Friday, January 22, 2010

Haiti's Agony: What It Will Take to Rebuild

ハイチの受難: 復興に必要なもの
By MICHAEL ELLIOTT Thursday, Jan. 14, 2010
http://www.time.com/time/specials/packages/article/0,28804,1953379_1953494_1953499,00.html














悲劇は、それを最も耐えられないところに訪れるものだ。ハイチは西半球において最も貧しい国であり、栄養失調が蔓延し、人口の半分に満たない人しか清潔な飲み水を手に入れられない場所だった。

1月12日午後4時53分9秒、ハイチ首都ポートプランスから南西に15マイルの地点で、カリブプレートが、北アメリカプレートを押し、エンリキロ・プランテイン・ガーデン断層として知られている断層を動かした。この揺れが地表で生み出した巨大なエネルギー(リヒタースケールで7.0と計測された地震)は、ハイチにおける救世軍の災害対策本部長であり、その時ちょうど、ポートープランスに向かって近郊にあるペティオヴィルから丘を下りていたボブ・ポフの車を突き飛ばし、まるで玩具のように前後に揺り動かした。揺れが治まった時、ポフは救世軍のブログに書き込みをした、「窓から外を見たら、建物がパンケーキのようにぺちゃんこに積み重なって崩れているのが見えた…何千人もの人たちが、叫びながら、血だらけの体を引きずって、助けを求めて、道にあふれ出してきたのを見た。」

それから数時間のうちに、これまで200年以上もの間にハイチを襲ったなかでも最悪の地震の規模が明らかになった。5年前に、携帯電話のビデオがインド洋津波の惨劇をリアルタイムで世界中に配信したが、ツィッターのつぶやきやブログの書き込みが今回のハイチ地震についてまさに同じことをした、何が起こったかを伝え、誰かが自分の大切な人の消息を知っていないか尋ね、医療用品やクレオール語を話せる人を求めた。NGOのパートナーズ・イン・ヘルスの臨床責任者であるルイーズ・アイバースは、こう書き込んだ、「ポートプランスが被災して多くの死者がでた。SOS.SOS...どうか助けて下さい。」NGOのセイブ・ザ・チルドレンのイアン・ロジャーズの書き込みはこうだった、「地震から5時間たった今でも建物が崩れ落ちて行っている音が聞こえるんだ。」
(See pictures of the Haiti quake's aftermath.)

翌日、死者の数はまだわからなかった(地震の場合は常にそうなのだが、被害者を埋めてしまう)知ることが出来なかったのだ。しかし、複数のハイチ政府当局者が報道機関に話したのは、政府当局では最終的な死者数は10万人を超えるだろうと考えていることだった。さらに翌日、ハイチにおける国連活動の広報担当者であるヴィンチェンゾ・パリーズは、それまでにわかっていたことをまとめた。今回の地震は、とヴィンチェンゾは話し始めた、甚大な被害を引き起こした、大統領府や大聖堂、それから多くの政府機関の建物を破壊した。ホテルや病院、学校や、首都の中央刑務所は全て倒壊した。「犠牲者は、それは、推定できる範囲だけでさえ膨大な数になる」、ヴィンチェンゾはそう語った。「何十万人もとはいわないまでも少なくとも何万人もの人が、程度はいろいろだが、家屋の破損に苦しんでいる。」すでに跪いていた国が地面に平伏されてしまったのだ。


悲惨な場所をさらに悪くさせること

地震は予測できないものではなかった、とはいうものの、この地震による惨劇はそういった類のものではない。世界中の断層、つまり地殻を形成しているプレートとプレートの間にある危険な境界線は良く地図化されている。900万人の人口を抱える国ハイチは、カリブプレートと北アメリカプレートの接合部分の真上に位置しているのだが、「この境界線がこの島の岩盤をせん断し、押しつぶし、軋らせるのだ」、と語るのは、アメリカ地質調査所の地震災害部門、副主任であるマイケル・ブランピード氏である。「そして、そうなった時に地震が発生するのだ」
(See where the next five big earthquakes will be.)

That they do. 歴史学者によれば、過去500年間においてカリブ地域ではおよそ12の大きな地震が起こっている。地震による被害はよく知られている; 1962年の地震は、ジャマイカの都市ポート・ロイヤルをカリブ海に沈めてしまい、今日もまだ沈んだままである。しかし、地震がいつか起こるだろうということが解っても、地震が明日起こるのか、来週起こるのかそれとも来年かどうなのかと知りたがっている人には何の役にも立たない。1980年代に、アメリカ地質調査所とカリフォルニア州が、特に不安定で距離の長いサン・アンドレアス断層の研究を実施したが、2004年のパークフィールド地震を予見しうる兆候を全く見つけられなかった。「地震の予測は」、とブランピード氏は言う、「そもそも、もし出来たとしても、非常に難しいのだ」

今回のハイチ地震はこの地域において著しく強大だっただけではない; その震源は浅かったということもある ― 実際、ポートオプランスの辺りの軟弱な地盤と波型のドロドロの丘の組み合わせが、地震の影響をさらに大きくした。ポートプランス市内にある、大聖堂や大統領府のような堅強な建物がこの地震に持ちこたえられなかった、ということはつまり、他の多くのにわか作りのコンクリート製の建物はまるでトランプで作った家のように崩れ落ちてしまい、同時に多くの人の命を奪った ― ポートプランスの大主教はその一例である。
(Read "Seismologist Roger Musson: Haiti Quake Was the 'Big One.' ")

