Sunday, February 21, 2010

J.D.Salinger Dies at 91: The Hermit Crab of American Letters

J.D.サリンジャー氏91歳で死去:アメリカ文学界のヤドカリ
http://www.time.com/time/arts/article/0,8599,1957492,00.html
By Richard Lacayo Friday, Jan. 29, 2010
















「ライ麦畑でつかまえて」の著者J.D.サリンジャー氏、2010年1月27日、ニューハンプシャー州コーニッシュの自宅にて老衰のため死去。91歳であった。
イブニング・スタンダード紙より

書棚から、簡素な数冊のペーパーバックを取り出すと、J.D.サリンジャーの作品(一遍の小説と3巻の短編集)を全部片手でつかめるだろう。彼のお気に入りの作家たち(大昔の詩だけで知られているサッポーや、17音節で俳句を作った日本の詩人達)と同様、サリンジャーは、ほんのわずかな作品に纏わる栄誉で知られる作家だった。1948年に最初に出版された作品について、本人は、ニューヨーカー誌に掲載されてもよい出来栄えだと思っていた。それから17年後、最後の作品をニューヨーカー誌に掲載して日よけを下ろしてしまった。

その日から、ニューハンプシャー州コーニッシュの自宅で1月27日に91歳で亡くなるまでの間、サリンジャーはアメリカ文学界のヤドカリだった。世間に姿を見せるのは、大概、誰かが自分の貝殻をつついたと不平をいう時だった。サリンジャー特有の名声辞退は、次第に、彼の作品と同じくらい重要だと判るかもしれない。1960年代、コーニッシュの小さな家に隠居した彼は、有名人としての暮らしを拒んだ。トーマス・ピンチョンはそういった意味ではほぼ間違いなくサリンジャーの後継者であるが、ピンチョンはウィンク1つと一度のチェシャ猫の薄笑いを見せて世界に背を向けるやり方をあみ出していた。サリンジャーのやり方は睨み付けることだった。さらにまた、サリンジャーはある考えをひねり出すと、発案者の汗まみれの熱心さでもってそこに傾倒していった。

サリンジャー唯一の小説、ライ麦畑でつかまえては1951年に出版されてから徐々に、サリンジャーをうんざりさせるような地位に登りつめた。数十年の間、この小説は、世界中で青春の通過儀礼だったし、怒れる若者の声明文だった。(時として死を招くほどの怒りもあった:1980年にジョン・レノンを射殺したマーク・デイヴィッド・チャップマンは犯行後に、サリンジャー作品を読むことを宣伝するために犯行を犯したと発言した。その数ヵ月後、ジョン・ヒンクリーがロナルド・レーガン大統領を狙撃するために出かけたとき、ホテルの彼の部屋にはサリンジャーの本が一冊残されていた。)しかし、何百万もの頭がおかしくなっていなかった人たちにとってさえ重要だったのは、ホールデン・コールフィールド、サリンジャーが生み出した、不機嫌で憧れの強い(そしてほぼ間違いなく躁うつ病の)若き主人公が怒れる若者の原型だったということだ。コールフィールドが、皮肉屋の鎧に包まれた傷つきやすい性格でもあるということは、彼自身をより魅力的にした。ジェイムズ・ジョイスやアーネスト・ヘミングウェイもまた、不機嫌な若者を生み出した。だが、サリンジャーがコールフィールドを生み出したちょうどその頃、アメリカのティーンエイジ文化が生まれたばかりだった。反抗的な若者の世代丸ごと1つが、ある特定の反抗的な若者になった。

サリンジャーは、シャーウッド・アンダーソンや、イサク・ディネーセン、F.スコットフィッツジェラルド、それから特にリング・ラードナーから引用したので、サリンジャー作品の登場人物は、こういった人たちの作品中のワルみたいに早口で、日常的なことを話したり、時には、深刻な問題を早口で話し合ったりするのだが、これを、数年後のウッディ・アレン映画に登場するニューヨークっ子たちが引き継いでいる。しかし、サリンジャーはそういったことを全部何か新しいものに変えていった、その雰囲気は、世俗的なものと宗教的なものからとか、この世のものとこの世のものではないものから、有頂天と気だるさから引用したものだ。例のグラス家の7人兄弟(芸能人と聖職者が入り混じった複雑な構成のグラス家は、サリンジャーのもう一つの不朽の創造物である)が、サリンジャー自身の様々な面の集合写真を構成していると見なすのが一般的である。7人それぞれがサリンジャーの異なる特徴を映しだしている:作家と俳優、出世を望むものと研究者、宗教的熟練者とずっこけた馬鹿者。それが事実だということは十分ありうる。サリンジャーは誰にも確かめられないようにしてしまった。ホールデン・コールフィールドが言うには、「絶対に誰にも何にも言うな」。このセリフはサリンジャーの言葉かもしれない。

