私だってコントロールの一つや二つしているだろ。」と機内の会議用テーブルを叩きながら言った。
それは昔ながらのゲイツだった。ひょうきんで、タイミングに気を払い、若干自分を卑下するところもあるが、ひどく自分をよくわかっている男である。そういった性格も明らかだった。ゲイツは、注意深く、節度があり、控えめだがとことん効率重視で自分の権力を行使する長官である。(そんな性格を表す出来事を紹介しよう。)2月1日にしたように、彼は、コスト超過と技術的欠陥が因で、ペンタゴンの新しいF-35ステルス戦闘機プログラムを監督していた軍当局者を解雇した。さらに、Lockheed Martin社に対し、罰金として料金の中から6億1500万ドルを差し引いた。多くの国防省の請負人やプログラムマネージャーは要求された目標に
達していないが、ほとんどたいていはうまくやってのけている。ゲイツの下ではそうはいかない。
ゲイツの同僚で、冷戦の生き残りであるDoomsday Planeのように、ゲイツは権力、支配力、そして驚くほど長い在任期間を具体的に表現するようになってきた。身長たった5フィート8インチ、小さな手足、カンザス州出身のおとなしい66歳のゲイツは、ほとんどの彼の同僚の官僚や政策立案者と同様に、長官の座を7年続けてきた。彼は、最高位の仕事=CIA長官にのし上がるには、まだ初心者レベルのCIA分析官である。そして、反対政党の政権において、そのまま留任するよう頼まれた唯一の国防長官である。ゲイツは、忍耐、実用主義、そして官僚としての手腕を組み合わせることで成功を収めてきた。また、これまで、押し寄せてくる様々な問題―ペンタゴンの改革、ミサイル防御、アフガニスタン問題、そして軍隊における「聞くな、教えるな」政策を撤回するペンタゴンの動き―を対処してきたことで、ゲイツはオバマ戦争内閣の中で最も重要な長官となった。それは、すさまじい功績である。なんたって、彼は民主党国家安全チームで唯一の共和党民なんだから。
「どんな地位を選んだとしても、ゲイツは影響力No.1の長官である。」と、Leslie Gelbは述べる。彼は、外交関連閣僚団の名誉会長で、アフガニスタンに対する政府戦略に疑念を抱いている。12月初頭、オバマ大統領が米国陸軍士官学校で、戦争地域にさらに30000人の兵士(2009年に動員した32000にさらに追加した)を送還し、2011年7月に呼び戻し始めることを決定したと公表してから数日後、ゲイツはサンデートークショーに行き、撤退は現地の状況次第だろうと言ったことを、Gelbは指摘している。「大統領はゲイツに異議を唱えなかった。」とGelbは言う。今の政権におけるゲイツの役割と権力についてあなたが知る必要のあることの大部分を、このことが物語っている。
ホワイトハウスが国家安全の縛りの中にあることがわかるとしたら、ガミガミうるさい共和党員をかわすためにどのようにゲイツを利用しているかもそこからわかる。FBI役員がクリスマスの日に起こった爆破犯の被疑者、Umar Farouk Abdulmutallabを逮捕したとき、彼らは黙秘権を被疑者に読み聞かせる前に、たった50分しか尋問しなかった。その事件からずっと、共和党員はホワイトハウスを非難している。なぜ、より完璧な尋問が行われる前に弁護士に接見することを許可しなかったのか?なぜ、被疑者は軍事裁判の代わりに文民裁判を受けているのか?どういうわけか、話は、ゲイツが両決定を承認したということに収まった。私がゲイツにそのことについて尋ねたとき、彼は慎重に答えた。爆破の被疑者をどう処理するかということについての結論は、ゲイツが問題なしとする前に既に話はついていたそうだ。Abdulmutallabは、それから調査官に協力し始めている。彼がどこで裁かれるかについては、ゲイツがこう述べている。「私は法務長官の判断に従う。」
Wednesday, February 3, 2010
Never forgetting a face
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/magazine/8474827.stm
By Pam Rutherford
この症状を抱えて生活し、克服する方法を身につけるのは努力を要する上、クレアにとって人生は困難なままである。
「他人の者のように思える生活を続けるのは簡単なことじゃないし、それに、より多くの人と付き合うようになればなるほど、この相貌失認症というものがより大きな障害になるの。誰かの顔を見たときに捉えた知識と情報は当然全部必要なものよ。」
「誰も、その情報全部が自分からパッと消えてしまったらどんな感じがするか考えたりしないものよ。誰にもそんなことが起きてほしくないわ。」
この症状は、相貌失認症、平常者、スーパーレコグナイザーと、たった3つの顔認識グループに分けられるものではないのかもしれない。
むしろ、顔認識の範囲というのがあるのかもしれない、と言っているのは認知神経科学研究所およびロンドン大学相貌失認症研究センターのブラッド・デュケイン氏である。
クレアの場合は、脳の損傷によって後天的に相貌失認症に陥ったのである。が、"発育性"相貌失認症と呼ばれる多くの場合さほど深刻ではないもう1つのタイプがあり、こちらは先天的な障害である。
さらに、驚くことにこちらの症状はよくみられるのだ。50人に1人が相貌失認の可能性があるのだが、ほとんどの場合本人は知らないだろう。
一方で、科学者たちはスーパーレコグナイザーについての研究を始めている、相貌失認症の注目度が高まったためにしばしば接触するからだ。
科学者たちは、スーパーレコグナイザーの脳を解明し始めた、彼らの神経回路を解析し、脳灰白質にどういった構造的または機能的な違いがあるのかを分析しているのだ。
標準的な顔認識テストでは、スーパーレコグナイザーたちは常に全問正解だ、ところが、その顔が非常にぼやけている場合でさえ彼らはほぼ全問正解するのだ、と認識の専門家である、ゲティスバーグ大学のリチャード・ラッセル教授は言っている。
「この研究が意味する最も衝撃的なことは、はみんなが同じものを見ていると思っているのだが、少なくとも顔を見ることに関しては、同じものを見ているわけではないことをこの研究が示唆しているということである。」
「スーパーレコグナイザーたちは、他の人とは異なる方法で世界を見ている、それは顔を見ることだけに限らず、違った捉え方で世界を見ている可能性がある。そこで、我々は、このことが、精神や脳の働きについて理解する上で、非常に役に立つだろうと考えている。」
相貌失認症患者のように障害に苦しんではいないとはいえ、スーパーレコグナイザーたちは時々それでも自分の態度を変えることを選んでいる。
By Pam Rutherford
この人たちをパッと見ただけで後から思い出せますか?
多くの人は、人の顔と名前を一致させるのに苦労する時があるものだが、もし、何年も前にほんの一瞬見ただけの人の顔と名前を識別できるとしたらどうだろう?
道を渡っている女性を知っている。でも何処で会っただろう?
ああ、その女性は、数年前に選挙に行ったときに会った、投票所のヴォランティア・スタッフの一人だった。その女性に会ったのはおそらくほんの2~3分だろう。それも数年前に。
すぐに思い出せるようなタイプの顔だったように聞こえただろうか?
ジェニファーにとってはそうなのだ。彼女は、"スーパー・レコグナイザー" 、人の顔と名前を思い出すことに関してかなりの並はずれた能力を持った人物である。
実際、ほぼ絶対に人の顔を忘れないでいることができる。最初に、普通じゃないかもしれないことに気がついたのは家族との休暇中、飛行機の中で、あまり有名でない俳優を見分けた時のことだ。家族は信じなかったが、正しかったことが証明された。
しかし大学で本当に実感することになった、ジェニファーは他の人とは違っていたのだと。
「最初の数週間に沢山の人と会ったんだけど、全員のことを覚えてた、会った時間がどれだけ短かったかは関係ないの。そのあと、パーティーで会った人たちは、みんな私のことを覚えてないみたいだった。私はこう考えたものよ:あの人はすごく嘘つきだわ、3週間前にカフェで30秒間会ったのに、みんな私のことを覚えていない振りをするなんて信じられない、って。」
偶然の出会い
会ってから何年も過ぎていてたとしても問題ない。
ジェニファーは子供のころに2~3度会った人に、地下鉄で会った話をしてくれた、今、20歳年をとって白くなった髪をドレッドスタイルに纏めていたその人が誰なのかはっきりとわかったという。
「人は年をとるものだけど、私には顔が同じに見えるの」とジェニファーは言う。「私にとっては、人の顔は変わらないのよ、子供の時も大人になっても。何故だかわからないけど、記憶が呼び覚まされるのよ。」
まるで小気味良い手品のようだし、もしくは仕事の役に立つかもしれないが、研究者にとってはそれ以上の意味があるようだ。
ジェニファーの能力は、彼女とは逆の状況にある人たち、"フェイス・ブラインドネス" として広く知られている、相貌失認症に苦しむ人たちの研究をしている科学者の助けになるかもしれない。
クレアは49歳の4児の母親で、その症状を抱えている。
彼女は、2004年5月にウイルス性脳炎を発症し、重度の記憶喪失の上さらに、人の顔を見分けられず苦しんできた。
「退院して、誰だかわからない人たちの家に来たの、この人たちが自分の家族なんだと信じるしかなかったわ。エドは自分の夫なんだと信じるしかなかったし、自分自身に言い聞かせるしかなかった、この人が私が愛してる人で、この子供たちが私の子供たちなんだって。」
クレアの、顔に関する問題は続いている。彼女は今でも、子供たちが友達と一緒にいると、自分の子供を見分けることが出来ないでいる。しかし、最近の自慢話を披露してくれた、人ごみの中で、夫のエドを見つけ出したことを。それでもまだ、友人や家族を見分けるのに、様々な方法が必要なのだ。
鏡に映った自分の姿さえ、驚きを隠せない。
困難な状況
この症状を抱えて生活し、克服する方法を身につけるのは努力を要する上、クレアにとって人生は困難なままである。
「他人の者のように思える生活を続けるのは簡単なことじゃないし、それに、より多くの人と付き合うようになればなるほど、この相貌失認症というものがより大きな障害になるの。誰かの顔を見たときに捉えた知識と情報は当然全部必要なものよ。」
「誰も、その情報全部が自分からパッと消えてしまったらどんな感じがするか考えたりしないものよ。誰にもそんなことが起きてほしくないわ。」
この症状は、相貌失認症、平常者、スーパーレコグナイザーと、たった3つの顔認識グループに分けられるものではないのかもしれない。
むしろ、顔認識の範囲というのがあるのかもしれない、と言っているのは認知神経科学研究所およびロンドン大学相貌失認症研究センターのブラッド・デュケイン氏である。
クレアの場合は、脳の損傷によって後天的に相貌失認症に陥ったのである。が、"発育性"相貌失認症と呼ばれる多くの場合さほど深刻ではないもう1つのタイプがあり、こちらは先天的な障害である。
さらに、驚くことにこちらの症状はよくみられるのだ。50人に1人が相貌失認の可能性があるのだが、ほとんどの場合本人は知らないだろう。
一方で、科学者たちはスーパーレコグナイザーについての研究を始めている、相貌失認症の注目度が高まったためにしばしば接触するからだ。
科学者たちは、スーパーレコグナイザーの脳を解明し始めた、彼らの神経回路を解析し、脳灰白質にどういった構造的または機能的な違いがあるのかを分析しているのだ。
標準的な顔認識テストでは、スーパーレコグナイザーたちは常に全問正解だ、ところが、その顔が非常にぼやけている場合でさえ彼らはほぼ全問正解するのだ、と認識の専門家である、ゲティスバーグ大学のリチャード・ラッセル教授は言っている。
「この研究が意味する最も衝撃的なことは、はみんなが同じものを見ていると思っているのだが、少なくとも顔を見ることに関しては、同じものを見ているわけではないことをこの研究が示唆しているということである。」
「スーパーレコグナイザーたちは、他の人とは異なる方法で世界を見ている、それは顔を見ることだけに限らず、違った捉え方で世界を見ている可能性がある。そこで、我々は、このことが、精神や脳の働きについて理解する上で、非常に役に立つだろうと考えている。」
相貌失認症患者のように障害に苦しんではいないとはいえ、スーパーレコグナイザーたちは時々それでも自分の態度を変えることを選んでいる。
Out of the Ruins
http://www.time.com/time/specials/packages/article/0,28804,1953379_1953494_1957366,00.html
By JAMES NACHTWEY
ハイチで起きた地震の余波を目にしていると、起きているのに悪夢の中に迷い込む感覚に襲われる。
この地図なき旅路上で目印となるのは、略奪者の群れ、手足のない子供たち、小枝やシーツで組み立てられた都市、粉々になった大聖堂、通りに倒れている死人の周りを回っている犬だ。
大多数のハイチ人は、奈落の底が身近にあり絶壁の上の狭い暗礁に沿って築かれた社会で通常生活している。
裕福な人は彼らが住む地域上方の高台に生活し、黒塗りのLand Cruiserで移動していて見られることはない。もっと高いところには、まるで空中に浮いているように、塵一つなく、人目を引く白い大統領官邸がある。そこは、全ての独裁者が密かに手中にしたいと望む場所だったが、現在は官邸の3つのバロック様式のドームの重さで粉々になってしまった。暗礁が崩れ落ちた所では、死者は置き去りにされた。暗礁が保たれている所では、人々は身を寄せ合っていた。人々はほとんど何も持っていなかったのに、一瞬にしてそれ以上に何もなくなった。ハイチの人たちは彼らの歴史に耐え続けている。困難や苦難が最高潮に達していても、精神力、プライド、そして威厳を持つことで抵抗した。彼らの国家というのは、奴隷状態を克服して生まれた国だ。つまり、ハイチは貧困、戦闘、信仰といったもので形成されてきたのだ。
地球は肩をすくめた・・ハイチは崩壊した・・そして世界は応答した。
「同情疲労」は、皮肉屋や広告販売員の架空の相手として表出した。大惨事は、手付かずの石油埋蔵量による利益や地政的利得抜きにして、大いなる寛大をもたらした。国連はこぞってハイチにいるのだが、実際のところその正体というのは、地球の各方面から、ただ現れ、勘に頼って飛んできた小規模のNGOなのだ。それらの頭文字を一列に並べても、赤道地域には不十分だろう。頭文字を列挙してみよ、あなたはきっと奇妙な言葉を話すだろう。
ハイチの人たちは手を離してただくつろいでいるわけではない。彼らは多くの重いものを持ち上げている。ただ、はたから見れば、自然の中ではかなり微々たることで、やっているのかわからないように見えが・・・。全世界からたくさんの救援物資が、貨物船やヘリコプター、C-130で輸送されている。ハイチの人たちは、頭上に必要なものを乗せて運んでいる。彼らは、大きな黄色いマシーンではなく、素手で、生存者を瓦礫の外へ助け出している。全ての人が、利用できるものは何でも使ってできることを行っている。
フォトジャーナリストとして、私は過去30年間の歴史を記録する仕事に携わっている。私の仕事の多くは、戦争、闘争、社会的不正に焦点を当てている。もし、人々がニュースを見たとしたら、同情心によってえも言われぬ感情にかり立てられるだろうし、暴力、侵略、そして容認できないほどの基本的人権の剥奪を目の当たりにして、怒りの感覚を分かち合うだろう。この感情は、怒りによって燃え上がり、信念によって動かされている。これらの結果は全て人によってもたらされるもので、怒りの感情が時に変革の過程に刺激を与える場合もある。地震は自然の摂理である。何万人もの人が数分のうちに死ぬ。同情は自然災害における究極の動機となる。難題は長期間その感情を維持することである。決して新聞の見出しと共に消えてしまってはいけない。
ハイチの人々は己の歴史を着実に進んでいる。奴隷たちはヨーロッパの権威ある帝国の一つを打ち破るために立ち上がった。地震はそれ自体、地球の内なる力を露呈する。しかし、ハイチの人たちの魂もまた、自然の力である。事実上、腐敗を連想させる国家(ハイチ)において、政治的シンボルとなるもの全てが取り除かれた。ハイチの人たちは、彼らの歴史の新たな章の白紙のページに何を描くのだろうか?
Tuesday, February 2, 2010
Starting Over: Can Obama Revive His Agenda?
http://www.time.com/time/politics/article/0,8599,1955401,00.html
By Joe Klein
「思い返してみよ。」大統領が口にした。「医療保険制度改革に取り組んでなかったとしても、この一年は骨の折れる一年だった。」 私たちは、大統領執務室で、医療保険制度改革がどのようにして失敗に陥ってしまったか議論していた。 その日は、オバマ大統領就任一周年を迎える前週の金曜日であり、Scott Brownという共和党員がTed Kennedyの上院席を勝ち取り、 民主党が(共和党による)議事妨害阻止を優位に運ぶことができなくなることでオバマ政権の意向を覆すことになった前週の金曜日であった。 その日は金曜日で、医療保険制度改革における方針を全て進めていくと決定したことが破滅を招く危険な賭けであると思われ始めたのも そのときだった。
私は、オバマ大統領に、ボストン郊外在住で、change(変革)を期待しながら、一年前自身を支持していた人々がどのようにしてオバマ政府を悟ったと考えるか尋ねた。 そして現在、大統領は、製薬会社や保険会社には何も言及せずに、Joe Liebermanに始まり、労働組合、ネブラスカの上院議員Ben Nelson (彼の臨時の低取得者医療扶助制度は国家の問題の種だった)、そして中絶合法化の反対勢力とは折り合いをつけていることをどのように見ているか尋ねた。 「私がchangeを約束したとき、何らかの形で国会議員が自身の選挙区内で事業を獲得しようと努めたり、病院の援助に努めるとは約束しなかった。」と大統領はあいまいに言った。 ところが、後に彼は認めた「ワシントンには政治的習慣がある。それはワシントンでしか通用しない習慣だ。そのことがワシントン外部の人々にとっては 法的には耐えられないことなんだと私は思っている。理解されない感覚だろう。医療保険制度改革が完全にまとまっていないことはさておき、 実際我々はワシントンではかなり良い成果を上げたんじゃないかと思う。が、外から見ると、単にテレビの情報だったり、耳にしたことの全てが報道によるものであったら、人々は間違った印象を受けるかもしれない。どういうわけか、ワシントン内部の人間は、耳を傾けることに時間を割いているんじゃないかとね。」
しかし、どう間違った印象を受けているのか?
大統領は言い張ったんだ、頼りない感じで、一般人の意見を聞くのに多くの時間を使ってきたんだと。しかし、彼はこの一年、国内を飛び回るのと同じ時間を外交にも 費やしてきたようだ。その上経済危機を直に経験してきた。そして狂気と混乱に満ちたワシントンの悪しき問題に向かってまっさかさまに落ちていったのである。 つまり歴代の目標であるアメリカ医療改革問題に立ち向かっていったのだ。そのことは、確かに価値のあることであり、民主党きっての解決されるべき問題の中心で、 長期的に国家経済の将来を考えれば欠くことのできない問題ではあるのだが、多くのアメリカ人にとってはあまり重要なことではないのである。圧倒的多数の人が、 現在受け取っている医療保険に満足しているし、それよりもほかの問題の方がはるかに心配だ、と世論調査機関に言い続けているのだ。ここで問題を明確にすると、 問題は大統領と民主党の考えは国民のものとはかけ離れてしまっているということだった。
非常に多くの問題をよく対処してきたことがかえって不運につながったのだ。オバマ政権は、2009年1月20日に宣誓した時点で直面していた問題についてはもちろん正しかった。 彼は財政崩壊と2つの戦争の真っ只中であり、重大局面を迎えていた時期に就任した。彼は、激動の経済状況を安定化させようと確固たる自制心を持って実行した。 外交においては、アルカイダや、アフガニスタンやパキスタン国境地帯の同盟国と積極的に交戦する動きを見せている間に、アメリカ外交政策を本来の立ち位置に 素早く回復させた。オバマの選択のほとんどが賛否両論のあるものばかりだった。緊急経済対策補助に対しては、ある者には小さすぎると言われ、ほかの者には大きすぎると たたかれた。アフガン問題の深刻化、気候変動への対処の取り組みについては、一方では弱すぎると、他方では急進的過ぎるともみなされた。しかし、それらのどれをとっても 恥ずべきことではなかった。オバマ政権は重要で中身のあるものだった。しかし問題は、問題の一年だったが、政治的に正しい判断ができないのかどうかということのようだ。 そしてその世代の中ではもっとも優れた大統領演説をした人物が、なぜ自分自身を国民に説明することがそんなにも難しいことなのかということのようだ。
Friday, January 22, 2010
YouTube Makeup Sensation Lauren Luke
ForbesWoman Q&A
Evelyn M. Rusli, 12.03.09, 04:30 PM EST
http://www.forbes.com/2009/12/03/lauren-luke-panacea81-youtube-forbes-woman-entrepreneurs-makeup.html
彗星のごとく現れた企業家ローレン・ルークが、何百万人もの女性たちに、スターやスーパーモデルのように見せる方法を伝授している。ローレンのブランドも拡張するだろうか?
もし、Panacea81をご存じなければ、いい機会である。
ローレン・ルークとしても知られている、このYou Tube センセーションは、マルチメディアキャンペーンの真っ只中にいる。
ローレンは、その著書、「スターのように見せる」ローレン・ルーク著と、任天堂ゲーム「ローレン・ルークによるスーパーモデルメイク術」と、それからもちろんローレン・ルーク製のSephora 化粧品を宣伝中なのだ。
http://www.bylaurenluke.com/
Evelyn M. Rusli, 12.03.09, 04:30 PM EST
http://www.forbes.com/2009/12/03/lauren-luke-panacea81-youtube-forbes-woman-entrepreneurs-makeup.html
彗星のごとく現れた企業家ローレン・ルークが、何百万人もの女性たちに、スターやスーパーモデルのように見せる方法を伝授している。ローレンのブランドも拡張するだろうか?
もし、Panacea81をご存じなければ、いい機会である。
ローレン・ルークとしても知られている、このYou Tube センセーションは、マルチメディアキャンペーンの真っ只中にいる。
ローレンは、その著書、「スターのように見せる」ローレン・ルーク著と、任天堂ゲーム「ローレン・ルークによるスーパーモデルメイク術」と、それからもちろんローレン・ルーク製のSephora 化粧品を宣伝中なのだ。
http://www.bylaurenluke.com/
Haiti's Agony: What It Will Take to Rebuild
ハイチの受難: 復興に必要なもの
By MICHAEL ELLIOTT Thursday, Jan. 14, 2010
http://www.time.com/time/specials/packages/article/0,28804,1953379_1953494_1953499,00.html
悲劇は、それを最も耐えられないところに訪れるものだ。ハイチは西半球において最も貧しい国であり、栄養失調が蔓延し、人口の半分に満たない人しか清潔な飲み水を手に入れられない場所だった。
1月12日午後4時53分9秒、ハイチ首都ポートプランスから南西に15マイルの地点で、カリブプレートが、北アメリカプレートを押し、エンリキロ・プランテイン・ガーデン断層として知られている断層を動かした。この揺れが地表で生み出した巨大なエネルギー(リヒタースケールで7.0と計測された地震)は、ハイチにおける救世軍の災害対策本部長であり、その時ちょうど、ポートープランスに向かって近郊にあるペティオヴィルから丘を下りていたボブ・ポフの車を突き飛ばし、まるで玩具のように前後に揺り動かした。揺れが治まった時、ポフは救世軍のブログに書き込みをした、「窓から外を見たら、建物がパンケーキのようにぺちゃんこに積み重なって崩れているのが見えた…何千人もの人たちが、叫びながら、血だらけの体を引きずって、助けを求めて、道にあふれ出してきたのを見た。」
それから数時間のうちに、これまで200年以上もの間にハイチを襲ったなかでも最悪の地震の規模が明らかになった。5年前に、携帯電話のビデオがインド洋津波の惨劇をリアルタイムで世界中に配信したが、ツィッターのつぶやきやブログの書き込みが今回のハイチ地震についてまさに同じことをした、何が起こったかを伝え、誰かが自分の大切な人の消息を知っていないか尋ね、医療用品やクレオール語を話せる人を求めた。NGOのパートナーズ・イン・ヘルスの臨床責任者であるルイーズ・アイバースは、こう書き込んだ、「ポートプランスが被災して多くの死者がでた。SOS.SOS...どうか助けて下さい。」NGOのセイブ・ザ・チルドレンのイアン・ロジャーズの書き込みはこうだった、「地震から5時間たった今でも建物が崩れ落ちて行っている音が聞こえるんだ。」
(See pictures of the Haiti quake's aftermath.)
翌日、死者の数はまだわからなかった(地震の場合は常にそうなのだが、被害者を埋めてしまう)知ることが出来なかったのだ。しかし、複数のハイチ政府当局者が報道機関に話したのは、政府当局では最終的な死者数は10万人を超えるだろうと考えていることだった。さらに翌日、ハイチにおける国連活動の広報担当者であるヴィンチェンゾ・パリーズは、それまでにわかっていたことをまとめた。今回の地震は、とヴィンチェンゾは話し始めた、甚大な被害を引き起こした、大統領府や大聖堂、それから多くの政府機関の建物を破壊した。ホテルや病院、学校や、首都の中央刑務所は全て倒壊した。「犠牲者は、それは、推定できる範囲だけでさえ膨大な数になる」、ヴィンチェンゾはそう語った。「何十万人もとはいわないまでも少なくとも何万人もの人が、程度はいろいろだが、家屋の破損に苦しんでいる。」すでに跪いていた国が地面に平伏されてしまったのだ。
悲惨な場所をさらに悪くさせること
地震は予測できないものではなかった、とはいうものの、この地震による惨劇はそういった類のものではない。世界中の断層、つまり地殻を形成しているプレートとプレートの間にある危険な境界線は良く地図化されている。900万人の人口を抱える国ハイチは、カリブプレートと北アメリカプレートの接合部分の真上に位置しているのだが、「この境界線がこの島の岩盤をせん断し、押しつぶし、軋らせるのだ」、と語るのは、アメリカ地質調査所の地震災害部門、副主任であるマイケル・ブランピード氏である。「そして、そうなった時に地震が発生するのだ」
(See where the next five big earthquakes will be.)
That they do. 歴史学者によれば、過去500年間においてカリブ地域ではおよそ12の大きな地震が起こっている。地震による被害はよく知られている; 1962年の地震は、ジャマイカの都市ポート・ロイヤルをカリブ海に沈めてしまい、今日もまだ沈んだままである。しかし、地震がいつか起こるだろうということが解っても、地震が明日起こるのか、来週起こるのかそれとも来年かどうなのかと知りたがっている人には何の役にも立たない。1980年代に、アメリカ地質調査所とカリフォルニア州が、特に不安定で距離の長いサン・アンドレアス断層の研究を実施したが、2004年のパークフィールド地震を予見しうる兆候を全く見つけられなかった。「地震の予測は」、とブランピード氏は言う、「そもそも、もし出来たとしても、非常に難しいのだ」
今回のハイチ地震はこの地域において著しく強大だっただけではない; その震源は浅かったということもある ― 実際、ポートオプランスの辺りの軟弱な地盤と波型のドロドロの丘の組み合わせが、地震の影響をさらに大きくした。ポートプランス市内にある、大聖堂や大統領府のような堅強な建物がこの地震に持ちこたえられなかった、ということはつまり、他の多くのにわか作りのコンクリート製の建物はまるでトランプで作った家のように崩れ落ちてしまい、同時に多くの人の命を奪った ― ポートプランスの大主教はその一例である。
(Read "Seismologist Roger Musson: Haiti Quake Was the 'Big One.' ")
ポートプランスにある多くの立派な建物は、ハイチの人たちが国民意識や歴史観といったものを持つのに、これまで一役買ってきた、しかし今、この国は、国を立て直す方法だけでなく、国民の意識を立て直す方法をも見つけ出さなければならない。1月12日に起きたことは、まさにハイチの特殊な地形や地質によって作り出されために、最終的な被害者の数もまた、この国の、まさに特別な状況によって決定付けられるのだろう。ハイチは、不運で不幸な国だ。かつてフランスの奴隷植民地であったこの国は、長くて激しい独立戦争を経て、世界で最初の自由な黒人による近代国家として、200年以上前に血まみれで誕生した。それから何年もの間、ハイチはほぼ間断なく、地方地域の無法状態や諸外国からの干渉や経済的搾取に苦しみ続けてきた。ハイチは、1915年から1934年にかけては米軍の占領下にあった、その後、1957年から1986年の間はフランソワ・デュヴァリエとその息子であるジャン・デュヴァリエ(通称パパ・ドクとベイビー・ドクである)の支配下にあった、このデュヴァリエ政権期の政治腐敗と弾圧がハイチ国家を蝕み、教育を受けた人々の大規模な世界中への移民をもたらした。
1994年にアメリカが介入し、カリスマ的司祭で、1990年に大統領に選出されたジャン・バーナード・アリスティド政権を失脚させてしまった軍事政権を強制追放した。政治的混乱から10年後の2004年、当時、自身大統領として2期目であったアリスティドは、亡命せざるを得なかった;それから、国連の平和維持機関であるハイチ安定化派遣段が設置された―これは、ハイチ国家の平和と一定の安全確立を助けるために計画された一連の多くの海外援助のうち最新のものである。
今回の地震を特に”悲惨で計り知れないもの”にさせたのは、バラク・オバマアメリカ大統領が述べたように、地震が、まれに見る楽観主義的な時期に襲ってきたことであった。自然と政治による惨事から何十年もたった後で、前の大統領であるビル・クリントン率いる国連平和維持活動と、国際投資活動、それから国連によるハイチへの特別使節が、最近やっとこの国を沈静化させ復興し始めていたところだった。しかし、この用心深い楽観主義的な雰囲気は、まだ、一般のハイチ人の最低限の生活状態を改善し始めてはいなかった。一番いいときでさえ、ハイチの健康衛生は最悪である。公共の下水施設を備えているハイチの都市は1つもない;20万人近くの人がHIVやAIDを抱えており、ハイチの子供達のうちたった半数しか、ジフテリアやはしかといった最低限の予防接種を受けられないのだ。
この地震はものごとを想像を絶するほどに悪化させた。救急隊は既に、まだ助かる可能性のある負傷者を見つけ出すために瓦礫の中をくまなく捜索しはじめていたが、この国を脅かすような、不気味で長期的な健康リスクがそこにはある。「これから数週間のうちに、わたし達は公衆衛生に関わる膨大な問題を抱えることになるかもしれない」、と言うピノ・アナンジアータ氏は、ジュネーブのWHOで救急隊をまとめている人物である。災害から1日も経たないうちに、アメリカ海軍と沿岸警備隊の船舶が群れを成してハイチに向かい、災害救済活動の陣頭指揮をとる準備をしていた。2,000人を超える海兵隊員が、ハイチへ向かう準備をするよう告げられた。彼らは、全員出動することになるだろう。地震後の最初の混乱していた日に、消息筋が強調したのは、瓦礫を移動させて建物を支えるための重機がないことだった;人々は大切な人たちのために、自らの素手で瓦礫をかき集めていたのだ。米軍は、空港や港が、これから大勢やってくるであろう、多くの救済者を受け入れられるように準備するだろう。
発展途上国においては常にそうなのだが、最優先事項は清潔な水である。飲料水分配システムが壊れてしまったので(それに、生存者は水まわり設備のない収容所に詰め込まれている)、供給水はすぐに汚染されてしまう。そのため、コレラや赤痢のような水を媒介する感染症があっという間に広がって、収容施設中に蔓延する可能性がある。