ポートプランスにある多くの立派な建物は、ハイチの人たちが国民意識や歴史観といったものを持つのに、これまで一役買ってきた、しかし今、この国は、国を立て直す方法だけでなく、国民の意識を立て直す方法をも見つけ出さなければならない。1月12日に起きたことは、まさにハイチの特殊な地形や地質によって作り出されために、最終的な被害者の数もまた、この国の、まさに特別な状況によって決定付けられるのだろう。ハイチは、不運で不幸な国だ。かつてフランスの奴隷植民地であったこの国は、長くて激しい独立戦争を経て、世界で最初の自由な黒人による近代国家として、200年以上前に血まみれで誕生した。それから何年もの間、ハイチはほぼ間断なく、地方地域の無法状態や諸外国からの干渉や経済的搾取に苦しみ続けてきた。ハイチは、1915年から1934年にかけては米軍の占領下にあった、その後、1957年から1986年の間はフランソワ・デュヴァリエとその息子であるジャン・デュヴァリエ(通称パパ・ドクとベイビー・ドクである)の支配下にあった、このデュヴァリエ政権期の政治腐敗と弾圧がハイチ国家を蝕み、教育を受けた人々の大規模な世界中への移民をもたらした。

1994年にアメリカが介入し、カリスマ的司祭で、1990年に大統領に選出されたジャン・バーナード・アリスティド政権を失脚させてしまった軍事政権を強制追放した。政治的混乱から10年後の2004年、当時、自身大統領として2期目であったアリスティドは、亡命せざるを得なかった;それから、国連の平和維持機関であるハイチ安定化派遣段が設置された―これは、ハイチ国家の平和と一定の安全確立を助けるために計画された一連の多くの海外援助のうち最新のものである。

今回の地震を特に”悲惨で計り知れないもの”にさせたのは、バラク・オバマアメリカ大統領が述べたように、地震が、まれに見る楽観主義的な時期に襲ってきたことであった。自然と政治による惨事から何十年もたった後で、前の大統領であるビル・クリントン率いる国連平和維持活動と、国際投資活動、それから国連によるハイチへの特別使節が、最近やっとこの国を沈静化させ復興し始めていたところだった。しかし、この用心深い楽観主義的な雰囲気は、まだ、一般のハイチ人の最低限の生活状態を改善し始めてはいなかった。一番いいときでさえ、ハイチの健康衛生は最悪である。公共の下水施設を備えているハイチの都市は1つもない;20万人近くの人がHIVやAIDを抱えており、ハイチの子供達のうちたった半数しか、ジフテリアやはしかといった最低限の予防接種を受けられないのだ。

この地震はものごとを想像を絶するほどに悪化させた。救急隊は既に、まだ助かる可能性のある負傷者を見つけ出すために瓦礫の中をくまなく捜索しはじめていたが、この国を脅かすような、不気味で長期的な健康リスクがそこにはある。「これから数週間のうちに、わたし達は公衆衛生に関わる膨大な問題を抱えることになるかもしれない」、と言うピノ・アナンジアータ氏は、ジュネーブのWHOで救急隊をまとめている人物である。災害から1日も経たないうちに、アメリカ海軍と沿岸警備隊の船舶が群れを成してハイチに向かい、災害救済活動の陣頭指揮をとる準備をしていた。2,000人を超える海兵隊員が、ハイチへ向かう準備をするよう告げられた。彼らは、全員出動することになるだろう。地震後の最初の混乱していた日に、消息筋が強調したのは、瓦礫を移動させて建物を支えるための重機がないことだった;人々は大切な人たちのために、自らの素手で瓦礫をかき集めていたのだ。米軍は、空港や港が、これから大勢やってくるであろう、多くの救済者を受け入れられるように準備するだろう。

発展途上国においては常にそうなのだが、最優先事項は清潔な水である。飲料水分配システムが壊れてしまったので(それに、生存者は水まわり設備のない収容所に詰め込まれている)、供給水はすぐに汚染されてしまう。そのため、コレラや赤痢のような水を媒介する感染症があっという間に広がって、収容施設中に蔓延する可能性がある。

適切な援助によって、とにかく、最悪の事態は回避できるかもしれない。今日、災害後における感染症の大流行は世界でも稀である。2004年の津波のときでさえ、20万人を超える死者を出したが、迅速かつ徹底した対応が、被災後の死者数が膨大になるのを防いだ。実際に、海外からの、ハイチに対する非常に大きな注目によって、最終的に、ハイチの公衆衛生システムは改善されるかもしれない、津波の後のインドネシア、アチェ州がそうであったように。

ハイチの状況がよくなることを願っている人たち誰もが、そういった親切な施しを望むだろう。多くの人が望むだけでなく実行するだろう。トロイ・リヴゼイは、ポートオプランスから最初に言葉を発信した多くの宣教師の中の1人であるが、ツィッターの書き込みの中で、地震の会った日の夜の雰囲気を、こう表現した。「協会の人々は歌っている…祈っているのだ」と彼は書き込んだ。「恐ろしい惨状の中にあって、美しい歌声です。」

信者になるまでもなく、長い間悲しみに耐え続けてきたハイチの人々の祈りがかなえられることを望むはずだ。



— With reporting by Massimo Calabresi, Michael Scherer and Mark Thompson / Washington; Gilbert Cruz, Jeffrey Kluger, Kate Pickert and Bryan Walsh / New York; and Tim Padgett / Miami



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