ジェローム・デイヴィッド・サリンジャーは1919年1月1日、ニューヨークで生まれた。母親はスコットランド生まれのプロテスタントだったが、ユダヤ教徒の義理の家族に合わせるため、マリーという名をミリアムと改名した。父親であるソロモンは、食品輸入業者であり、サリンジャーが13歳になった頃、家族でパーク・アベニューに引越し、成績の悪かったサリンジャーをマンハッタンの私立学校に入学させられるほど成功していた。サリンジャーは2年で退学になった。それからフィラデルフィア郊外にある、ヴァレー・フォージ・ミリタリー・アカデミーに送り込まれた。この学校が、後にペンスィ―・プレップ、つまりコーンフィールドが逃げ出した学校のモデルになったようだ。

ヴァレー・フォージを卒業後、サリンジャーはいくつかの学校から逃げ出している。ニューヨーク大学を中退するまでには、2セメスターをやっと修めただけだった。父親は、サリンジャーを家業に参加させようと決め、ハムについて色々と学ばせるためにオーストリアやポーランドに連れて行った。「結局あの人たちは、2か月もかけて、ブィドゴシュチュまで僕を引きずって行ったんだ。」とサリンジャーは後年に書き残している。「そこでは、僕はブタを解体して、大きな解体熟練者と一緒に雪の中を運んだんだ。」ハムはサリンジャーの未来ではなかった。アメリカに戻って、また別の学校に気乗りしないまま挑戦した、今度はペンシルバニア州の田舎町にあるウルジヌス大学だった。サリンジャーは1セメスターを終えると、ずるずるとマンハッタンに戻ってきた。

この頃までに、サリンジャーは曖昧な目標を心に抱いていた:作家になりたかったのだ。1939年の秋に、ウィット・バーネットが教鞭をとる、コロンビア大学の作家養成講座に参加した、バーネット氏は、評価の高い小さな文芸誌で、ウィリアム・サローヤンやジョセフ・ヘラ―、カーソン・マッカラーズらを排出したストーリー誌の創設者であり、編集者だった。バーネットはすぐに教え子サリンジャーの才能に注目し、サリンジャーの作品は最初にストーリー誌に掲載するように取り計った。1940年3-4月号のストーリー誌は、後にサリンジャー作品に登場することになる若者たちの原型である、とあるパーティでの大学生たちを辛辣に描写した短編 "若者たち" を掲載した。

その後数カ月の間、サリンジャーは、コリアーやエクスカイア―のような大衆雑誌に取り上げられ、夢見ていたニューヨーカー誌に、気をもませる書き下ろし作品を掲載し、単にプロの作家ではなく芸術家でもあることを証明した。

1942年4月、真珠湾攻撃の4ヶ月後に、サリンジャーは招集された。最終的に、ナチ協力疑惑のある人を尋問するようなことをするためにアメリカ兵を訓練していた、米軍諜報部隊の一員として船でイギリスに移送された。サリンジャーは小さなタイプライターをいつも持っていて、ヨーロッパ中を持って歩き、いつも書いていた。作戦決行日には、歩兵連隊の隊員としてノルマンディに上陸した。8月までに、サリンジャーの連隊はパリまで進軍し、そこからドイツまで強硬進軍した。その秋と冬には、1カ月も続く、凍える、泥だらけで地雷だらけの森の中での激闘だったヒュルトゲン森の闘いを含む、いくつかの最も恐ろしい軍事作戦に参加したようだ。

戦時中に、サリンジャーに何があったのかはあまりよく知られていない。しかし、悩ましい伝記作家である、イアン・ハミルトン(サリンジャーはハミルトンが自分の文章を引用できないように裁判を起こし勝訴している)は、戦後まもなく、サリンジャーが神経衰弱になったと考えている。ハミルトンの著書 "J.D.サリンジャーをつかまえて" の中で、1945年にサリンジャーが、一年前にパリで出会ったヘミングウェイに宛てて書いた手紙を紹介している、手紙の中でサリンジャーは、軍を離れて、ニュルンブルグの病院で、精神障害を引き起こすかもしれない症状の治療を受けていたことに触れている。もしそうだだったのだとすれば、彼の作品である、ある種の入院の後で、"精神を無傷に保とう" と苦しむ米兵について描かれた優れた、そして複雑な物語 "エズムへ、愛と堕落をこめて" の中心にいるのはサリンジャー自身だったことは確実である。その年の9月、サリンジャーはなにか、もしかすると安定剤に頼っている男の行動かもしれないような奇妙なことをしでかした:ドイツ在住のフランス人女性と、突然結婚したのだ。サリンジャーは、翌春、アメリカに帰国する時に彼女を連れて帰って来たのだが、その後まもなく、我々には解らない何らかの理由で、彼女はフランスに帰国し、結婚は解消された。

ニューヨークに戻り、また両親と暮らし始めたサリンジャーは、1日中執筆する生活に戻り、ようやく、ニューヨーカー誌の高い壁を越えた。1946年、ニューヨーカー誌は、かつておざなりに扱っていた、ホールデン・コールフィールドの物語を掲載した。2年後、サリンジャーはニューヨーカー誌に正式な作家として取り上げられ、6か月に3篇の作品を発表した。その時からずっと、サリンジャーは他の何処にも自分の作品を掲載していない。そして、1953年の短編集 "ナインストーリーズ" 中の2作品は別として、彼は他のところでかつて発表した作品に背を向けてしまい、自分の作品集に収めることを決して許さなかった。






No comments: