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Sunday, May 22, 2011

Amortality:Why It's No Longer Necessary to Act Your Age

http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,2065156,00.html

もう年相応にふるまう必要がないのはなぜ?

what is amortal?  also see http://www.hghhelp.info/ammortality.php

 
サンシティー・ポムズ61歳から78歳のメンバーが
演技を披露。いくつになっても限界に挑戦するのに遅すぎるってことはないわ
 自然をねじふせ時計をとめる場所が地球上にあるとすれば、それはラスベガスだろう。燃え立つ太陽のほかには、確かな資源も水もない土地に作られたリゾートは常に変わることなく、涼しく、訪れる人々をホテルのけたたましいカジノの薄暗がりに閉じ込める。立ち並ぶビルの景色は古代エジプトがルネッサンス時代のベニスや、19世紀末のパリの近くにあるといったふうだ。
「世界最大のアンチエイジング施術」のセネジェニック・メディカル・インスティテュートが同じようにやすやすと人間のの生物摂理を覆すことができるかを確かめにこの人工の街へやってきた。
まずはセネジェニックをみつけなければ。「ホワイトハウスにそっくり」だと持ち主がいうその建物を見つけ出すのに苦労はなかろうと思われるかもしれないが、ネバダ砂漠に忽然と出現したいくつものホワイトハウスから目指すその一軒を見つけ出すのに、タクシードライバーは数回も行ったり来たりした。

まさしくべガスパラドックスだ。驚くべきほどさまざまな建築様式や時代がそこにあるのに、全体に見過ごすことのできない画一性もまた存在する。住人たちはみな同じように見える。年中小麦色の肌をし、ベルボーイからカジノのオーナーまで、性別や収入にかわわらず画一的な顔をしている。欠落が特徴となっている顔。糸やワックスを使用し眉毛は抜かれ整えられ、でこぼこなど全く無いなめらかな形の整った鼻。とりわけ顕著なのは若くもなく年老いてもいないように見える点だ。年齢不詳、年齢がないのだ。

Amortality―この頃のトレンドである年齢を超越した生き方をこう名付けてみた。現在の私たちの多くが暮らす事実上のラスベガスの延長であるこの世界の産物だ。年を経るにつれてどんなふうになるかを示すガイドラインになるランドマークも歴史もない。かつて若さとは成熟期が訪れ、やがては老いていくまえの最後の浮かれ騒ぎ期であった。子供地代、思春期、青年期、中年、定年、老後、終末期、それぞれの時期は文化的に典型がありそれを基準にして存在した。しかし私たちの寿命はのび、先進諸国では20世紀の初めにくらべると30年も長くなっている。人間の年齢は考慮されなくなり始めている。そんなことはあるまいとお思いならば、次の疑問へ答えることがどれだけ難しいかを考えてみるといい。子供を持つ、生涯の伴侶と落ち着く、引退をする、それぞれに最もふさわしい年齢は?
女性はいつごろ自分を中年と考えるのだろうか、40代、50代、60代?男性はどうだろうか?

年齢の意味するものは、わかりづらくなった。見た目はあてにならない。
子供はませて大人のような格好をし、親たちはちゃらちゃらした服を着てスニーカーをはき、だらしなく歩き回る。この頃増殖してきたドリアン・グレイたちが超越した若さを保とうと、エクソサイズ、ダイエット、整形に精を出す一方、十代や二十代の若者は大人っぽい外見になろうとして同じことをしている。

親、教師、教会、環境により、しっかりとたたきこまれていた年相応の行動規範は、もはやすたれつつある。しかし私たちは信仰を失ったわけではなく、ただその対象を科学者や有名人に変えただけなのだ。ハリウッドはamortality のメッカであり、その動きをもりあげる音楽だ。
「できるうちは、やりたいことをやり続けるべきだと思うよ」45歳になっても(思うにもっと後になるのだが)「サティスファクション」をうたっているくらいなら、死んだ方がマシだといった1975年の5月の自身の発言を反故にして66歳のミック・ジャガーはいう。

自分のやりたいこと―マドンナのように49歳や50歳になって養子を迎える、エルトン・ジョンのように62歳にして初めて親になる、ヒュー・ヘフナーのように60歳も自分より若い女性と結婚しようとしたり、あるいはミック・ジャガー自身のようにこれまでは独身生活、結婚という順序が普通であったがそれを逆にしてしまうのもやりたいことになるのかもしれない。こうしたことをamortalは選択する。
しかしamortalityは若くあることと常に同義というわけではない。メリル・ストリープは違った形のamortalityを具現している。本当にいくつなのかわからない。ウッディ・アレンはプライベートでも仕事上でも波乱万丈の人生をおくるamortalityの典型といえる。じっとしていないのだ。ここ40年間のうち3年を除けば毎年少なくとも映画を一本製作し、ジャズバンドで定期的に演奏活動もする。「こうした冗談や、衣装、かつら、撮影地、日刊紙なんかを気にかけているうちは死や人生の短さなんて心配していられないものだからね」とインタビューに答える。

アモータルのはっきりとした特徴は、ハイティーンのころから死ぬ間際まで、同じ調子で、同じことをし、ほとんど同じものを消費するという変わらない生き方だ。自分たちの振る舞いが年齢的にふさわしいかどうかなぞ気にすることは滅多にない。そうした概念は彼らにとってあまり意味をなさないからだ。避けることのできない死を考えたくないため、死を念頭においた人生の設計をしたりはしない。その代り、向上心を抱き続け、新しいものやサービスに目がないのだ。アモータルはどんな選択もありだと思っている。引退の時期を必要性からではなく自らの意志で延期する。アメリカ退職者協会がその名前をAARPに変更したのは、実際のところ構成員のうち多くがまだ働いているからというのも理由のひとつなのだ。また、かってないほど子供を持つ時期は遅くなっており、不妊治療に頼る場合も多い。

豊かさの副産物であるアモータリティは社会経済全般、老いも若気もすべてにわたってその行動に影響を与える。しかしアモータルらが”老けることなく”年齢を重ねるため彼らは一層目につく。世界で高齢化が進んでいることを考えると、それまでの年の取り方を全く変えてしまうことは必ずしも悪いことではない。
2050年までには人類の五分の一が60歳以上になるだろうし、アメリカにおいては人口の27パーセントを占めるだろう。活動的なアモータル力が正しい方向に向けられれば、懸念される労働力不足の緩和や膨らみ続ける健康保険料の抑制に役立つだろうが、アモータリティにリスクがないわけではない。科学が加齢により訪れるものから自分たちを解放してくれる、あるいは若さを保つことを約束する商品やプログラムが万一うまくいかなくても、少なくとも死のタイミングや死に方の選択を可能にはしてくれるだろうと信じがちな危うさがアモータルたちにはある。

生命をおびやかすさまざまなものを取り除いたり、制圧したりして人は長寿を獲得したが、最大の脅威である加齢はなんとも御しがたい。
1961年微生物学者であるレオナルド・ヘイフリックが気のめいる発見をした。
ヒトの細胞のほとんどには分裂回数の限界がある。そのため一度も病気にかからず生きてこれたとしても細胞の多くが分裂をやめてしまう時点になれば死が訪れるのだ。
先進国では10年あたり2年から5年のペースで寿命は伸び続きはするが、ヘイフリック限界によると最高120歳あたりで頭打ちとなる運命であろう。

しかしだからといってamortalsたちが、できる限り自分の肉体にとどまっていたいという熱い望みにストップをかけることはできない。その手助けを約束する専門医療機関が繁盛しており、ラスベガスはその中心のひとつなのだ。

ライフ、ただし私たちの思うものとは別のもの
セネジェニックスを訪れる8割方が、ライフを探し求めやってくる男性たちだ。ライフというのは、ジェフリー・ライフ博士のことで(彼の本名である)、深い袖ぐりのベストに体にぴったりあったショーツ、ニューヨークのグリニッジビレッジで流行りのいでたちをした内科医で、プレスキャンペーンの中心だ。親切な老紳士といった顔に、体は最盛期のミスター・ユニバースなのである。クリニックのある広告には「70歳にして、未だ元気もりもり。誕生日おめでとう。ライフ博士!」とある。
今回の訪問の最後に実物のライフ博士にお会いできたのだが、スーツ姿で診察にとりかかるため肌の露出はほとんどないが、服地の下のひきしまった筋肉がみてとれる。

セネジェニックスによると、そのプログラムは「栄養と運動、最適なホルモンの組み合わせによる独自のものであり、バランスのとれたものだ」という。誰にとっても良さそうなので実験台としてこの身を提供することにした。
クリニックで行ったのは、精密な血液検査、もろもろのスキャンやテストで普通ならば3,400ドルかかるものだ。(私は無料診療を受けた) 49歳にしては、体の状態は良いという結果がでたが「最適状態(セネジェニックスの通用語)」ではないという。
私の担当となったジェフェリー・リーク医師、彼もまたもや筋肉の見本みたいな人で「最適状態」に持っていくためには、激しい運動プログラムを行い10パウンドから15パウンド(5キロから7キロ)の減量が当然必要になるという。
私のBMI値は19で、正常幅のうちでも低い値であったが、スキャンしたところ内蔵脂肪が見つかった。外観からはわかりずらいが心臓病、糖尿病、高血圧や悪玉コレステロール方の危険がある。

Wednesday, January 12, 2011

Can Sudan Split Without Falling Apart?

By Alex Perry / Abyei Monday, Jan. 10, 2011
Read more: http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,2040216-1,00.html

スーダン:崩壊なき分割は可能か

イベントのためジュバに到着する南部自治政府のキール大統領
  スーダン南部が今、新しい独立国家として誕生しようとしている。
 しかし、北部からの平和的な独立が、内戦に発展する可能性はいまだ否定できない。

Tuesday, November 23, 2010

What's So Great About Organic Food?


http://www.time.com/time/specials/packages/article/0,28804,2011756_2011730_2011720,00.html

By Jeffrey Kluger


自分自身を惨めだと感じる簡単な方法を探していますか?それなら健康的な食事について考えることを忘れて、体が欲しているものをただ食べればよいのです。あなたの体は肉を欲している。脂を欲している。そして塩分や糖分を欲している。食べなきゃだめなら果物や野菜を我慢して食べるけど・・・ただし肉、脂、塩分、糖分を全部食べた後ならね。食べ物がどこからやってきたのか―つまり、産地はどこか?持続的な栽培方法か?家畜の餌に草を食べさせているか?放牧地か?それとも無農薬か?ということについては気にしてる?あなたの体はそんなことには関心がないのです。

けれども、あなたと体はこの試練に関心を持った唯一の人間ではないのです。医者はあなたが食べるべき物について意見がある。家族も同様だ。そして、最近どこにでもいるようなフード純粋主義者にもありすぎるほどの意見がある。彼らは、口に入るものは全て栽培され収穫した後すぐに市場に運ばれるべきだと主張している。あなたがこのことを厄介だと思っても、でしゃばっているとさえ感じても、あなただけではないんですよ。「それは食べ物なんです。生きている証なんです。」とテキサス州立大学の環境歴史学教授であるJames McWilliamsは言う。「我々は皆さんに実用的で高潔な食べ方を推奨します。そして、皆さんがそれをどう実施するかについて信じられないほどに高いハードルを設けているのです。」

理想は、我々が何度も気づかされているように、オーガニック食品に転向すること、加工食品をやめて生鮮食品にすること、スーパーマーケットではなく直営市場にすることである。アメリカ合衆国農務省による最新の統計によると、全食品のうちオーガニック食品は、現在、全アメリカ市場の3%に過ぎないが、我々皆さんがもっと考えなければならない分野なのだ。

それはすばらしい考えのように聞こえるが、我々はその分お金を上乗せすることになる。オーガニックフルーツや野菜は、一般食品に対し1ポンドにつき13~36セント値段が高い。ただし、価格は特定の食品や国の地域によって変動するが。一般的に食料品ストアで売っている牛乳が3.5ドルであるのに対し、ホルモンや抗菌剤無添加と認められる牛乳は平均1ガロンにつき6ドルもする。

さらに、草を食べさせた牛は脂肪含量が少なく、化学物質の入っていない牛乳は明らかに良い考えであるが、オーガニックフルーツや野菜は、言うほど栄養的有効性がないのも明白なのだ。American Journal of Clinical Nutritionの2009年の論文は食品業界に物議を醸し出した。調べた限りビタミンや他の食品成分のうち3成分以外に関しては、オーガニック食品と従来の食品に差異がなく、その3成分のうち1つについては実際、従来食品がオーガニック食品に対しかろうじて上回ることがわかった。

「我々はオーガニック食品と従来食品の間に明確な境界線を引いた。」とMacWilliamsは言う。「しかし科学ではこれらの境界線を引かない。その境は交わっており、データを引き合いに出した議論の両端に人々は立たされているのだ。」消費者が健康を維持し、家族を養おうと努めるためには、その両方を今まで以上に厳しい予算状況下で行なうには、議論はまったく役に立たない。必要とされているのは、議論ではなく、答えなのだ。


フード純粋主義者を無視できない一番の理由は、多くの点で彼らが正しいと言うことなのだ。私たちの食事は確かに我々にとって悩みの種だが、それは地球についても同様のことである。今月初旬に、アトランタにあるアメリカ疾病予防管理センターが発表した文書によると、アメリカ人のおよそ27%は現在肥満であると考えられており(肥満は、標準体重より20%以上超過した状態)、9つの州では、肥満率は最高で30%にも上る。我々は肉を食べ過ぎている。その量は、アメリカ人の男性、女性、子供1人につき、毎年最高で220ポンド摂取している。それに対し、我々のうちたった14%だけしか我々が推奨する“1日フルーツと野菜で5品目”を行なっていない。加工食品は塩分濃度が高く、高フルクトースコーンシロップであふれている。この2つの味は我々は食べずにはいられない味だ。我々は健康的な食事生活を送るためには、アメリカ人1人につき1日2350キロカロリーで十分なのに、現在、3800キロカロリーに相当するだけの十分な食事がアメリカで生産されている。また、そのうちのいくらかは廃棄されるが、多くは棚の上で賞味期限が切れるよりもずっと前に食べ尽くされている。

食べ物が豊富にある状態を維持し、なおかつ消費者が購入し続けられるだけ低価格であるには、多くの工業的な仕掛けが必要であり、仕掛け自身も継続する必要がある。1年間に最大1000万トンの化学肥料がとうもろこしを栽培するためだけに畑に散布され、例えば、そのことによって1990年から2009年で収穫量が23%も増加したが、困難な状況にあるメキシコのペルシャ湾を汚染している有害な排水をもたらす。産業的な事情で飼育された牛は抗菌剤と成長促進ホルモンを投与され、その肉やミルクに化学残渣が残留する。肥満に関する報告あったまさに2日後多角的な論文が発表された。その報告によると、7歳のアメリカ人の女の子が成長期に入る割合が、1990年代後半と比べ2倍になっているという。しかもそれは肥満の流行が原因である可能性があるが、その上、食物を含む環境ホルモンが原因の可能性があるようだ。旬じゃない食べ物がいつでも手に入るために、穀物はある場所で栽培され、市場へ何マイルも運ばれているに違いない。こういったことが、12月にプラムを食べれるのと引き換えに、ひどく巨大な二酸化炭素の跡を残している。

様々な分野で食物戦争が引き起こされているが、最も激しい争いを生み出しているのは肉を巡る戦いである。アメリカ人は、いつも非を認めない肉食性の人種であり、無限に広がる平原で水牛を追い込み、畜牛を飼育しながら成長する国家にふさわしい。しかし後になってそのことが手に負えなくなってきた。アメリカでは、1年間に800億トンという並外れた量の肉を生産しており、そのうち家禽だけでは3500万トンにのぼる。動物たちがほとんど粗末な状態で飼育されていることは今となっては周知の事実である。飼育場でぎゅうぎゅう詰めにされ、高カロリーでとうもろこしを主成分とした食事で満たされ、できるだけ早く屠殺するために移動させる。草で育てた牛では2年半を要するが、食物過多の動物はたった14ヶ月で屠殺されるだろう。

動物がそのような短命で粗野な生涯を送っているという考え方は、他の食べ物にはない肉を巡るオーガニック対商業の議論に利他主義の要素を持ち込んでいる。ちょうど今月に、オハイオ州知事Ted Stricklandは、豚、食用牛、子牛、そして雌鳥の飼育条件を改善することについて、動物愛護団体と州の農家の人たちとの議論を仲裁した。それは、2008年にカリフォルニア州で制定された同様の改革を習って合意がなされた。

「循環器系や神経系に何かが引き起こされるなら、それらの系に気をつける必要がある。」とBevEgglestonは言う。彼は、ヴァージニア州モネタにある明らかに工業的ではない農場EcoFriendly Foodsの所有者で、畜牛、豚、子牛、羊、家禽を飼育している。Egglestonの動物たちは牧草地や小屋におり、食物過多ではなく檻の中で飼育されている。農場には、ふれあい動物園があり、動物が屠殺されるときに清潔で、できるだけ苦痛を与えない状況であることが訪問者にわかるよう、食肉処理場の扉は開かれている。「動物に話しかけたい」Egglestonは言う。「包丁を引くとき、私は彼らに贈り物はいただいております、と知らせたい。」

そのような人道的な対応には本質的な利点がある。草をより多く食べる畜牛はオメガ6s脂肪酸よりオメガ3s脂肪酸の割合が高い。それは癌、心臓病、関節炎のリスクを軽減し、認知機能を改善すると広く考えられているバランスである。牛を牧場の外に連れ出し、食物過多にし、とうもろこしを主原料とした食事をたくさん食べさせると、オメガ3s脂肪酸の量は急激に減少する。

Thursday, July 29, 2010

Curtains up at the Dallas Performing Arts Center

ダラス・パフォーミング・アーツ・センター開幕
http://www.time.com/time/arts/article/0,8599,1931386,00.html




ディー&チャールズ・ワイリー・シアター、ダラスAT&Tパフォーミング・アーツ・センターの一部として新たに増築

長い間、ダラスの中心地は、映画「波止場」の中でのマーロン・ブランドのようだった。国際的都市の候補になりたいのだ。すでに2,3の必要条件は満たしている―それは、スカイライン、人気のあるNFLチームそして深刻な交通問題だ。しかし、一流の文化的な会場が見事に揃っていなければ、辺鄙な田舎町でしかない。

そういうわけで、ダラス市は、何年もかけて、中心街に大掛かりなアート街、つまり、有名建築家の設計による美術館や劇場やオペラハウスの集まった場所を作ろうとしてきた。ついに先週、ダラス市は、このパズルにはめ込む最後の大きな2つのピースを公開した。その1つ、ディー&チャールズ・ワイリー・シアターは、オランダ人建築理論の大家であるレム・コールハースと、REX建築事務所のジョシュア・プリンス-ラモス(アメリカ人)の共同による作品である。一方の、マーゴット&ビル・ウィンズピア・オペラハウスは、イギリス人建築家ノーマン・フォスター卿率いる大会社によるものだ。この2つの建物はそれぞれ全く異なっていて、建築家達が互いに話をする仲ではないのだが、それぞれのやり方で、ダラス市が長年捜し求めてきたことに答えている。

まだ未完成のダラス・アート街の隙間を埋めるのに、30年以上もかかった。1977年にマスター・プランの幕が上がり、翌年、この計画に投じるための公債発行を有権者が却下するまではほぼうまく行っていた。最初の施設、エドワード・ララビー・バーンズ設計によるダラス美術館が完成するまでに1984年までかかる予定ではなかった。マイヤーソン・シンフォニーセンターが公開されるまで更に5年が過ぎた、こちらはイオ・ミン・ペイ設計によるもので、クリーム色で文化的なものをふんだんに取り入れた弧を描くような建築物である。それから長い中断の後、2003年に、レンゾ・ピアノ氏の手によるナッシャー彫刻センターがその1つに加わった。

決して分が悪い状況ではない、この68エーカーの地区における段階的な開発は結果として災い転じて福となった。あっという間に機能停止する一揃えの即席博物館、まあこれはニューヨーク市にあるリンカーンセンター・パフォーミングアーツ部門についての公正な描写なのだが、を作る代わりに、ダラス市は、30年かけて、先駆的な建築家たちによる建築物の多様な見本を纏め上げたのである。そして、ワイリーとウィンズピアによって非常に多様なものになった。ハイモダニズム主義の忠実な後継者であるフォスターと、どれが引き継がれていくべきか考えようと、そういった様々な理念を調べることにその生涯を費やしたコールハースの2人以上に違いのある2人の建築家を思い浮かべることは困難だろう。フォスターの建築物は落ち着いているデカルト派のものが多い。コールハースの建築物は、壊れていると言ってもいいほど珍妙な傾向がある。フォスターは、つやのある素材と研ぎ澄まされた仕上がりを好む。コールハースはワイリーの屋外テラスに人工芝に見えるようなものをポンと置くような人物である。どちらの建築家も、建築家としては最高の栄誉であるプリッツカー建築賞を受賞しているが、控えめな表現で言うと、受賞理由は異なっている。

言うまでもないのだが、フォスターとコールハースがお互いの作品のファンであるということは知られていない。ワイリーとウィンズピアの設計段階から完成までに要した5年以上ずっと、この2社の代表者が同時にダラスに現れることは滅多になく、むしろ、電話での会議やEメールを用いた、距離を置いた関係を好んだ。ダラスの権力者の怒りについての記事が地方紙に取り上げられはじめた。さらなるゆがみは、3年前に、ワイリーの共同設計者であるプリンス・ラモスが、コールハースの会社のニューヨーク支社を率いていたのだが、自分自身の会社、REX設計事務所を立ち上げるために辞職したことである。しかしながら、コールハースはワイリー建築チームとの関わりを持ち続けた、その主な相手が、ワイリーの完成まで関わり、"責任者" として名を残したプリンス・ラモスであった。

こうして、建築物は素晴らしく仕上がった。ワイリーの外観は、垂直のアルミ菅で出来た尖りくいに囲まれた、味気のない11階建ての箱である。正面から見ると、細長い非対称の窓で薄くスライスされた銀色のバーコードのように見える。近づいてくる人は皆、芝居が始まる前でさえ、旅が始まっているように思うだろう。下り坂を降りてくると、ガラス張りのロビーに降りてゆく広いコンクリートで出来た入り口がある、ロビーは地下にあって、冷たいコンクリートと灰色の金属で出来ており、その天井には剣型の照明が、まるで鍾乳石のようにぶら下っている。オルフェウスの時代、それよりももっと前から、地下の旅は心理的な影響があった。ここの場合は、正に石造りの地下、まるで古代の劇場の内部とも言える古い洞窟に降りてゆく気配を湛えている -それはたとえ、"マンマミア!" を観るために来た場合でもだ。











Saturday, June 12, 2010

What's Wrong with the World Cup Ball?

By SEAN GREGORY Thursday, Jun. 03, 2010
http://www.time.com/time/specials/packages/article/0,28804,1991933_1991952_1994179,00.html














アディダス社はワールドカップの公式スポンサーになるために大金を払い、今年開催される試合に公式試合球を提供する権利を得た、つまり世界中に数え切れないほどの数のボールを売りさばくチャンスだ。このワールドカップ公式試合球 「ジャブラニ」 は、南アフリカの公用語のひとつであるズールー語のバンドゥ語群で「祝う」を意味するのだが、一部の選手は祝福していない。この新しい試合球に対する不満は轟々たるもので、ともすると、アディダス社はボールの名前を変更しなければならないかもしれない。"不満" をズールー語では何と言うのだろう?

ワールドカップ公式試合球に関する不満は、4年に一度の年中行事になっている。「この試合球は酷い」 と言うのはイングランド代表GKデイヴィッド・ジェイムズである。「酷い、みんなもそう思っているはず。いつもよりゴールが決まるだろうけど、GKは間抜けにみえるだろう。」これは、イングランド代表で、大失敗をしがちなために 「不幸なジェームズ」 として知られている男の言葉だが、不満を言っているのは彼だけではない。不満の対象は、ジャブラニを蹴ると、まるで負傷したアヒルのように飛んでいくことだ。もし、このボールがピッチ上で悲劇を引き起こしたら、WCトーナメントにおける一貫性を脅かしかねない上に、このアディダス社試合球の小売価格も脅かすだろう、ジャブラニはしその仕様によって、25ドルから150ドルまで価格に幅がある。これまでのところ、今回の論争が売り上げに影響しているようには見えない:アディダス社は、アメリカで、2006年WC時の2倍を既に売り上げた。

ブラジル代表の守護神ジュリオ・セザールは、世界屈指のGKだが、ジャブラニに「惨劇」と名付け、よくスーパーマーケットで見かけるような安っぽいゴムボールと比べさえした。シュートしたボールが少しブレながらゴールネットに飛んでいくのは芯にあたっている証拠で、ストライカーは大概好きなはずだが、イタリア代表FWジャンパオロ・パッツィーニはこの試合球を「大惨事」と呼び、ブラジル代表FWルイス・ファビアーノはこの試合球の予測不可能な軌道について不満をこぼしている。「このボールは、蹴っても思い通りには飛ばないんだ」 とファビアーノは語っている 「不自然な感じで、よくないよ。」 1970年WCメキシコ大会のためにアディダス社が開発した "テルスター" 以前の、サッカーボールが皮を縫い合わせた球体だった時代と比べると、技術が格段に進歩した。"テルスター" はバックミンスター・フラーの幾何学的デザイン "バッキーボール" に概ね基いた32面で構成されており、完全な球形にならないよう縫い合わされている。

アディダス社は、ジャブラニのことを 「これまでで最も革新的なボール」 だと述べ、自社の"Grip N'Groove" 技術がこのボールを、歴史上 「最も正確でよく回転する」 ようにさせていると主張している。「ジャブラニは、FIFA基準を満たすために広範囲に及ぶテストを受け、現在、市場に出ている試合球よりも27%正確さが増しているという結果を出した。」とアディダス・アメリカ社のサッカー部門総括であるアントニオ・ズィー氏はeメールを送ってきた。「我々は、今回のWCが成功し、このボールが、最も目に見える象徴のひとつとなるだろうと自信を持って言えるのだ。」アディダス社は、この試合球はたったの8面で構成されているので真っ直ぐ飛ぶのだ、と主張している。同社によれば、ボール表面にある小さな溝もまた風の流れを捉えて、表面の空気抵抗を抑え、その結果として、より理想的な軌道を描くという。アディダス社は今回11という数にこだわっている:ジャブラニは11の色を取り入ているがこれは、11人で1チームということと、南アフリカの公用語が11あること、それからアディダス社が11回連続でWCの公式試合球を製造したことを象徴している。

大会前に、なにか駆け引きが行われているのだろうか?この12月以降プロのトップチームの多くがこの試合球を使用しているが、苦情は皆無であることを、アディダス社は指摘している。その上、不満の多くは、アディダス社のライバルであるプーマ製品やナイキ製品を着用しているチームからのものだった。逆に、全身アディダス製品を着用し、アディダス本社を自国に有するドイツ代表は、このボールを絶賛している。奇妙なことに、"ジャブラニ" のデザイナーはドイツ最大のライバルであるイングランド出身なのだが、母国の選手に、この試合球の有利な扱い方を無償でアドバイスしたいと提案した。しかし、もしこの試合球がそんなにちゃんと飛ぶのならば、ワールドカップ直前になって、世界最高のチームがボールの扱い方を学ぶ必要があるのはなぜだろう?

アディダス社は、一旦試合開始のホイッスルが吹かれればこの論争も沈下するだろうと主張している。確かにそうかもしれない、どちら側の選手も同じボールで試合に臨むのだから。もし、3-0で負けたとしても、たとえ祝福を受けられなかったとしても、ボールのせいにしてはいけない。


Thursday, May 27, 2010

How Facebook Is Redefining Privacy



By Dan Fletcher

あと数週間のうちに、Facebookでは、5億人目となる活発な閲覧者が正式登録するだろう。Facebookサイトが土地だとしたら、それは人口ベースで世界第3位、つまりアメリカの人口の2/3さらに多い人口の国になるだろう。ネットサーフィンしている4人に1人以上の人は、Facebookアカウントを持っているだけにとどまらず、過去30日以内にFacebookサイトに再ログインしている。

ハーバード大学の学部生だったマーク・ザッカーバーグが、アイビーリーグの学生とお互いにお互いを登録しておく方法として、寮内でFacebookを立ち上げる手助けをしてからたった6ヶ月で、Facebook社はウェブサイト業界の大物の地位に参入した。マイクロソフトのおかげでコンピューターはが誰にでも使い易いものになった。googleは情報検索の手助けとなっている。YouTubeは我々を楽しませる。だが、これらのサイト以上にFacebookには多大な利点がある。それはユーザーが感情出資できる点だ。Facebookによって、私たちは笑ったり、身震いしたり、後でオンライン上で自分たちを見れるように写真に釘付けになったり、誰も気のきいたコメントを返してくれなくていらいらしたり、高校卒業後太った誰かを馬鹿にしたり、新婚さんが身分を更新するため結婚式中はネットを中断したり、独身に戻ったという身分を設定することで離婚を記述したりできる。(俺は俺たちがまだ友達でいられることが嬉しいよ、エリーゼ。)

我々の多くがFacebookのある生活を快適に過ごしているということは、要するに、すさまじい早さで文化的シフトが起こっているということだ。とりわけFacebookサイトのユーザーの28%が34歳以上で、その年齢層はFacebookで最も増加している層となっている。Facebookは我々の社会的特性を変化させ、よりオープンな状態に順応された。しかし、Facebookサイトは反論があることを前提としている。つまり、Facebookでは親しくなる機会―姪が初めて歩いたことを祝福したり、親友の死を悲しんだりする機会―は豊富にあるが、あなたたちがオンライン上でそういった瞬間を掲載することで、Facebook社はお金を稼いでいるのだ。あなたがFacebookで経験した感情は偽りのないものだ。と同時に、あなたが提供している情報は収益を伴っている。

Facebookユーザーが情報―食中毒症状の記載(気持ち悪いですね)から、削除されない上司への感情(分別がないですね)まで―の共有を快諾していることは、Facebookの成功にはかかせない。今までは会社の方針はさらなる共有を勧めることであったので、情報の多くが不満ばかりならば制限をかけることにしている。そういうわけで、Facebook社は個人情報保護について激しい議論の真っ只中にいる。2007年にそれは勃発した。Facebook Beaconというシステムの初期設定のせいで、Facebookの友人全員に、ある別なサイトで行なった購入歴の更新情報を送ってしまっていた。Beaconはユーザー―自動的に登録されていたユーザー―間で騒動を引き起こし、ザッカーバーグは公式に謝罪した。

そして、騒動は再燃している。ユーザー、そしてアメリカと海外で選ばれた議員らの最近の心配事を鎮めるために、Facebook社は個人情報保護の改定案を明らかにする準備をしている。5月5日に電子情報プライバシーセンターが連邦取引委員会に申請した不服申し立てをした直後に変化が訪れている。その申し立てでは、Facebook社が頻繁に方針を変えていることと、だますのでなければ、より使いづらい個人情報保護を設計する傾向にあることを問題としている。(当社の広報担当者でさえ、同僚が私よりも使いやすい個人情報保護機能を持っているわけを私に説明しようとしていることに気づいた。)38ページに上る不服申し立て書には、連邦取引委員会がFacebook社に共有した情報がどうなっているかということはもちろんのこと、我々が投稿した情報それぞれに付加するプライバシー設定についても明確にするよう強要すると申し立てをしている。

Facebook社は、個人の好みを堀り下げようとしてプライバシーに対する関心がそれほど高くなかったので、プライバシーの政策の見直しを図っている。4月に、Facebook社はOpen Graphという新しい試みを開始した。それはユーザーにウェブ上に好みを加えるもので、たとえばTIMEの記事からリーバイスのジーンズといったものまで示すことができる。理屈は、友人が何かをお薦めすると、自分もそれに対する関心度が高まるだろうという仕組みだ。そして、Facebookはかなり多くのユーザーを抱えているので、また、多くの企業が自社のユーザーの注目をあげたいので、Facebookはどこのどのウェブサイトでもユーザーの好みを公開するにはよいポジションにある。Open Graphが公開されてから1ヶ月もたたないうちに、10万以上のサイトがその技術を統合した。

Sunday, May 23, 2010

Paris' Plan to Kick Cars Off Its Riverbanks



By Jeffrey T. Iverson

近頃パリの日曜日は、ベビーカーを押した夫婦、ローラーブレーダー、自転車に乗った人たちがセーヌ川の左岸を行き交い、普段にはない静かな広がりを楽しんでいた。普段この道は、勢いよく進む何千もの車であふれているが、週に一度、静寂のオアシスに変貌を遂げる。パリの川岸を車両通行止めにしたときに起こる状況について調査するため市役所が行っている実験の一部のためである。今のところ、実験は過去数年間継続しているが、、評判が良いと立証されている。Delphine Damouretteさんは31歳、モンマルトルの住民で、彼女が住んでいる石畳式の住宅街はローラーブレード地獄であるが、車が通らない日曜日は、彼女が最も好きな町の空気を感じることができると言う。夏休み中、パリはゆるやかになり、車は姿を消し、歩行者はセーヌ川を取り戻す。「もし、パリが一年中ずっとこうだったら素敵だわ。」と彼女は言う。まもなく、彼女はその願いを叶えるかもかもしれない。

もしベルトランドラノエ市長が自分の考えを押し通していたら、2012年までにオルセイ美術館とアルマ橋間の左岸にある高速道路1.2マイルは永久に車両通行止めになり、一方、右岸の交通速度は緩やかになるだろう。両岸とも首都高速を小さな都市の大通りに変えるという目標を持っている。およそ500万ドル計画―別名“セーヌ川両岸の奪還”は、カフェ、スポーツ施設、水上レストランなどを併設した川岸35エーカーの開発を提唱している。「つまり、汚染と自動車交通量を減少し、パリの人たちに幸せな機会を増やすことなのだ。」とドラノエ氏は4月14日の企画発表会で発言した。「もし我々がこのことを続けることが成功すれば、私は計画がパリを大いに変化させると信じている。」

しかし、パリの人たちはパリ中の自動車支配の終結を目指す、極端ではたまたそうでもない政策の下で既に数年過ごしている。彼らは別の改善可能な輸送計画に対応する心積もりをしているか?環境問題対策副市長デニスボーパンは、2001~2008年まで交通政策担当責任者として、路面電車、バス車両、自転車用通路、公共レンタル自転車事業ベリブ、その他各計画を開始した。その間に浴びた猛烈な批判や緑のクメールというあだを切り抜けてこれら全ての計画を始めたのだ。そんな彼は、何がきても大丈夫だと考えている。「もし、我々が今日セーヌ川両岸の再開発について議論できたら、我々は始めに日曜日を車両禁止にするので、住民が持続可能で、喜んで、積極的になる考え方に慣れてもらうだろう。」と彼はTIME誌に話す。「考え方が変わり、そして野望は、都市がどこかに向かっていくために、変化し、より環境にやさしい野望に成長している。」

Monday, May 17, 2010

Twilight Zone: Why Do Babies Have the Same Name ?

トワイライトゾーン: 子供に同じ名前をつける理由
by Claire Suddath
http://www.time.com/time/nation/article/0,8599,1988092,00.html
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
子供に、あの吸血鬼にちなんだ名前を付けるのが流行っている。社会保障庁が発表した2009年版最も人気のある子供の名前リストによると、一番人気はイザベラとジェイコブだった。偶然なことに、どちらもトワイライトシリーズの主要な登場人物と同じ名前である。 実際、イザベラは1990年代以降着実に人気が上がってきてるし、ジェイコブは10年連続で一番人気である(つまり2005年に発表されたトワイライトよりも前からである)。しかしながら、人気上昇中の名前のうち1つは、ほぼ確実に、ステファニー・メイヤー作品である吸血鬼のラブストーリーから影響を受けている:カレンという名だ。このメイヤー作品に登場するセクシーな吸血鬼の苗字は、1年で297も順位を上げて、現在は、男の赤ちゃんのファーストネームとして485番目に人気のある名前になっている。

カレン(Cullen)という名前にはまた別の傾向も見受けられる:enという音で終わる2音節の男の子の名前である。エイデン(Aiden) もその例の一つである(これは12番目に人気のある名前)。8位のジェイデン(Jayden)や、17位のローガン(Logan)、24位のネイサン(Nathan)、44位のケヴィン(Kevin)、46位のジャスティン(Justin)、それから、これまで聞いたこともなかったような名前、ブライデン(Brayden)。この名前は47番目に人気がある、つまり、20年後には何人ものブライデンに会うことになりそうだということだ。同じように、女の子に人気の名前50位までのうちおよそ半分がa の文字で終わっている、イザベラ(Isabella) のように。どうしてこういったことが起こるのだろう?何故、親たちは赤ちゃんにみんな同じような名前をつけるのだろう?

簡単に言ってしまうと、人はまわりの人の真似をするものだからだ、変わったことをしたがる人はそういないからだ。まるでファッションや音楽の流行が変化していくように、子供の名前の流行も変わるのだ。1980年代に生まれた女の子たちは、y やie で終わる、元気で溌剌とした名前を付けられた―例えば、ティファニー(Tiffany)、やアシュリー(Ashley)、ケイティ(Katie)、ブリタニー(Brittany)。社会学者やジャーナリストはしばしば子供の名前に関する理論を提案するのだが、大概の場合、根拠のない憶測以上のものは打ち立てられないでいる。CBSニュースはかつて、2002年にエマ(Emma)と言う名前が人気があったのは、フレンズというドラマの中でジェニファー・アニストン演じる登場人物が子供に付けたからだと言いきったことがある。ところが、エマという名前は、1980年代から人気が出てきていて、レイチェルとロスがドラマの中で情熱的な夜を過ごす前に、すでに丸々3年間20位以内に入っていたのだ。つまり、フレンズの影響はほとんどなかったと言える。

もう少し掘り下げて考えると、赤ちゃんの名前の流行は少し複雑なものになる。ハーバード大学のローランド・フライヤーしとシカゴ大学のスティーヴン・ラヴィット氏によれば、1970年代までは、黒人も白人も、子供に同じような名前を付けていたが、そのあたりから、病院ではいわゆる黒人っぽい名前がよく見られるようになっていた、例えば、エボニー(Ebony)、シャニース(Shanice)、ダーナル(Darnell)などだ。人種間における名前の住み分けは現在非常に強く、フライヤーしとラヴィット氏が言うには、カリフォルニアで生まれた全てのアフリカ系アメリカ人のうち40%が、どの白人の出生証明書にも記載されていないような名前を与えられている。(研究を簡単にするために、カリフォルニア限定の調査になっている)

地理的要素もまた一因になっているかもしれない。2009年、ヘブライ大学の研究者であるジェイコブ・ゴールデンバーグ氏とモッシュ・レヴィ氏はアメリカ国内でも週によって人気のある名前が違っていることに着目した。親達が住んでいる町や都市や州など、地域で人気のある名前を、子供に付ける傾向があることを発見したのだ。社会保障庁の名前データベースから判断すると、まさにその通りのようだ。イザベラと言う名前は、まず最初にコロラドとロードアイランドで上位5位に入った。コロラドから、カリフォルニア、ネバダ、アリゾナにまで流行が広がった。ロードアイランドからは、マサチューセッツ、ニューヨーク、ニュージャージーに人気の波が押し寄せた。そして今、アメリカ全土で一番人気の名前になった。

しかしなぜ、コロラドとロードアイランドでその人気に火がついたのだろう?それに、1991年にイザベラという名前が、698位から、たった一年の間に210上昇して、突然に、それでもまだあまり一般的でない488位になったのは何があったからなのだろう?残念なことに、実際のところは誰にもわからない。結局は、子供の名前というのは、名付け親の気まぐれの産物なのだ。親達は、世界中のイザベラやエマやマディソンたちに責任があるのだ、独創的な綴りは言うまでもない(Keighty instead of Katie, Danyale instead of Danielle) こういった綴りは、子供達を一生煩わせるに違いない。



Monday, April 19, 2010

Hu's Visit:Finding a Way Forward on U.S.-China Relations


By Joshua Cooper Ramo

http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1978640,00.html

昨年の秋のある日の午後、北京はいつになく湿気の多い日だったが、町の中心部では、デザイナーや兵士、共産党員らが中華人民共和国建国60周年記念式典の準備を完結したという噂が広まっていた。式典は中国が唯一10億人の視聴者に届けられる番組の一つとして全国的に放送される。共産党は、Eternal Peace Street沿いに飛ばす戦闘機飛行隊とミサイルのパレードと、10年に1度の儀式を計画していた。その儀式とは、国家主席が人民服を着て、1950年代型リムジンのサンルーフの上に立ち、紫禁城の周辺を車で周るというものである。その光景は西洋人にとっては幻想的に見える。それはまるでアメリカ大統領が1776年の冬から10年ごとに催される記念祭で三角帽をかぶってデラウェア川を渡るような光景である。しかし、中国人はそのような象徴が重要なのだと考えている。改革がはっきりしない状況で、中国人ははっきりと境界線を引いたのだ。我々が来た方向(過去)を見るのだ。そして我々が向かっている方向(未来)を見据えるのだ。

催しの一つの要素である、夜間の花火打ち上げに取り組んでいる共産党員らは、デザイナーに特別な依頼をした。中国は、党員の悩みどころなのだが、多くのほかの国のようだ。そのような国では、健全な愛国心と国家主義の境界線は、そこに踏み入れるまでわからない。党員が軍事的な刺激を受けて一日を過ごした後、花火打ち上げの夜を過ごすのはあまりに激しすぎるといらいらした。そこで、党員らは頼んだのだった。大きくて、美しく、静かな花火にアレンジできませんか?

静かな花火。中国生活での魅惑と危険について多くを物語るには、一種の要望であった。中国は矛盾で成り立っている国家だ。中国には現在、記録的な経済成長を生み出す考え方と、一方では壮大な環境保全都市計画という市場社会主義の考え方がある。その考え方はまるでヘルシーなチーズバーガーのようだ。中国は、改革時期にうまくやるエリート党員が今、与党である共産党についてかつてないほど大げさに不満を言うような国家なのである。いつもなら魂、野心、奇跡があるのだが、過去と未来の境界線を引き伸ばしている、それが今日の中国なのである。中国はもっと爆発的な変化を望んでいる、まぁ、本物の爆発は起こさずに。

中国とワシントンの間にある悩ましい緊張が続いた過去数ヶ月が我々に思い出させたように、中国がもつ複雑なまた別の野望のため、この全てが重要な意味を持つ。別の野望とは、国際的な仕組みを崩壊させずに中国の地位を向上させることである。そんなこと起こりそうにない。歴史上ほとんどの国家がそのような偉業を成し遂げられなかった。そして、偉業を今成し遂げるために、危険と意外性のある現代で、財政市場から国家保全までのあらゆることが爆発する恐れをなして詰め込まれているような国家がどこにあるのか。そのような冒険が成功につながる多くのチャンスをはらんでいるとは想像し難い。

だからこそ、尋ねる価値がある。実際、バラクオバマは、来たる核安全サミット開催中、中国の胡錦濤国家主席の隣に座っているとき、ワシントンで誰を見ているのか。友好国?敵国?中国がそんなに早急に変化しているという事実を我々は実はまだ知らない。オバマが本当に注目していることは、はるかに重要なことである。つまり、これからの50年間を世界勢力と定める関係を再建するために、力強く、創造的な政治的手腕を行使する機会を狙っている。国際政治の問題は、首尾一貫した中国の戦略なくして解決されない。だから、さらに面白い論点は、胡錦濤の思惑ではなく、オバマの意思であるということだ。オバマは自分が扱っているような人間の明瞭な感覚を持っているか。そして我々の関係性の中にある緊張情勢をどのように形成しているのか。オバマは、できるだけ中国と真の友好関係を築くための権力の使い方をわかっているのか。それとも壊滅的な膠着状態を招いてしまうのか。

Sunday, April 11, 2010

Why Obama in Disappointing Asia-Even in Indonesia



By Hannah Beech / Jakarta

http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1973182,00.html


スニーカーを履き、空中で蝶々をつかみんでいる10才のバラクオバマのブロンズ像は、すぐに観光名所となった。外国人はアメリカ大統領に敬意を表してジャカルタにある国立公園に群がっていた。アメリカ大統領は幼少時代4年間インドネシアの首都に住んでいた。地元住民も訪れるが、彼らは賞賛としてではない。「インドネシア人は大概抗議しに来た。」と公園の管理人Yunusは言う。「地元住民にとってはここに像はいらなかった。」地元オバマのファンクラブがモ像のために1万ドルを集めてから3ヶ月もたたないうちに、像はオバマのかつての学び舎の近くに2月にすぐに移された。「私はオバマに反対しているわけではない。」とProtus Tanuhandaruは述べている。彼はFacebookというHPのインドネシア人創刊者の一人で、Facebook「だが、インドネシアに何も貢献していない人物の像を国定公園に置くのは間違っている。」

自身を、アメリカ初の太平洋大統領と呼んでいるので、予定しているオバマ大統領のインドネシア訪問は、帰郷であると喜ばれることである。何百万のインドネシア人は、Barry Soetoroが、オバマのインドネシアの継父の名だと既に知っているので、彼のことを名誉市民だとみなしている。しかし、オバマ氏が記憶の道筋をたどる時でさえ(続いてオーストラリア訪問が続くが)、幼少期の像の行方からすると、オバマ氏、そしてアメリカがアジアに対して抱いている問題が浮き彫りになるのは明らかである。ジャカルタ市職員がオバマの像を移設するのに暗幕を用いたすぐ後に、アメリカの最高外交特使は、北京で、世界第3位の経済大国との危うい関係をまさに修復しようとしていた。一方、世界第2位の経済国である日本は、アメリカとのより対等な関係(従順ではない)を要求していた。というのも、昨年、半世紀ぶり2度目の政権を握った日本の民主党が、アメリカとの外交政策が密になりすぎていた旧政権を打開すると公約したことが選挙の勝利につながったからなのである。

新しいアジア

アジアでは正当性を主張するリーダーが増加しており、彼らは、アジア大陸が経済的・地勢的勢力を増していることをアメリカが認めるよう要求している。オバマ氏は、アジアとの個人的なつながりにかかわらず、アジアが思っている自己評価ほど、アジアに敬意を払っていないと、多くは感じている。タイは一般的にアメリカ派の国家である。そのタイで最も売れている英字新聞バンコクポストに掲載されている社説で
一般意見を要約したものがこれだ。「オバマ氏のアジアでのアメリカの利益を回復するための望みは、内容よりも会談をもっとこなすことだと今のところ証明している。」

アジアはアメリカにとって重要である。中国は、カナダ、メキシコに次ぐ第3位のアメリカ製品消費国である。第4位の地域は、東南アジア諸国連合(ASEAN)である。ASEANは1960年代に共産主義に対する砦として、アメリカ支援を受けて設立した10カ国からなる連盟である。中国の経済回復力(2009年度はGDPで8.7%増)は、アメリカや他の先進国が世界的金融危機による痛手の更なる悪化を防ぐ手助けとなった。こんな暗雲立ち込める年に、立派な経済成長を計上した経済国って他には主にどこがあるか?インドとインドネシアだ。アジアは、言い換えれば、世界経済を支えているのではないだろうか。そして、その努力を感謝してもらいたいものだ。

オバマは、アジアの重要性について説得しながら演説している。昨年11月、大統領として初めてアジアを訪問した際、オバマはブッシュ政権がワシントンの太平洋同盟国をないがしろにしていたという認識に取り組むことを誓った。「私は各国民にアジアの未来に関わり合いがあると知らせたい。」と東京でオバマ氏は述べた。「なぜならここで起こることが、本国のわれわれの生活に直接影響するからだ。」しかし、それからオバマ政権がアメリカ-アジア貿易の促進を途中でやめ、地域の自由貿易協定の実行をおろそかにした。「我々は、オバマのアジア訪問が、サンタクロースがやってきて、ただわずかな贈り物を贈り、それから飛び去るようなことではないと望んでいる。」とタイの福利通商大臣Alongkorn Ponlabootと言っている。彼は多くのアジア人がアメリカの保護貿易主義だと見抜くことを批判している。「なぜなら、我々がアメリカに必要としていることは、信念と誠意、つまりは偽りのない行動なのだ。」


インドネシアが重要なわけ

インドネシアは、まさにその価値がある。アメリカ人に、地震大国ではなく、地震が起こってもアメリカの利益にとって重要な国であると紹介するためにオバマの訪問は欠くことができない。17000の島からなる諸島、インドネシアは、世界最大のイスラム人口を有していることを誇りにしている。また、世界第3位の民主主義国(インド、アメリカに次ぐ)である。ただし、イスラム教が必ずしも政治的に自由を害していないとするなら。オバマがジャカルタで生活していたころにさかのぼると、ジャカルタではオバマの母は人類学者で救急隊員だったが、インドネシアは独裁者による支配がなされ、貧困に陥っていた。今日、インドネシアは裕福な経済国からなるG-20の名誉ある会員である。インドネシアの多くはまだ貧しい(貧困層は18%にのぼる)一方で、市民の生活を向上させるため、天然ガスや鉱物のような豊富な天然資源が生み出す利益を最終的に用いている。「外国人はかつてはインドネシアを自然災害地域だと思っていた。」とGita Wirjawanは言う。彼は、国家投資委員の委員長で、今年初めにアメリカを訪問し、自国で必死に利益を獲得しようとしていた。「だが、現在彼らはインドネシアが上向きの軌道に乗っている5500億ドルの経済国であることを認識している。」

Tuesday, March 16, 2010

The Next American Century



By Andres Martinez


1949年、アメリカが第二次世界大戦に参戦する前に、この雑誌の共同創刊者Henry Luceは、LIFEの中で不幸なアメリカ人は不干渉主義に対する活気のない主張に当惑しており、そんなアメリカ人に、最初の偉大なアメリカの時代―いいかい、あくまでも最初であり、最後ではない―を築くよう説いた論文を書いた。私たちは今、より一層際立ってアメリカの時代になるであろう2期目の10年間に差し掛かっている。実際、世界のアメリカ化は過去よりもはるかに予測可能な未来を特徴付けるだろう。

ブランドアメリカがこの10年で大成功を収めたのは事実である。世界の超大国は自国の選挙と海外の占拠にしくじった。アメリカ自慢の金融市場は10年間の早い段階で概算により悪化し、さらにその後の世界的経済危機の引き金となった。それはウォール街が一度で危機を回避していたという借入額の多い賭けが原因だった。これらの過失全てが、アメリカの信頼性に不利な影響を与えたが、正当かどうかはあるが、アメリカがひどく広範囲にわたる過失を抱えているということを思い出させるものでもあった。また、経済混乱の時代が唯一、アメリカの他に負けない利点を強調しているのである。その利点とは、アメリカの俊敏さと適応力。

世界人口のたった5%の人口で、アメリカは世界の経済産出量の1/4を占めている。世界経済危機がG-7(またはG8、誰が計上しているかによる)からG20へ拡大していったときでさえ、どの参入国もアメリカのやり方に対して強固に異議を申し出る国はいなかった。むしろ、参入国は確実にアメリカが自国の規律に従うことを望んでいるのである。ギリシャの負債危機によって通貨同盟が政治的・財政的一貫性に欠ける危険性があることが明らかになると、世界の基軸通貨であるドルの地位が唯一強化された。中国は表向きはアメリカに次ぐ経済大国であるが、私有資産に欧米の概念を取り入れる方向に向かって動き始めている。一方、北京では数十億ドル分の財務省短期証券を買い上げることでアメリカの将来に投資している。中国、ブラジル、インド諸国で、中流階級社会における消費者保護運動家が増加していることがより安定な世界を生まれており、それがアメリカ製品や文化に新たな市場を生み出すことは言うまでもないだろう。

その上、経済評論家がアメリカの衰退について公然と非難し続けている。これは今に始まったことではない。1988年まで遡ると、ポール・ケネディの著書「大国の亡命」がベストセラーとなると、ケネディ氏はアメリカがあちこち手を出しすぎる危険を冒していると(念頭に置くというより回避すべきだと)しきりに警告している。その危険は昔から続いているやっかいな事実なのである。というのも、アメリカが世界から受けている関心や責務を全てあわせると、今日では、同時に全てを防御するだけの国力をはるかに超えているからである。

では、次に何が起こったのか?  ベルリンの壁が崩壊し、世界中の多くの国が市場資本主義を採用した。アメリカは世界に恐れをなし、アメリカの文化的優位性を強化すべく革新的な新技術を導入して世界をオンライン化した。一方、アメリカ支配による平和に対する維持費は極めて少なくなっている。アメリカにはアフガニスタンとイラクに関する2つの長期遂行中の公約があるにもかかわらず、海外に派遣予定又は派遣済みの288000人のアメリカ軍兵士とGDPの4.6%を占める防衛予算は、戦後の底値に近い数字となった(1987年に類似の数字を出しており、その数字は524000人の海外派遣軍兵士とGDPの6%を超過するほどの防衛予算)。そして、この歴史的に少ない投資のおかげで、軍が次に挙げる締結国9カ国に費やすことができなくなった。

依然として、我々は自国の地位に大いに悩まされている。これは部分的にはいいことである。自己満足を打開できるという点では。しかし、最近の他国の財政力をしぶしぶ認めるとなると悪いことになる。何百万のインド人や中国人が繁栄の味を覚えて始めているという事実がまずかった。アメリカの気分を害してしまったのである。

与えられた観点から、アメリカの権力と影響力を測定するには2つの方法がある。アメリカがそれ以外の国よりどれだけ裕福かという観点から権力と影響力を単純に測定すると、世界中の多くの国が荒廃した1945年は、アメリカにとっては明らかに最盛期であっただろう。第二次世界大戦終結時に、アメリカは世界の工業輸出品の1/3を占めていた。そして、その基準の下で、ヨーロッパの失われた優れた技術を修復することを目的とした、マーシャルプランは後に間違いを起こすことになってしまった。その計画がアメリカの世界マーケットシェアを崩壊させる運命になったからだ。

しかし、アメリカの影響力と権力を測定するよりふさわしい方法は、世界の中での国の財力と財政支配を結合することで見えてくる。1941年に戻ると、Luceはこう記している。「アメリカンジャズ、ハリウッド映画、アメリカンスラグ、アメリカ製の機器、特許製品らは、実際ZanzibarからHamburgまで世界中のあらゆる
地域が共通で認識している唯一のものである」。彼はわからなかった。アメリカに住んでいる人々と同じだけ中国で英語を勉強している(又はバスケットボールをしている)人がたくさんいる時代において、世界中でテレビ番組10作品のうち7つは、アメリカ製である。アバターは中国で史上最高収益を上げた。世界ではかつてないほどアメリカブランドが定着している。マクドナルドからナイキにいたるアメリカの多国籍企業はその総収益を半分以上海外で計上している。もし、ナイジェリア、スウェーデン、南アメリカ、アルゼンチンの10代の子供-ランダムに選んだ4人組-を一緒に連れて行き、ある地域に4人を一緒にしておくとアメリカ文化になるのである。つまり、音楽、ハリウッド上映作品、電子ゲーム、Google、アメリカの消費ブランドで満たされる。彼らが共通にやりそうで、アメリカでは盛んではない唯一のものといったらサッカーに対する興味くらいだ。世界のほかの国がアメリカにより近づくようになるという事実は、良くも悪くも、どれだけアメリカに浸かっているかということを強調するのである。明らかにアメリカ特別主義という概念が腐敗していても関係ないのだ。

Sunday, February 21, 2010

J.D.Salinger Dies at 91: The Hermit Crab of American Letters

J.D.サリンジャー氏91歳で死去:アメリカ文学界のヤドカリ
http://www.time.com/time/arts/article/0,8599,1957492,00.html
By Richard Lacayo Friday, Jan. 29, 2010
















「ライ麦畑でつかまえて」の著者J.D.サリンジャー氏、2010年1月27日、ニューハンプシャー州コーニッシュの自宅にて老衰のため死去。91歳であった。
イブニング・スタンダード紙より

書棚から、簡素な数冊のペーパーバックを取り出すと、J.D.サリンジャーの作品(一遍の小説と3巻の短編集)を全部片手でつかめるだろう。彼のお気に入りの作家たち(大昔の詩だけで知られているサッポーや、17音節で俳句を作った日本の詩人達)と同様、サリンジャーは、ほんのわずかな作品に纏わる栄誉で知られる作家だった。1948年に最初に出版された作品について、本人は、ニューヨーカー誌に掲載されてもよい出来栄えだと思っていた。それから17年後、最後の作品をニューヨーカー誌に掲載して日よけを下ろしてしまった。

その日から、ニューハンプシャー州コーニッシュの自宅で1月27日に91歳で亡くなるまでの間、サリンジャーはアメリカ文学界のヤドカリだった。世間に姿を見せるのは、大概、誰かが自分の貝殻をつついたと不平をいう時だった。サリンジャー特有の名声辞退は、次第に、彼の作品と同じくらい重要だと判るかもしれない。1960年代、コーニッシュの小さな家に隠居した彼は、有名人としての暮らしを拒んだ。トーマス・ピンチョンはそういった意味ではほぼ間違いなくサリンジャーの後継者であるが、ピンチョンはウィンク1つと一度のチェシャ猫の薄笑いを見せて世界に背を向けるやり方をあみ出していた。サリンジャーのやり方は睨み付けることだった。さらにまた、サリンジャーはある考えをひねり出すと、発案者の汗まみれの熱心さでもってそこに傾倒していった。

サリンジャー唯一の小説、ライ麦畑でつかまえては1951年に出版されてから徐々に、サリンジャーをうんざりさせるような地位に登りつめた。数十年の間、この小説は、世界中で青春の通過儀礼だったし、怒れる若者の声明文だった。(時として死を招くほどの怒りもあった:1980年にジョン・レノンを射殺したマーク・デイヴィッド・チャップマンは犯行後に、サリンジャー作品を読むことを宣伝するために犯行を犯したと発言した。その数ヵ月後、ジョン・ヒンクリーがロナルド・レーガン大統領を狙撃するために出かけたとき、ホテルの彼の部屋にはサリンジャーの本が一冊残されていた。)しかし、何百万もの頭がおかしくなっていなかった人たちにとってさえ重要だったのは、ホールデン・コールフィールド、サリンジャーが生み出した、不機嫌で憧れの強い(そしてほぼ間違いなく躁うつ病の)若き主人公が怒れる若者の原型だったということだ。コールフィールドが、皮肉屋の鎧に包まれた傷つきやすい性格でもあるということは、彼自身をより魅力的にした。ジェイムズ・ジョイスやアーネスト・ヘミングウェイもまた、不機嫌な若者を生み出した。だが、サリンジャーがコールフィールドを生み出したちょうどその頃、アメリカのティーンエイジ文化が生まれたばかりだった。反抗的な若者の世代丸ごと1つが、ある特定の反抗的な若者になった。

サリンジャーは、シャーウッド・アンダーソンや、イサク・ディネーセン、F.スコットフィッツジェラルド、それから特にリング・ラードナーから引用したので、サリンジャー作品の登場人物は、こういった人たちの作品中のワルみたいに早口で、日常的なことを話したり、時には、深刻な問題を早口で話し合ったりするのだが、これを、数年後のウッディ・アレン映画に登場するニューヨークっ子たちが引き継いでいる。しかし、サリンジャーはそういったことを全部何か新しいものに変えていった、その雰囲気は、世俗的なものと宗教的なものからとか、この世のものとこの世のものではないものから、有頂天と気だるさから引用したものだ。例のグラス家の7人兄弟(芸能人と聖職者が入り混じった複雑な構成のグラス家は、サリンジャーのもう一つの不朽の創造物である)が、サリンジャー自身の様々な面の集合写真を構成していると見なすのが一般的である。7人それぞれがサリンジャーの異なる特徴を映しだしている:作家と俳優、出世を望むものと研究者、宗教的熟練者とずっこけた馬鹿者。それが事実だということは十分ありうる。サリンジャーは誰にも確かめられないようにしてしまった。ホールデン・コールフィールドが言うには、「絶対に誰にも何にも言うな」。このセリフはサリンジャーの言葉かもしれない。

ジェローム・デイヴィッド・サリンジャーは1919年1月1日、ニューヨークで生まれた。母親はスコットランド生まれのプロテスタントだったが、ユダヤ教徒の義理の家族に合わせるため、マリーという名をミリアムと改名した。父親であるソロモンは、食品輸入業者であり、サリンジャーが13歳になった頃、家族でパーク・アベニューに引越し、成績の悪かったサリンジャーをマンハッタンの私立学校に入学させられるほど成功していた。サリンジャーは2年で退学になった。それからフィラデルフィア郊外にある、ヴァレー・フォージ・ミリタリー・アカデミーに送り込まれた。この学校が、後にペンスィ―・プレップ、つまりコーンフィールドが逃げ出した学校のモデルになったようだ。

ヴァレー・フォージを卒業後、サリンジャーはいくつかの学校から逃げ出している。ニューヨーク大学を中退するまでには、2セメスターをやっと修めただけだった。父親は、サリンジャーを家業に参加させようと決め、ハムについて色々と学ばせるためにオーストリアやポーランドに連れて行った。「結局あの人たちは、2か月もかけて、ブィドゴシュチュまで僕を引きずって行ったんだ。」とサリンジャーは後年に書き残している。「そこでは、僕はブタを解体して、大きな解体熟練者と一緒に雪の中を運んだんだ。」ハムはサリンジャーの未来ではなかった。アメリカに戻って、また別の学校に気乗りしないまま挑戦した、今度はペンシルバニア州の田舎町にあるウルジヌス大学だった。サリンジャーは1セメスターを終えると、ずるずるとマンハッタンに戻ってきた。

この頃までに、サリンジャーは曖昧な目標を心に抱いていた:作家になりたかったのだ。1939年の秋に、ウィット・バーネットが教鞭をとる、コロンビア大学の作家養成講座に参加した、バーネット氏は、評価の高い小さな文芸誌で、ウィリアム・サローヤンやジョセフ・ヘラ―、カーソン・マッカラーズらを排出したストーリー誌の創設者であり、編集者だった。バーネットはすぐに教え子サリンジャーの才能に注目し、サリンジャーの作品は最初にストーリー誌に掲載するように取り計った。1940年3-4月号のストーリー誌は、後にサリンジャー作品に登場することになる若者たちの原型である、とあるパーティでの大学生たちを辛辣に描写した短編 "若者たち" を掲載した。

その後数カ月の間、サリンジャーは、コリアーやエクスカイア―のような大衆雑誌に取り上げられ、夢見ていたニューヨーカー誌に、気をもませる書き下ろし作品を掲載し、単にプロの作家ではなく芸術家でもあることを証明した。

1942年4月、真珠湾攻撃の4ヶ月後に、サリンジャーは招集された。最終的に、ナチ協力疑惑のある人を尋問するようなことをするためにアメリカ兵を訓練していた、米軍諜報部隊の一員として船でイギリスに移送された。サリンジャーは小さなタイプライターをいつも持っていて、ヨーロッパ中を持って歩き、いつも書いていた。作戦決行日には、歩兵連隊の隊員としてノルマンディに上陸した。8月までに、サリンジャーの連隊はパリまで進軍し、そこからドイツまで強硬進軍した。その秋と冬には、1カ月も続く、凍える、泥だらけで地雷だらけの森の中での激闘だったヒュルトゲン森の闘いを含む、いくつかの最も恐ろしい軍事作戦に参加したようだ。

戦時中に、サリンジャーに何があったのかはあまりよく知られていない。しかし、悩ましい伝記作家である、イアン・ハミルトン(サリンジャーはハミルトンが自分の文章を引用できないように裁判を起こし勝訴している)は、戦後まもなく、サリンジャーが神経衰弱になったと考えている。ハミルトンの著書 "J.D.サリンジャーをつかまえて" の中で、1945年にサリンジャーが、一年前にパリで出会ったヘミングウェイに宛てて書いた手紙を紹介している、手紙の中でサリンジャーは、軍を離れて、ニュルンブルグの病院で、精神障害を引き起こすかもしれない症状の治療を受けていたことに触れている。もしそうだだったのだとすれば、彼の作品である、ある種の入院の後で、"精神を無傷に保とう" と苦しむ米兵について描かれた優れた、そして複雑な物語 "エズムへ、愛と堕落をこめて" の中心にいるのはサリンジャー自身だったことは確実である。その年の9月、サリンジャーはなにか、もしかすると安定剤に頼っている男の行動かもしれないような奇妙なことをしでかした:ドイツ在住のフランス人女性と、突然結婚したのだ。サリンジャーは、翌春、アメリカに帰国する時に彼女を連れて帰って来たのだが、その後まもなく、我々には解らない何らかの理由で、彼女はフランスに帰国し、結婚は解消された。

ニューヨークに戻り、また両親と暮らし始めたサリンジャーは、1日中執筆する生活に戻り、ようやく、ニューヨーカー誌の高い壁を越えた。1946年、ニューヨーカー誌は、かつておざなりに扱っていた、ホールデン・コールフィールドの物語を掲載した。2年後、サリンジャーはニューヨーカー誌に正式な作家として取り上げられ、6か月に3篇の作品を発表した。その時からずっと、サリンジャーは他の何処にも自分の作品を掲載していない。そして、1953年の短編集 "ナインストーリーズ" 中の2作品は別として、彼は他のところでかつて発表した作品に背を向けてしまい、自分の作品集に収めることを決して許さなかった。






Thursday, February 18, 2010

Behind the Troubles at Toyota

トヨタ問題の背景

http://www.time.com/time/business/article/0,8599,1963595,00.html
By Bill Saporito with Michael Schuman and Joseph Szczesny
Thursday, Feb. 11, 2010















カリフォルニア州、デーリーシティにある特約販売店に並ぶ2010年型トヨタ・プリウス
Robert Galbraith/ ロイター通信


トヨタの何が悪かったのか?

大したことではない。少なくとも、技術面、構造面、さらには品質において大して悪いところはない。ずば抜けて優れた車を作ったのでない限りは、大概の場合、国際的な自動車産業にトップギアで突っ込んだりはしないものだが、トヨタはやってしまった。自動車は身近なマシンだが、非常に複雑でもある。新型の自動車を作るために、企業はそのスタイルを考え、設計し、骨組みを作り、購入し、1万に及ぶ部品を集め組み立てる必要がある。780万台、トヨタは、2009年(自動車業界にとって最悪の年)に世界中に販売したのだが、その中には何10億ものガタンと壊れてしまうおそれのある新型の部品が使われている。実際に壊れるものが出てくることは避けられない。

11月以降のおよそ900万台に及ぶ加速制御不能やブレーキ作動不具合に陥りやすいトヨタ車のリコールがとてもショッキングな事件になった理由は、トヨタが若干手抜きの自動車を製造していたことや、さらにはトヨタの酷い危機管理体制ではなかった ― しかしながら、こういったことによって、トヨタは修復のためとして20億ドルを超える代償を強いられた上に今年の売り上げを見込めなくなったのだが。もっと酷い致命的なことが起きた:蒸気閉塞がトヨタの神話化された企業文化に襲い掛かり、世界中で最も評価の高い企業の1つであるトヨタを、数多ある落ち目の自動車メーカーの1つに変えてしまったことだ。トヨタは、これまでよりも多くの欠陥自動車を製造しているだけではなく、問題点を解明し修理しさらにそういったことを利点に変えてしまう比類ない手腕で知られている企業であったが、実は全然何も解っていなかったように見えてしまった。

今回のリコールは突然のように見えたけれども、その兆候は積み重なっていた。マサチューセッツに本拠地を置く安全性の研究と戦略(SRS)という消費者救済団体によると、2002年に、トヨタ車における "意図しない加速" の事例数が急増したというのだが、これはトヨタが電子制御スロットルを導入したのとほぼ同時期であった。この問題は当初、フロアマットや装備品に原因があるとされた、そういったものが適切に装着されなかった場合、スロットル全開状態のアクセルペダルに挟まってしまう可能性があるとされていた。これに続いて、米国道路交通安全局が調査したいくつかのうちの最初のものが2003年にあった、その後2005年と2007年に小規模のリコールがあった。ところが、事故件数は増加し、昨年11月にトヨタは、今回の問題に対処するために、およそ3,800万台のアメリカにある自動車を引き取らなければならなくなった ― これはかつてないほど大規模なリコールである。

フロアマットの改良、にもかかわらず、事態は終息しなかった。トヨタは当初、ペダルにシステム上の問題があることを信じるのを拒み、フロアマットを適切に取りつけていない顧客に責任があると主張した。1月21日に2度目のリコール、今回の2,300万台を申請する頃までに、トヨタはそれまでの高い評価を地に落とした。

今回の責任は無視出来なかった。トヨタは、アメリカの部品製造会社であるインディアナ州エルクハートのCTSグループを、欠陥ペダルの納品業者として名指しした、一方で同じ部品を製造している日本企業デンソーの責任は追求しないままだった。ところが、CTS社の最高責任者ヴィノド・M・クヒルナニ氏はその責任を負うつもりはなかった。彼が言うには、CTS社はトヨタの技術規格基準を満たしている、さらにこう言及している、今回のリコールの原因である "意図しない加速" は2002年製造の自動車にまで遡って関連している。「CTS社がトヨタに部品を納入し始めたのは2005年以降だ」と述べている。

これにはまだ続きがある。2月上旬、トヨタが40万台を超えるプリウスや他のハイブリッド車を自発的にリコールした時には、残っていた政治的信用を少しでも、なんとか取り戻した、今回は、凸凹の多い路面を走行した場合に事故を引き起こす可能性のあるABSのプログラム更新をやってのけた。レグザスはトヨタで一番売れている高級モデルである(これも相当悪い)が、プリウスはトヨタのお気に入りである、プリウスは、他の自動車メーカーのガソリン電気ハイブリッド車への進出を留まらせている技術的問題について、トヨタは解決できる実力があることを実証し、それと同時に、トヨタの環境に関する信頼性も解決した。つい先月、デトロイト・オートショーで、取締役たちが、トヨタの将来成長の基軸としてプリウスを紹介したばかりだ。トヨタは年間100万代のハイブリッド車を世界中に輸出する計画だった、そのほとんどは北アメリカだった。

Thursday, February 11, 2010

What is Robert Gates Really Fighting For?



By Elizabeth Rubin

米国防長官のRobert Gatesは、Doomsday Planeと呼ばれる冷戦の遺物に乗って、戦争地域やその隣国、中国やロシア、スリナムへと世界中に飛び回っている。その飛行機はBoeing社で1970年代に製作され、核戦争の真っ只中でも上空に留まれるために設計された。それはまるで飛んでいるペンタゴンだ。飛行機はかなり重いので、長時間のフライトでは上空で燃料補給する必要がある。大統領専用機の在外乗組員が私にこんなことを教えてくれた。浮かんでいるタンカーの燃料ノズルが怒り狂った宇宙生物のように操縦士側のフロントガラスを強打することがある、と。その飛行機は、核攻撃シールドで覆われ、全てのアメリカミサイル格納庫に対して発射コードを放つことができる数少ない飛行機のうちの一つである。


操縦室を過ぎたところには、プラグ、インターネット、漆塗りのテーブルが備え付けられた会議室がある。ローファーを履き、ジーンズとボタンダウンを着て、アフガニスタンとイラクから帰る途中ですっがりリラックスした長官がそのテーブルのところの席に着いている。長官と私は、議会公聴会で感じたストレス、若い男女を戦争に派遣しなければならないという重責について話し合っていた。そして、ちょうど会話が終わりに近づいたときに、長官は言ったんだ。「私にとってはテキサスA&M大学でのフットボールがこれまで遂行してきたどの仕事よりもストレスだったとよくみんなに話してたんだ。それで、みんなはいつも私が大げさに言っていると思ったんだよ。」私は信じられないことだと言ったが、長官はその言葉を曲げなかった。


「私はあるとき妻に、「それはどうして?」と聞いてみた。そしたら彼女は「だってあなたコントロールしないじゃない。」って言ったんだ。」長官は話を中断した。・・・「ここでは、私だってコントロールの一つや二つしているだろ。」と機内の会議用テーブルを叩きながら言った。


それは昔ながらのゲイツだった。ひょうきんで、タイミングに気を払い、若干自分を卑下するところもあるが、ひどく自分をよくわかっている男である。そういった性格も明らかだった。ゲイツは、注意深く、節度があり、控えめだがとことん効率重視で自分の権力を行使する長官である。(そんな性格を表す出来事を紹介しよう。)2月1日にしたように、彼は、コスト超過と技術的欠陥が因で、ペンタゴンの新しいF-35ステルス戦闘機プログラムを監督していた軍当局者を解雇した。さらに、Lockheed Martin社に対し、罰金として料金の中から6億1500万ドルを差し引いた。多くの国防省の請負人やプログラムマネージャーは要求された目標に
達していないが、ほとんどたいていはうまくやってのけている。ゲイツの下ではそうはいかない。


ゲイツの同僚で、冷戦の生き残りであるDoomsday Planeのように、ゲイツは権力、支配力、そして驚くほど長い在任期間を具体的に表現するようになってきた。身長たった5フィート8インチ、小さな手足、カンザス州出身のおとなしい66歳のゲイツは、ほとんどの彼の同僚の官僚や政策立案者と同様に、長官の座を7年続けてきた。彼は、最高位の仕事=CIA長官にのし上がるには、まだ初心者レベルのCIA分析官である。そして、反対政党の政権において、そのまま留任するよう頼まれた唯一の国防長官である。ゲイツは、忍耐、実用主義、そして官僚としての手腕を組み合わせることで成功を収めてきた。また、これまで、押し寄せてくる様々な問題―ペンタゴンの改革、ミサイル防御、アフガニスタン問題、そして軍隊における「聞くな、教えるな」政策を撤回するペンタゴンの動き―を対処してきたことで、ゲイツはオバマ戦争内閣の中で最も重要な長官となった。それは、すさまじい功績である。なんたって、彼は民主党国家安全チームで唯一の共和党民なんだから。


「どんな地位を選んだとしても、ゲイツは影響力No.1の長官である。」と、Leslie Gelbは述べる。彼は、外交関連閣僚団の名誉会長で、アフガニスタンに対する政府戦略に疑念を抱いている。12月初頭、オバマ大統領が米国陸軍士官学校で、戦争地域にさらに30000人の兵士(2009年に動員した32000にさらに追加した)を送還し、2011年7月に呼び戻し始めることを決定したと公表してから数日後、ゲイツはサンデートークショーに行き、撤退は現地の状況次第だろうと言ったことを、Gelbは指摘している。「大統領はゲイツに異議を唱えなかった。」とGelbは言う。今の政権におけるゲイツの役割と権力についてあなたが知る必要のあることの大部分を、このことが物語っている。


ホワイトハウスが国家安全の縛りの中にあることがわかるとしたら、ガミガミうるさい共和党員をかわすためにどのようにゲイツを利用しているかもそこからわかる。FBI役員がクリスマスの日に起こった爆破犯の被疑者、Umar Farouk Abdulmutallabを逮捕したとき、彼らは黙秘権を被疑者に読み聞かせる前に、たった50分しか尋問しなかった。その事件からずっと、共和党員はホワイトハウスを非難している。なぜ、より完璧な尋問が行われる前に弁護士に接見することを許可しなかったのか?なぜ、被疑者は軍事裁判の代わりに文民裁判を受けているのか?どういうわけか、話は、ゲイツが両決定を承認したということに収まった。私がゲイツにそのことについて尋ねたとき、彼は慎重に答えた。爆破の被疑者をどう処理するかということについての結論は、ゲイツが問題なしとする前に既に話はついていたそうだ。Abdulmutallabは、それから調査官に協力し始めている。彼がどこで裁かれるかについては、ゲイツがこう述べている。「私は法務長官の判断に従う。」

Wednesday, February 3, 2010

Out of the Ruins


http://www.time.com/time/specials/packages/article/0,28804,1953379_1953494_1957366,00.html

By JAMES NACHTWEY


ハイチで起きた地震の余波を目にしていると、起きているのに悪夢の中に迷い込む感覚に襲われる。
この地図なき旅路上で目印となるのは、略奪者の群れ、手足のない子供たち、小枝やシーツで組み立てられた都市、粉々になった大聖堂、通りに倒れている死人の周りを回っている犬だ。


大多数のハイチ人は、奈落の底が身近にあり絶壁の上の狭い暗礁に沿って築かれた社会で通常生活している。
裕福な人は彼らが住む地域上方の高台に生活し、黒塗りのLand Cruiserで移動していて見られることはない。もっと高いところには、まるで空中に浮いているように、塵一つなく、人目を引く白い大統領官邸がある。そこは、全ての独裁者が密かに手中にしたいと望む場所だったが、現在は官邸の3つのバロック様式のドームの重さで粉々になってしまった。暗礁が崩れ落ちた所では、死者は置き去りにされた。暗礁が保たれている所では、人々は身を寄せ合っていた。人々はほとんど何も持っていなかったのに、一瞬にしてそれ以上に何もなくなった。ハイチの人たちは彼らの歴史に耐え続けている。困難や苦難が最高潮に達していても、精神力、プライド、そして威厳を持つことで抵抗した。彼らの国家というのは、奴隷状態を克服して生まれた国だ。つまり、ハイチは貧困、戦闘、信仰といったもので形成されてきたのだ。


地球は肩をすくめた・・ハイチは崩壊した・・そして世界は応答した。
「同情疲労」は、皮肉屋や広告販売員の架空の相手として表出した。大惨事は、手付かずの石油埋蔵量による利益や地政的利得抜きにして、大いなる寛大をもたらした。国連はこぞってハイチにいるのだが、実際のところその正体というのは、地球の各方面から、ただ現れ、勘に頼って飛んできた小規模のNGOなのだ。それらの頭文字を一列に並べても、赤道地域には不十分だろう。頭文字を列挙してみよ、あなたはきっと奇妙な言葉を話すだろう。


ハイチの人たちは手を離してただくつろいでいるわけではない。彼らは多くの重いものを持ち上げている。ただ、はたから見れば、自然の中ではかなり微々たることで、やっているのかわからないように見えが・・・。全世界からたくさんの救援物資が、貨物船やヘリコプター、C-130で輸送されている。ハイチの人たちは、頭上に必要なものを乗せて運んでいる。彼らは、大きな黄色いマシーンではなく、素手で、生存者を瓦礫の外へ助け出している。全ての人が、利用できるものは何でも使ってできることを行っている。


フォトジャーナリストとして、私は過去30年間の歴史を記録する仕事に携わっている。私の仕事の多くは、戦争、闘争、社会的不正に焦点を当てている。もし、人々がニュースを見たとしたら、同情心によってえも言われぬ感情にかり立てられるだろうし、暴力、侵略、そして容認できないほどの基本的人権の剥奪を目の当たりにして、怒りの感覚を分かち合うだろう。この感情は、怒りによって燃え上がり、信念によって動かされている。これらの結果は全て人によってもたらされるもので、怒りの感情が時に変革の過程に刺激を与える場合もある。地震は自然の摂理である。何万人もの人が数分のうちに死ぬ。同情は自然災害における究極の動機となる。難題は長期間その感情を維持することである。決して新聞の見出しと共に消えてしまってはいけない。


ハイチの人々は己の歴史を着実に進んでいる。奴隷たちはヨーロッパの権威ある帝国の一つを打ち破るために立ち上がった。地震はそれ自体、地球の内なる力を露呈する。しかし、ハイチの人たちの魂もまた、自然の力である。事実上、腐敗を連想させる国家(ハイチ)において、政治的シンボルとなるもの全てが取り除かれた。ハイチの人たちは、彼らの歴史の新たな章の白紙のページに何を描くのだろうか?

Tuesday, February 2, 2010

Starting Over: Can Obama Revive His Agenda?


http://www.time.com/time/politics/article/0,8599,1955401,00.html

By Joe Klein

「思い返してみよ。」大統領が口にした。「医療保険制度改革に取り組んでなかったとしても、この一年は骨の折れる一年だった。」 私たちは、大統領執務室で、医療保険制度改革がどのようにして失敗に陥ってしまったか議論していた。 その日は、オバマ大統領就任一周年を迎える前週の金曜日であり、Scott Brownという共和党員がTed Kennedyの上院席を勝ち取り、 民主党が(共和党による)議事妨害阻止を優位に運ぶことができなくなることでオバマ政権の意向を覆すことになった前週の金曜日であった。 その日は金曜日で、医療保険制度改革における方針を全て進めていくと決定したことが破滅を招く危険な賭けであると思われ始めたのも そのときだった。


私は、オバマ大統領に、ボストン郊外在住で、change(変革)を期待しながら、一年前自身を支持していた人々がどのようにしてオバマ政府を悟ったと考えるか尋ねた。 そして現在、大統領は、製薬会社や保険会社には何も言及せずに、Joe Liebermanに始まり、労働組合、ネブラスカの上院議員Ben Nelson (彼の臨時の低取得者医療扶助制度は国家の問題の種だった)、そして中絶合法化の反対勢力とは折り合いをつけていることをどのように見ているか尋ねた。 「私がchangeを約束したとき、何らかの形で国会議員が自身の選挙区内で事業を獲得しようと努めたり、病院の援助に努めるとは約束しなかった。」と大統領はあいまいに言った。 ところが、後に彼は認めた「ワシントンには政治的習慣がある。それはワシントンでしか通用しない習慣だ。そのことがワシントン外部の人々にとっては 法的には耐えられないことなんだと私は思っている。理解されない感覚だろう。医療保険制度改革が完全にまとまっていないことはさておき、 実際我々はワシントンではかなり良い成果を上げたんじゃないかと思う。が、外から見ると、単にテレビの情報だったり、耳にしたことの全てが報道によるものであったら、人々は間違った印象を受けるかもしれない。どういうわけか、ワシントン内部の人間は、耳を傾けることに時間を割いているんじゃないかとね。」


しかし、どう間違った印象を受けているのか?
大統領は言い張ったんだ、頼りない感じで、一般人の意見を聞くのに多くの時間を使ってきたんだと。しかし、彼はこの一年、国内を飛び回るのと同じ時間を外交にも 費やしてきたようだ。その上経済危機を直に経験してきた。そして狂気と混乱に満ちたワシントンの悪しき問題に向かってまっさかさまに落ちていったのである。 つまり歴代の目標であるアメリカ医療改革問題に立ち向かっていったのだ。そのことは、確かに価値のあることであり、民主党きっての解決されるべき問題の中心で、 長期的に国家経済の将来を考えれば欠くことのできない問題ではあるのだが、多くのアメリカ人にとってはあまり重要なことではないのである。圧倒的多数の人が、 現在受け取っている医療保険に満足しているし、それよりもほかの問題の方がはるかに心配だ、と世論調査機関に言い続けているのだ。ここで問題を明確にすると、 問題は大統領と民主党の考えは国民のものとはかけ離れてしまっているということだった。


非常に多くの問題をよく対処してきたことがかえって不運につながったのだ。オバマ政権は、2009年1月20日に宣誓した時点で直面していた問題についてはもちろん正しかった。 彼は財政崩壊と2つの戦争の真っ只中であり、重大局面を迎えていた時期に就任した。彼は、激動の経済状況を安定化させようと確固たる自制心を持って実行した。 外交においては、アルカイダや、アフガニスタンやパキスタン国境地帯の同盟国と積極的に交戦する動きを見せている間に、アメリカ外交政策を本来の立ち位置に 素早く回復させた。オバマの選択のほとんどが賛否両論のあるものばかりだった。緊急経済対策補助に対しては、ある者には小さすぎると言われ、ほかの者には大きすぎると たたかれた。アフガン問題の深刻化、気候変動への対処の取り組みについては、一方では弱すぎると、他方では急進的過ぎるともみなされた。しかし、それらのどれをとっても 恥ずべきことではなかった。オバマ政権は重要で中身のあるものだった。しかし問題は、問題の一年だったが、政治的に正しい判断ができないのかどうかということのようだ。 そしてその世代の中ではもっとも優れた大統領演説をした人物が、なぜ自分自身を国民に説明することがそんなにも難しいことなのかということのようだ。

Friday, January 22, 2010

Haiti's Agony: What It Will Take to Rebuild

ハイチの受難: 復興に必要なもの
By MICHAEL ELLIOTT Thursday, Jan. 14, 2010
http://www.time.com/time/specials/packages/article/0,28804,1953379_1953494_1953499,00.html














悲劇は、それを最も耐えられないところに訪れるものだ。ハイチは西半球において最も貧しい国であり、栄養失調が蔓延し、人口の半分に満たない人しか清潔な飲み水を手に入れられない場所だった。

1月12日午後4時53分9秒、ハイチ首都ポートプランスから南西に15マイルの地点で、カリブプレートが、北アメリカプレートを押し、エンリキロ・プランテイン・ガーデン断層として知られている断層を動かした。この揺れが地表で生み出した巨大なエネルギー(リヒタースケールで7.0と計測された地震)は、ハイチにおける救世軍の災害対策本部長であり、その時ちょうど、ポートープランスに向かって近郊にあるペティオヴィルから丘を下りていたボブ・ポフの車を突き飛ばし、まるで玩具のように前後に揺り動かした。揺れが治まった時、ポフは救世軍のブログに書き込みをした、「窓から外を見たら、建物がパンケーキのようにぺちゃんこに積み重なって崩れているのが見えた…何千人もの人たちが、叫びながら、血だらけの体を引きずって、助けを求めて、道にあふれ出してきたのを見た。」

それから数時間のうちに、これまで200年以上もの間にハイチを襲ったなかでも最悪の地震の規模が明らかになった。5年前に、携帯電話のビデオがインド洋津波の惨劇をリアルタイムで世界中に配信したが、ツィッターのつぶやきやブログの書き込みが今回のハイチ地震についてまさに同じことをした、何が起こったかを伝え、誰かが自分の大切な人の消息を知っていないか尋ね、医療用品やクレオール語を話せる人を求めた。NGOのパートナーズ・イン・ヘルスの臨床責任者であるルイーズ・アイバースは、こう書き込んだ、「ポートプランスが被災して多くの死者がでた。SOS.SOS...どうか助けて下さい。」NGOのセイブ・ザ・チルドレンのイアン・ロジャーズの書き込みはこうだった、「地震から5時間たった今でも建物が崩れ落ちて行っている音が聞こえるんだ。」
(See pictures of the Haiti quake's aftermath.)