適切な援助によって、とにかく、最悪の事態は回避できるかもしれない。今日、災害後における感染症の大流行は世界でも稀である。2004年の津波のときでさえ、20万人を超える死者を出したが、迅速かつ徹底した対応が、被災後の死者数が膨大になるのを防いだ。実際に、海外からの、ハイチに対する非常に大きな注目によって、最終的に、ハイチの公衆衛生システムは改善されるかもしれない、津波の後のインドネシア、アチェ州がそうであったように。
ハイチの状況がよくなることを願っている人たち誰もが、そういった親切な施しを望むだろう。多くの人が望むだけでなく実行するだろう。トロイ・リヴゼイは、ポートオプランスから最初に言葉を発信した多くの宣教師の中の1人であるが、ツィッターの書き込みの中で、地震の会った日の夜の雰囲気を、こう表現した。「協会の人々は歌っている…祈っているのだ」と彼は書き込んだ。「恐ろしい惨状の中にあって、美しい歌声です。」
信者になるまでもなく、長い間悲しみに耐え続けてきたハイチの人々の祈りがかなえられることを望むはずだ。
— With reporting by Massimo Calabresi, Michael Scherer and Mark Thompson / Washington; Gilbert Cruz, Jeffrey Kluger, Kate Pickert and Bryan Walsh / New York; and Tim Padgett / Miami
By MICHAEL ELLIOTT Thursday, Jan. 14, 2010
http://www.time.com/time/specials/packages/article/0,28804,1953379_1953494_1953499,00.html
悲劇は、それを最も耐えられないところに訪れるものだ。ハイチは西半球において最も貧しい国であり、栄養失調が蔓延し、人口の半分に満たない人しか清潔な飲み水を手に入れられない場所だった。
1月12日午後4時53分9秒、ハイチ首都ポートプランスから南西に15マイルの地点で、カリブプレートが、北アメリカプレートを押し、エンリキロ・プランテイン・ガーデン断層として知られている断層を動かした。この揺れが地表で生み出した巨大なエネルギー(リヒタースケールで7.0と計測された地震)は、ハイチにおける救世軍の災害対策本部長であり、その時ちょうど、ポートープランスに向かって近郊にあるペティオヴィルから丘を下りていたボブ・ポフの車を突き飛ばし、まるで玩具のように前後に揺り動かした。揺れが治まった時、ポフは救世軍のブログに書き込みをした、「窓から外を見たら、建物がパンケーキのようにぺちゃんこに積み重なって崩れているのが見えた…何千人もの人たちが、叫びながら、血だらけの体を引きずって、助けを求めて、道にあふれ出してきたのを見た。」
それから数時間のうちに、これまで200年以上もの間にハイチを襲ったなかでも最悪の地震の規模が明らかになった。5年前に、携帯電話のビデオがインド洋津波の惨劇をリアルタイムで世界中に配信したが、ツィッターのつぶやきやブログの書き込みが今回のハイチ地震についてまさに同じことをした、何が起こったかを伝え、誰かが自分の大切な人の消息を知っていないか尋ね、医療用品やクレオール語を話せる人を求めた。NGOのパートナーズ・イン・ヘルスの臨床責任者であるルイーズ・アイバースは、こう書き込んだ、「ポートプランスが被災して多くの死者がでた。SOS.SOS...どうか助けて下さい。」NGOのセイブ・ザ・チルドレンのイアン・ロジャーズの書き込みはこうだった、「地震から5時間たった今でも建物が崩れ落ちて行っている音が聞こえるんだ。」
(See pictures of the Haiti quake's aftermath.)
翌日、死者の数はまだわからなかった(地震の場合は常にそうなのだが、被害者を埋めてしまう)知ることが出来なかったのだ。しかし、複数のハイチ政府当局者が報道機関に話したのは、政府当局では最終的な死者数は10万人を超えるだろうと考えていることだった。さらに翌日、ハイチにおける国連活動の広報担当者であるヴィンチェンゾ・パリーズは、それまでにわかっていたことをまとめた。今回の地震は、とヴィンチェンゾは話し始めた、甚大な被害を引き起こした、大統領府や大聖堂、それから多くの政府機関の建物を破壊した。ホテルや病院、学校や、首都の中央刑務所は全て倒壊した。「犠牲者は、それは、推定できる範囲だけでさえ膨大な数になる」、ヴィンチェンゾはそう語った。「何十万人もとはいわないまでも少なくとも何万人もの人が、程度はいろいろだが、家屋の破損に苦しんでいる。」すでに跪いていた国が地面に平伏されてしまったのだ。
悲惨な場所をさらに悪くさせること
地震は予測できないものではなかった、とはいうものの、この地震による惨劇はそういった類のものではない。世界中の断層、つまり地殻を形成しているプレートとプレートの間にある危険な境界線は良く地図化されている。900万人の人口を抱える国ハイチは、カリブプレートと北アメリカプレートの接合部分の真上に位置しているのだが、「この境界線がこの島の岩盤をせん断し、押しつぶし、軋らせるのだ」、と語るのは、アメリカ地質調査所の地震災害部門、副主任であるマイケル・ブランピード氏である。「そして、そうなった時に地震が発生するのだ」
(See where the next five big earthquakes will be.)