翌日、死者の数はまだわからなかった(地震の場合は常にそうなのだが、被害者を埋めてしまう)知ることが出来なかったのだ。しかし、複数のハイチ政府当局者が報道機関に話したのは、政府当局では最終的な死者数は10万人を超えるだろうと考えていることだった。さらに翌日、ハイチにおける国連活動の広報担当者であるヴィンチェンゾ・パリーズは、それまでにわかっていたことをまとめた。今回の地震は、とヴィンチェンゾは話し始めた、甚大な被害を引き起こした、大統領府や大聖堂、それから多くの政府機関の建物を破壊した。ホテルや病院、学校や、首都の中央刑務所は全て倒壊した。「犠牲者は、それは、推定できる範囲だけでさえ膨大な数になる」、ヴィンチェンゾはそう語った。「何十万人もとはいわないまでも少なくとも何万人もの人が、程度はいろいろだが、家屋の破損に苦しんでいる。」すでに跪いていた国が地面に平伏されてしまったのだ。


悲惨な場所をさらに悪くさせること

地震は予測できないものではなかった、とはいうものの、この地震による惨劇はそういった類のものではない。世界中の断層、つまり地殻を形成しているプレートとプレートの間にある危険な境界線は良く地図化されている。900万人の人口を抱える国ハイチは、カリブプレートと北アメリカプレートの接合部分の真上に位置しているのだが、「この境界線がこの島の岩盤をせん断し、押しつぶし、軋らせるのだ」、と語るのは、アメリカ地質調査所の地震災害部門、副主任であるマイケル・ブランピード氏である。「そして、そうなった時に地震が発生するのだ」
(See where the next five big earthquakes will be.)

That they do. 歴史学者によれば、過去500年間においてカリブ地域ではおよそ12の大きな地震が起こっている。地震による被害はよく知られている; 1962年の地震は、ジャマイカの都市ポート・ロイヤルをカリブ海に沈めてしまい、今日もまだ沈んだままである。しかし、地震がいつか起こるだろうということが解っても、地震が明日起こるのか、来週起こるのかそれとも来年かどうなのかと知りたがっている人には何の役にも立たない。1980年代に、アメリカ地質調査所とカリフォルニア州が、特に不安定で距離の長いサン・アンドレアス断層の研究を実施したが、2004年のパークフィールド地震を予見しうる兆候を全く見つけられなかった。「地震の予測は」、とブランピード氏は言う、「そもそも、もし出来たとしても、非常に難しいのだ」

今回のハイチ地震はこの地域において著しく強大だっただけではない; その震源は浅かったということもある ― 実際、ポートオプランスの辺りの軟弱な地盤と波型のドロドロの丘の組み合わせが、地震の影響をさらに大きくした。ポートプランス市内にある、大聖堂や大統領府のような堅強な建物がこの地震に持ちこたえられなかった、ということはつまり、他の多くのにわか作りのコンクリート製の建物はまるでトランプで作った家のように崩れ落ちてしまい、同時に多くの人の命を奪った ― ポートプランスの大主教はその一例である。
(Read "Seismologist Roger Musson: Haiti Quake Was the 'Big One.' ")

ポートプランスにある多くの立派な建物は、ハイチの人たちが国民意識や歴史観といったものを持つのに、これまで一役買ってきた、しかし今、この国は、国を立て直す方法だけでなく、国民の意識を立て直す方法をも見つけ出さなければならない。1月12日に起きたことは、まさにハイチの特殊な地形や地質によって作り出されために、最終的な被害者の数もまた、この国の、まさに特別な状況によって決定付けられるのだろう。ハイチは、不運で不幸な国だ。かつてフランスの奴隷植民地であったこの国は、長くて激しい独立戦争を経て、世界で最初の自由な黒人による近代国家として、200年以上前に血まみれで誕生した。それから何年もの間、ハイチはほぼ間断なく、地方地域の無法状態や諸外国からの干渉や経済的搾取に苦しみ続けてきた。ハイチは、1915年から1934年にかけては米軍の占領下にあった、その後、1957年から1986年の間はフランソワ・デュヴァリエとその息子であるジャン・デュヴァリエ(通称パパ・ドクとベイビー・ドクである)の支配下にあった、このデュヴァリエ政権期の政治腐敗と弾圧がハイチ国家を蝕み、教育を受けた人々の大規模な世界中への移民をもたらした。

1994年にアメリカが介入し、カリスマ的司祭で、1990年に大統領に選出されたジャン・バーナード・アリスティド政権を失脚させてしまった軍事政権を強制追放した。政治的混乱から10年後の2004年、当時、自身大統領として2期目であったアリスティドは、亡命せざるを得なかった;それから、国連の平和維持機関であるハイチ安定化派遣段が設置された―これは、ハイチ国家の平和と一定の安全確立を助けるために計画された一連の多くの海外援助のうち最新のものである。

今回の地震を特に”悲惨で計り知れないもの”にさせたのは、バラク・オバマアメリカ大統領が述べたように、地震が、まれに見る楽観主義的な時期に襲ってきたことであった。自然と政治による惨事から何十年もたった後で、前の大統領であるビル・クリントン率いる国連平和維持活動と、国際投資活動、それから国連によるハイチへの特別使節が、最近やっとこの国を沈静化させ復興し始めていたところだった。しかし、この用心深い楽観主義的な雰囲気は、まだ、一般のハイチ人の最低限の生活状態を改善し始めてはいなかった。一番いいときでさえ、ハイチの健康衛生は最悪である。公共の下水施設を備えているハイチの都市は1つもない;20万人近くの人がHIVやAIDを抱えており、ハイチの子供達のうちたった半数しか、ジフテリアやはしかといった最低限の予防接種を受けられないのだ。

この地震はものごとを想像を絶するほどに悪化させた。救急隊は既に、まだ助かる可能性のある負傷者を見つけ出すために瓦礫の中をくまなく捜索しはじめていたが、この国を脅かすような、不気味で長期的な健康リスクがそこにはある。「これから数週間のうちに、わたし達は公衆衛生に関わる膨大な問題を抱えることになるかもしれない」、と言うピノ・アナンジアータ氏は、ジュネーブのWHOで救急隊をまとめている人物である。災害から1日も経たないうちに、アメリカ海軍と沿岸警備隊の船舶が群れを成してハイチに向かい、災害救済活動の陣頭指揮をとる準備をしていた。2,000人を超える海兵隊員が、ハイチへ向かう準備をするよう告げられた。彼らは、全員出動することになるだろう。地震後の最初の混乱していた日に、消息筋が強調したのは、瓦礫を移動させて建物を支えるための重機がないことだった;人々は大切な人たちのために、自らの素手で瓦礫をかき集めていたのだ。米軍は、空港や港が、これから大勢やってくるであろう、多くの救済者を受け入れられるように準備するだろう。

発展途上国においては常にそうなのだが、最優先事項は清潔な水である。飲料水分配システムが壊れてしまったので(それに、生存者は水まわり設備のない収容所に詰め込まれている)、供給水はすぐに汚染されてしまう。そのため、コレラや赤痢のような水を媒介する感染症があっという間に広がって、収容施設中に蔓延する可能性がある。

適切な援助によって、とにかく、最悪の事態は回避できるかもしれない。今日、災害後における感染症の大流行は世界でも稀である。2004年の津波のときでさえ、20万人を超える死者を出したが、迅速かつ徹底した対応が、被災後の死者数が膨大になるのを防いだ。実際に、海外からの、ハイチに対する非常に大きな注目によって、最終的に、ハイチの公衆衛生システムは改善されるかもしれない、津波の後のインドネシア、アチェ州がそうであったように。

ハイチの状況がよくなることを願っている人たち誰もが、そういった親切な施しを望むだろう。多くの人が望むだけでなく実行するだろう。トロイ・リヴゼイは、ポートオプランスから最初に言葉を発信した多くの宣教師の中の1人であるが、ツィッターの書き込みの中で、地震の会った日の夜の雰囲気を、こう表現した。「協会の人々は歌っている…祈っているのだ」と彼は書き込んだ。「恐ろしい惨状の中にあって、美しい歌声です。」

信者になるまでもなく、長い間悲しみに耐え続けてきたハイチの人々の祈りがかなえられることを望むはずだ。



— With reporting by Massimo Calabresi, Michael Scherer and Mark Thompson / Washington; Gilbert Cruz, Jeffrey Kluger, Kate Pickert and Bryan Walsh / New York; and Tim Padgett / Miami



Sunday, January 10, 2010

The '00s: Goodbye (at Last) to the Decade from Hell



By Andy Serwer Tuesday, Nov. 24, 2009
http://www.time.com/time/nation/article/0,8599,1942834,00.html

2000年1月1日に日付が変わってからちょうど2分後のこと、日本の女川原子力発電所で警報器が作動した。世界中の政府当局とコンピューター科学者たちは固唾を飲んだ。それは2000年問題による大規模なコンピューター崩壊の始まりだったのか?実はそうではなかった。それは単発的な出来事で、新しい10年の始めに起こった一握りの誤作動のうちの1つだった。(その中には、デラウエア州の2か所の競馬場で起きた500スロットマシーンの故障がある。)恐れられていた新世紀のコンピューター崩壊はまったく起こらなかった。

その代わりに、壊れようとしていたものはアメリカン・ドリームであった。9.11にはじまり、金融崩壊で締めくくられた、今世紀最初の10年間は落ちてゆくのだろう、第二次世界大戦後アメリカが経験した中で最も気の滅入る、最も幻滅されられる10年間として。2009年が終わるまでにまだ数週間残っているが、判断を下すのに早すぎはしない。この10年を、最悪の10年と呼ぼう、もしくは、報い、夢が壊れた10年、失われた10年と呼んでもいい。何とでも好きなように呼ぼう、ただ、この10年が間もなく終わりを告げることに、感謝を捧げよう

2000年代を「最悪」と言うと、歴史的にみて大きな戦争がなかった10年には言い過ぎのレッテルのように思えるかもしれない。この言葉は、悲しいことに、何千人もの、9.11の犠牲者、イラクやアフガニスタンで犠牲になった兵士や一般の人たちの遺族にとっては妥当な言葉だ。しかし、大規模な武力抗争の欠如が、この10年をより一層際立たせた。この10年は、アメリカ全史におけるどの平和だった10年とも同じくらいひどいものだった。西欧諸国がイスラム過激派と苦闘し続けており、最近の瀕死の経済事情があるなかで(この波は、ほとんどの発展途上国を大きく避けて通った)、アメリカが10年の刑罰を受けていたように感じるのは無理もない。アメリカが受けたこの波による影響が最も深刻だったので、アメリカ人は近年の歴史について暗い見方をしているのかもしれない。ブラジルや中国の人は、経済面で非常に恵まれた10年を過ごしただろう。かつてアメリカは、どこよりも日当たりのよい、最も楽観的な国家であった。もはやそうではない。

アメリカは、1つどころか2つの市場崩壊に耐え抜いた、10年の終わりごとに1つずつだ。最初のウォール街の大暴落を思い出してほしい、力を失いかけていたテクノロジー株が、2000年から2001年にかけて市場を大暴落させたのは、2000年3月に10日にナスダックが5049ドルの最高値を記録してから間もなくのことだった。(最近の株価は:2150~2200ドルである)当時、経済は後退したが、それは今となっては笑ってしまうくらい穏やかな不況であった。その後に起こったさっぱり笑えないことというのは:史上最も対立的で、複雑な大統領選である、アメリカ人が、第三世界でしか起こり得ないだろう、と、かつて考えていたような混乱したドラマがあった。

やがてこの10年を決定づける瞬間が訪れた、9.11のテロ攻撃は少なくとも1世代の期間の外交政策を問いただし、それまではほとんど心配したことがなかったアメリカ本土の安全対策に疑問を抱かせた。アメリカはアフガニスタンに戦争をしかけたが、この戦争は延々と続き、今日となっては、かつてないほどに破滅的なものになっている。続いて、アメリカはイラクで大失敗を犯した。忘れてはいけない、炭疽菌が入っているという脅迫の手紙やその後に現れたワシントンD.C.の狙撃者たちと、エンロン社とワールドコム社によって浮き彫りにされたウォール街の不祥事を。

時々、それはまるで、この10年に対する神々の陰謀のようであった。2005年8月29日、この10年のちょうど真ん中で、ハリケーン・カトリーナがルイジアナ州南東部に上陸し、1,500人を超える死者と1,000億ドルの被害を出した。これは、アメリカ史上最悪の自然災害だった。

この10年が終わりに近付いている今もなおアメリカが格闘している経済の大崩壊に関して自然なことは何もない。低金利の融資によって支えられた不動産バブル景気と、金融派生商品によって膨らみすぎた負債が、いわゆる、金融の大量破壊兵器が、アメリカの経済状況を崩壊の危機に追いやった。アメリカは、これから何年もかけてこの損害を整理することになる。一方、この経済の卑劣さの生きた象徴である、囚人番号61727-054、別名バーニー・マドフは、ノース・カロライナ州、バトナー刑務所の独房でやせ衰えながら、人類史上最大のねずみ講を指揮した罪で150年の刑期に服している。


大暴落

この災難を被ったのは我々アメリカ人だけだったのか?2004年のアジア津波は20万人を超える死者をだした。アメリカの金融崩壊は、世界中の先進国にあっと言う間に広まった。それでもまだアメリカは、20世紀を見下ろす高台に居て(TIME詩の共同創刊者はかつて、アメリカの世紀と名付けた)その先端はまるで切り立った崖のようである。我々の中で無傷だったのは誰だろう?多くはいない。家族の誰一人戦闘の犠牲にならず、マドフの金融詐欺にあわず、自宅が抵当に入っていなかったとしても、それでもおそらく、打撃をうけたはずだ。かつてロナルド・レーガンが問いかけた言葉を言い換えてみよう、この10年が始まったころとくらべて、あたなは今、より幸せですか?ほとんどのアメリカ人にとっては、その答えは明確にNOである。その理由をみてみよう。1つには、2000年以降株式市場は26%落ち込み、株に関しては最悪の10年間となった。(インフレを加味するとさらに悪くなる)この10年の初めにウォーレン・バフェットが私に話したことを思い出す、1990年代の高度景気が再来することはこれからも決してないのだから、アメリカは、将来のかすかな復興に慣れたほうがいいだろう。

平均的な労働者にとっては、非常にみじめな10年間だった。2000年の平均的な家庭の収入は52,500ドルであった。昨年(入手できる最新のデータである)は50,303ドルである。失業者率が10.2%まで上昇したために、今年の収入はほぼ確実に減少するとみられる。アメリカ人低所得者の暮らしはさらに厳しかった。2000年には、アメリカ人の11.3%が貧困層にいた。2008年までに、この数値は13.2%まで上昇した。一方、健康保険を持たないアメリカ人の割合は、13.7%から15.4%まで増えた。

驚くことに、住宅の価格はそれほど暴落しなかった、これは、早い時期に購入して今もそのままそこに住んでいる場合である。2000年には、中古住宅の平均的な価格は143,600ドルだった。今日それはおよそ175.000ドルである。しかし思い出してほしい、住宅の価格が高騰していた時期、つまりこの十年のちょうど中間のころに、何百万人ものアメリカ人が住宅購入に大金を費やしたのだ:2006年7月の住宅販売価格は230,300ドルとピークに達していた。もし、その時期に購入していたら(そして抵当に取られてしまっていなければ)、住宅はその価値のおよそ25%を失ったことになる。そこに元気づけられることは何もない。

アメリカ国民の精神は、記録的な数の法人の倒産によってアメリカの国家経済が損害を受けたのと同じくらい傷ついた、倒産した多くは有名企業である:Kマート、ユナイテッド・エアライン、サーキット・シティ、リーマン・ブラザーズ、GM、クライスラー。原油価格はこの10年で3倍以上になり、1バレルあたり70の高値を付けて、アメリカ経済を苦しめた。

もちろん、この10年の悪いニュースは、金融欄だけには収まらなかった。実際に普段よりも悪いニュースがあったのか?答えは、客観的にYESである。例えば、乱射事件や学校での発砲事件が増えていた、例えば、32人の学生が犠牲になった2007年のヴァージニア工科大学乱射事件や、11月に発生したフォート・フード陸軍基地での乱射事件、どの10年と比べても多く発生している。より大規模化したテロ爆弾やテロ攻撃があった、イングラン、スペイン、インドネシア、ロシア、ヨルダン、フィリピントルコ、インド、そしてもちろんアメリカ国内でも。実際の死者数はそう多くはなかったが、テロリストはいつどこででも攻撃できるという考えは、新たな、大きな不安をもたらしている。

我らがヒーローの多くでさえ、大いに欠点があることを明るみに出されてしまった、野球選手、自転車競技選手、オリンピック選手などによるドーピングから、際限のない政治不正や性的不祥事まで。そして、我々は、24時間報道されるケーブル・ニュースや、ブログ、リアリティー・ショーといった、人々の不快な行動を記録し意見を述べるメディアで見ていてもまだ満足しないようだ。さまざまな形のメディアの台頭と、ブログ世界における批評の制限の欠如が、全ての不祥事を強調しているようだ、そのために、汚されていない有名人はほとんどいなくなってしまった。もちろん、この10年に非常に素晴らしい出来事もあった、目覚ましい中国の台頭から、アップル社による一連の見事な新商品たち、ウサイン・ボルト選手の俊足、初のアフリカ系アメリカ人大統領を取り囲むアメリカ国民の団結(一時的ではあったが)である。だが、そういったことは全て、中心となる出来事というよりもむしろ、引き立て役だったように見える。

もしかすると、アメリカは、冷戦終結による繁栄によって自己満足に陥っていたのかもしれない。いつになく前向きに歴史が変わっていっていることによってもたらされた誤魔化しだったのだ。第一に、アメリカと連合軍は第二次世界大戦に勝った、それから45年後に、ベルリンの壁崩壊をもって、アメリカは共産主義にも打ち勝ったのだ。その後、たぶんアメリカ人は信じていたかもしれない、世界が永遠に戦闘から解き放たれるだろうと。一部の思想家はこれを歴史の終わりだと言った。しかし、歴史は死ななかった。再び精力的になった。古い形の戦闘は確かに消えたが、新しく悪意に満ちた戦いが現れた。


http://www.time.com/time/nation/article/0,8599,1942834,00.html

Saturday, December 5, 2009

How Feng Shui Is Being Discredited in Hong Kong

By Liam Fitzpatrick Monday, Dec. 21, 2009
http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1946757,00.html











香港人たちは、私自身もそうだが、こと風水に関しては、ある程度の専門知識を好んで用いるものだ。私自身は、他の点においては、実利主義者なので(例えば、実質的なことだけを信用しているというようなことであって、派手な暮らしを、という意味ではない)、中国人の土占いの流儀や、景観や物の配置が幸福な生活に影響を及ぼすのだという考えを話すことは、常に私自身にとっての自己矛盾となってきた。晩餐の席で、私は神秘主義を―それとか、ヨガの空中浮揚とか輪廻転生などを―どんな紅衛兵にも負けないくらい辛らつに、公然と非難しようと思えば出来るし、キリスト教信者から選挙権を剥奪するべきだと断言することも出来る。しかしそれと同様に、招いてくれた主人に向かって、アルネ・ヤコブセンの腰掛がその家の青竜の角で気の流れをせき止めていると、その夜の別れ際に言うことも出来る。私が混血の中国人だという事実が、いつでもそういったことを許してくれるようだ。本当に、風水はナンセンスだが、それは化体説や同毒療法のようなたぐいのものではない。中国全体を取り巻いているナンセンスであり、私が現代の民族的で形のないものとして受け継いだものの中ではよい部分である。It was a superior Chinese nonsense, a righteous part of my fashionably ethnic, intangible heritage.

しかし最近、わたしはそういった理論的な矛盾から立ち直った。その上、私は風水の占い師たちを、軽蔑に値するインチキだと糾弾できる。では、どのようにして確信を持てるようになったかを説明しよう。

夏の間、チャイナチェム・慈善財団・有限会社の陳振聰氏の事件が、香港第一審裁判所で審議されており、年末までには判決が出るだろうといわれている。その概要は:69歳で亡くなった億万長者のニナ・ワン・龔如心(お下げ髪に、ロリータ・ファッションで、リトル・スウィーティ(小甜甜)と呼ばれて返事をする女性)の死の際に、2通の相反する遺言書の提示があったというものだ。1通は、ニナの420億ドルの遺産を、兄弟が運営しているチャイナチェム慈善財団に譲るというもの。もう一通は風水の「導師」であるトニー・陳振聰(彼はニナの愛人だとも言っている)が提示したもので、財産の全てをトニーに遺すと明記されている。裁判中に浮上したのは、トニーがニナに、多額の現金と宝石を香港のあちらこちらの80を越える秘密の場所、風水の流儀で吉兆だと思われる場所に隠すように話たことと、そのお礼として、そしてまた別のいくつかの似たようなアドバイスのお礼として、ニナがトニーに少なくとも2,500万ドルを支払っていたことである。この目を見張るような棚ボタに満足しない卑劣なトニーは、(成り上がり者風なのだ、ちなみに一番上の息子にウェルシー(富)と名付けている)自分にニナの遺産を受け取る権利があると考えている、たとえそのために慈善に使われる分から奪うことになったとしても、彼こそが遺産を手に入れるべきだと考えているのだ。

法廷で、トニーの常習的な愚行が(トニーはかつて、ある元国会議員に「幸運」の代償として2,000ドルを捨てろと言ったことがある)卑劣な彼の報酬に対して、はっきりとした形で浮上した―あまりにも明白になったので、私自身も含めた香港の人たちは、ついに、これまで私たちを縛りつけていた風水というものの呪縛から目を覚ました。トニーは信憑性のある証明1つさえ提示できなかった。ジョセフ・ユというオンタリオ州在住の風水占い師、そんな風に呼ばれている彼は、トニーが殆んど独学だったことを明かし、そのことが、ジョンソン・ラム判事に「これ以上の反対尋問は必要ではない」と言わしめた。

この風水に関する公然の辱めは、それだけではすまなかった。10月に、土地開発業者であるハンダーソン・ランドは、高級マンションの最高級の部屋をその土地の数占いに合わせるために、奇妙な部屋番号を割り当てたことで嘲笑された、数占いに寄れば、6と8は吉兆である。記録的な価格で、68階や88階と呼ばれるメゾネット式の部屋が販売された、実際にはそれぞれ、43階と44階、それから45階と46階だったのだが。程なくして、ブロガーたちが笑い、そしてタブロイド紙がいやらしい目つきを送った事件がおきた、55歳のブルドーザー操縦士が、19歳の少女に、自分は風水の導師だと偽り、2人の接触は少女のモデルの仕事を成功させることを目的とした儀式なのだと言って、9回にわたってセックスをしたことで告発されたものである。もう分かりましたね。風水は単に非科学的なだけではないのだと。悪趣味なのだと。

こういったことは、もちろん、物事をうまく運ぶために風水をかつてないほど奇妙に利用した不信心な主張である。These are, of course, impious assertions to make in a place with some of the most marvelous feng shui ever bestowed. 港がコイ(幸運のシンボルである魚)のような形をしているので香港は恵みの泉なのだ、と考えられている。しなやかな竜が丘の上に住んでおり、そこから流れ出して、限りない幸運の巨大な宝庫の中にある海に集まっていくと言われている気(chi)の流れを鼓舞している。多くの主要な建築物は、周知の通り、風水の法則を忠実に守っている―ある場所では大金をはたいて、エスカレーターの配置を変えたり、また別の場所では、より費用のかかる噴水を設置したりして―気(chi)を外気から取り込んで建物の内部に流し込むのによいように、建物の内部では、その気の流れは、その後、家具で作られる道筋によって導かれるのだ。香港政府観光局は、旅行者に風水見学ツアーを薦めてさえいる、そのツアーでは、行く場所全てに、常に、狂気じみた女相続人や、不安に満ちたコブラや、社会的名士である建築家がいて、ドラゴンの力や、不死鳥の火について話したがっている。だけど、私は、そういった旅行者全員の方を掴んで、激しく揺すって、言って聞かせたい、易経に手を出さないようにと、そして、そういったフライングスターの組み合わせのことは忘れるように言って聞かせたい。あまりにも長い間ずっと、我々は時々やって来る旅行者を、仲間同士を、自分自身もだまし続けてきたのだ。


Read "Ideas How to Keep the Dragons Happy."

Wednesday, November 25, 2009

Protecting Jungles: One Way to Combat Global Warming

http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1940544,00.html
By Andrew Marshall / Ulu Masen Monday, Nov. 30, 2009












野生の像を追跡するうえで知っておくべき重要なことが2つある、そしてその2つとも、実際にジャングルに行って野生の像を追跡する前に知っておいたほうがいい。1つめは、像は足が速いということ。鬱蒼とした森の中では―今回の場合、インドネシアのアチェ州にある広大なUlu Masen生態系で、ヒルが人々の足元で蠢き、白い手をしたテナガザルが木の上でキーキー鳴いているような場所なのだが―像は鹿よりも速く動けるのだ。2つめは、像は木に登れないということ。これはよいことである、何故ならば、もしも像の群れの1頭から狙われた場合、何をするべきか、これではっきりしたからだ。


あるいは、これは少なくとも、ジャングルのことを熟知した森林警備員たちの助言である、彼らは、この190万エーカー(7,700平方キロメートル)の荒野の一角を巡回している。この警備員たちは、ロンドンに本拠地を置く、フラウナ&フローラ・インターナショナル(FFI)によって、Ulu Masenを、違法な森林伐採者たちや、密猟者たち、つまりそこにある貴重な硬材や豊かな野生生物たちを欲張って狙っている輩から守るよう訓練されている、そこにいる野生生物たちというのは、像や、手長猿、豹、熊、ニシキヘビ、そして穿山甲(センザンコウ)などだ。ここの警備員の仕事は、現代社会とかけ離れているように見えるかもしれないが、Ulu Masenの未開の地をこえたはるか遠くの地と密接なかかわりを持っている―つまり、アフリカやアマゾンのようにインドネシアと並んで、熱帯雨林がまだかろうじて存在している場所から、コペンハーゲンの会議室、数千人の使節たちが来月の歴史的な気候変動に関する会議のために集まってくるだろう場所までと密接な関わりがあるのだ。


緑色の植物は光を利用して、大気中から吸収した二酸化炭素と、それから水とを有機化合物に換える、その副産物として、酸素を生成しながら。この一連の過程は光合成と呼ばれ、Uli Masenのような森を、地球の気候を調節するうえで、重要な役割を担えるようにさせている。森林は、推定3億トンの炭素を蓄えている、これは、全世界における温室効果ガスの年間総排出量の40倍に相当する―炭素の排出は、地球温暖化を引き起こすのだ。森林を破壊すれば、そこにあった炭素を大気中に放出することになる、現代における大きな難題―破滅的な気候変動を避けるという問題―を解決できないものにしてしまう。森林破壊による炭素排出量は、全世界の人間活動による炭素排出量の15%を占めており、これは、車両や航空機全てを含めたものによる炭素排出量よりもはるかに多くなっている。インドネシアにある森林は非常に速い速度で消滅していっている、信じられないことだが、発展途上国であるインドネシアの炭素排出量は、産業大国である中国とアメリカに次いで3番目なのだ。1950年以降、グリーンピースの推定によれば、1億8千200万エーカー(740,000平方キロメートル)を超えるインドネシアの森林が、Ulu Masen95個分を超える広さに相当する森林が破壊されあるいは劣化してきたという。


良いニュースはある、森林を保護することは、”炭素排出に関して得をする最も簡単でお金のかからない方法の1つであるということだ”と、グリーンピースの広報担当者であるダニエル・ケスラー氏は語る。Ulu Masenは、REDDと呼ばれる国連の先駆的な計画のもとで保護される最初の森林のひとつになるだろう―REDDとは、発展途上国における林減少と森林劣化に由来する排出を削減しようとすることである―国連のこのプロジェクトは森林を無傷のまま保つための多額の奨励金を提供する。ここにその仕組みをあげる。Ulu Masenの森林を保護してそのままこれから30年過ぎれば、推算で1億トンの炭素の地球の大気圏への放出を止めることができる―この量は5,000万回のロンドンからシドニーへのフライトによる炭素放出量に相当する。こうして蓄えた炭素量は、何100万ものカーボン・オフセット・クレジットに換えることが出来る、このクレジットは、国連による排出量の削減目標を達成しようとしている、裕福な国や企業に売られる。こうしたクレジットの販売によって生まれた収入は、その後、森林へと再投入されて、その森のすぐ傍で暮らしている集落の生活を改善し、それによって、人々に木々を生かしたまま保たせることへの理由を与えるのだ。言い換えれば、森林は枯らされるよりも、保護されて温室効果ガス排出量を削減するほうがいいということ。