That they do. 歴史学者によれば、過去500年間においてカリブ地域ではおよそ12の大きな地震が起こっている。地震による被害はよく知られている; 1962年の地震は、ジャマイカの都市ポート・ロイヤルをカリブ海に沈めてしまい、今日もまだ沈んだままである。しかし、地震がいつか起こるだろうということが解っても、地震が明日起こるのか、来週起こるのかそれとも来年かどうなのかと知りたがっている人には何の役にも立たない。1980年代に、アメリカ地質調査所とカリフォルニア州が、特に不安定で距離の長いサン・アンドレアス断層の研究を実施したが、2004年のパークフィールド地震を予見しうる兆候を全く見つけられなかった。「地震の予測は」、とブランピード氏は言う、「そもそも、もし出来たとしても、非常に難しいのだ」
今回のハイチ地震はこの地域において著しく強大だっただけではない; その震源は浅かったということもある ― 実際、ポートオプランスの辺りの軟弱な地盤と波型のドロドロの丘の組み合わせが、地震の影響をさらに大きくした。ポートプランス市内にある、大聖堂や大統領府のような堅強な建物がこの地震に持ちこたえられなかった、ということはつまり、他の多くのにわか作りのコンクリート製の建物はまるでトランプで作った家のように崩れ落ちてしまい、同時に多くの人の命を奪った ― ポートプランスの大主教はその一例である。
(Read "Seismologist Roger Musson: Haiti Quake Was the 'Big One.' ")
ポートプランスにある多くの立派な建物は、ハイチの人たちが国民意識や歴史観といったものを持つのに、これまで一役買ってきた、しかし今、この国は、国を立て直す方法だけでなく、国民の意識を立て直す方法をも見つけ出さなければならない。1月12日に起きたことは、まさにハイチの特殊な地形や地質によって作り出されために、最終的な被害者の数もまた、この国の、まさに特別な状況によって決定付けられるのだろう。ハイチは、不運で不幸な国だ。かつてフランスの奴隷植民地であったこの国は、長くて激しい独立戦争を経て、世界で最初の自由な黒人による近代国家として、200年以上前に血まみれで誕生した。それから何年もの間、ハイチはほぼ間断なく、地方地域の無法状態や諸外国からの干渉や経済的搾取に苦しみ続けてきた。ハイチは、1915年から1934年にかけては米軍の占領下にあった、その後、1957年から1986年の間はフランソワ・デュヴァリエとその息子であるジャン・デュヴァリエ(通称パパ・ドクとベイビー・ドクである)の支配下にあった、このデュヴァリエ政権期の政治腐敗と弾圧がハイチ国家を蝕み、教育を受けた人々の大規模な世界中への移民をもたらした。
1994年にアメリカが介入し、カリスマ的司祭で、1990年に大統領に選出されたジャン・バーナード・アリスティド政権を失脚させてしまった軍事政権を強制追放した。政治的混乱から10年後の2004年、当時、自身大統領として2期目であったアリスティドは、亡命せざるを得なかった;それから、国連の平和維持機関であるハイチ安定化派遣段が設置された―これは、ハイチ国家の平和と一定の安全確立を助けるために計画された一連の多くの海外援助のうち最新のものである。
今回の地震を特に”悲惨で計り知れないもの”にさせたのは、バラク・オバマアメリカ大統領が述べたように、地震が、まれに見る楽観主義的な時期に襲ってきたことであった。自然と政治による惨事から何十年もたった後で、前の大統領であるビル・クリントン率いる国連平和維持活動と、国際投資活動、それから国連によるハイチへの特別使節が、最近やっとこの国を沈静化させ復興し始めていたところだった。しかし、この用心深い楽観主義的な雰囲気は、まだ、一般のハイチ人の最低限の生活状態を改善し始めてはいなかった。一番いいときでさえ、ハイチの健康衛生は最悪である。公共の下水施設を備えているハイチの都市は1つもない;20万人近くの人がHIVやAIDを抱えており、ハイチの子供達のうちたった半数しか、ジフテリアやはしかといった最低限の予防接種を受けられないのだ。
この地震はものごとを想像を絶するほどに悪化させた。救急隊は既に、まだ助かる可能性のある負傷者を見つけ出すために瓦礫の中をくまなく捜索しはじめていたが、この国を脅かすような、不気味で長期的な健康リスクがそこにはある。「これから数週間のうちに、わたし達は公衆衛生に関わる膨大な問題を抱えることになるかもしれない」、と言うピノ・アナンジアータ氏は、ジュネーブのWHOで救急隊をまとめている人物である。災害から1日も経たないうちに、アメリカ海軍と沿岸警備隊の船舶が群れを成してハイチに向かい、災害救済活動の陣頭指揮をとる準備をしていた。2,000人を超える海兵隊員が、ハイチへ向かう準備をするよう告げられた。彼らは、全員出動することになるだろう。地震後の最初の混乱していた日に、消息筋が強調したのは、瓦礫を移動させて建物を支えるための重機がないことだった;人々は大切な人たちのために、自らの素手で瓦礫をかき集めていたのだ。米軍は、空港や港が、これから大勢やってくるであろう、多くの救済者を受け入れられるように準備するだろう。
発展途上国においては常にそうなのだが、最優先事項は清潔な水である。飲料水分配システムが壊れてしまったので(それに、生存者は水まわり設備のない収容所に詰め込まれている)、供給水はすぐに汚染されてしまう。そのため、コレラや赤痢のような水を媒介する感染症があっという間に広がって、収容施設中に蔓延する可能性がある。
適切な援助によって、とにかく、最悪の事態は回避できるかもしれない。今日、災害後における感染症の大流行は世界でも稀である。2004年の津波のときでさえ、20万人を超える死者を出したが、迅速かつ徹底した対応が、被災後の死者数が膨大になるのを防いだ。実際に、海外からの、ハイチに対する非常に大きな注目によって、最終的に、ハイチの公衆衛生システムは改善されるかもしれない、津波の後のインドネシア、アチェ州がそうであったように。
ハイチの状況がよくなることを願っている人たち誰もが、そういった親切な施しを望むだろう。多くの人が望むだけでなく実行するだろう。トロイ・リヴゼイは、ポートオプランスから最初に言葉を発信した多くの宣教師の中の1人であるが、ツィッターの書き込みの中で、地震の会った日の夜の雰囲気を、こう表現した。「協会の人々は歌っている…祈っているのだ」と彼は書き込んだ。「恐ろしい惨状の中にあって、美しい歌声です。」
信者になるまでもなく、長い間悲しみに耐え続けてきたハイチの人々の祈りがかなえられることを望むはずだ。
— With reporting by Massimo Calabresi, Michael Scherer and Mark Thompson / Washington; Gilbert Cruz, Jeffrey Kluger, Kate Pickert and Bryan Walsh / New York; and Tim Padgett / Miami
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