Sunday, February 21, 2010

J.D.Salinger Dies at 91: The Hermit Crab of American Letters

J.D.サリンジャー氏91歳で死去:アメリカ文学界のヤドカリ
http://www.time.com/time/arts/article/0,8599,1957492,00.html
By Richard Lacayo Friday, Jan. 29, 2010
















「ライ麦畑でつかまえて」の著者J.D.サリンジャー氏、2010年1月27日、ニューハンプシャー州コーニッシュの自宅にて老衰のため死去。91歳であった。
イブニング・スタンダード紙より

書棚から、簡素な数冊のペーパーバックを取り出すと、J.D.サリンジャーの作品(一遍の小説と3巻の短編集)を全部片手でつかめるだろう。彼のお気に入りの作家たち(大昔の詩だけで知られているサッポーや、17音節で俳句を作った日本の詩人達)と同様、サリンジャーは、ほんのわずかな作品に纏わる栄誉で知られる作家だった。1948年に最初に出版された作品について、本人は、ニューヨーカー誌に掲載されてもよい出来栄えだと思っていた。それから17年後、最後の作品をニューヨーカー誌に掲載して日よけを下ろしてしまった。

その日から、ニューハンプシャー州コーニッシュの自宅で1月27日に91歳で亡くなるまでの間、サリンジャーはアメリカ文学界のヤドカリだった。世間に姿を見せるのは、大概、誰かが自分の貝殻をつついたと不平をいう時だった。サリンジャー特有の名声辞退は、次第に、彼の作品と同じくらい重要だと判るかもしれない。1960年代、コーニッシュの小さな家に隠居した彼は、有名人としての暮らしを拒んだ。トーマス・ピンチョンはそういった意味ではほぼ間違いなくサリンジャーの後継者であるが、ピンチョンはウィンク1つと一度のチェシャ猫の薄笑いを見せて世界に背を向けるやり方をあみ出していた。サリンジャーのやり方は睨み付けることだった。さらにまた、サリンジャーはある考えをひねり出すと、発案者の汗まみれの熱心さでもってそこに傾倒していった。

サリンジャー唯一の小説、ライ麦畑でつかまえては1951年に出版されてから徐々に、サリンジャーをうんざりさせるような地位に登りつめた。数十年の間、この小説は、世界中で青春の通過儀礼だったし、怒れる若者の声明文だった。(時として死を招くほどの怒りもあった:1980年にジョン・レノンを射殺したマーク・デイヴィッド・チャップマンは犯行後に、サリンジャー作品を読むことを宣伝するために犯行を犯したと発言した。その数ヵ月後、ジョン・ヒンクリーがロナルド・レーガン大統領を狙撃するために出かけたとき、ホテルの彼の部屋にはサリンジャーの本が一冊残されていた。)しかし、何百万もの頭がおかしくなっていなかった人たちにとってさえ重要だったのは、ホールデン・コールフィールド、サリンジャーが生み出した、不機嫌で憧れの強い(そしてほぼ間違いなく躁うつ病の)若き主人公が怒れる若者の原型だったということだ。コールフィールドが、皮肉屋の鎧に包まれた傷つきやすい性格でもあるということは、彼自身をより魅力的にした。ジェイムズ・ジョイスやアーネスト・ヘミングウェイもまた、不機嫌な若者を生み出した。だが、サリンジャーがコールフィールドを生み出したちょうどその頃、アメリカのティーンエイジ文化が生まれたばかりだった。反抗的な若者の世代丸ごと1つが、ある特定の反抗的な若者になった。

サリンジャーは、シャーウッド・アンダーソンや、イサク・ディネーセン、F.スコットフィッツジェラルド、それから特にリング・ラードナーから引用したので、サリンジャー作品の登場人物は、こういった人たちの作品中のワルみたいに早口で、日常的なことを話したり、時には、深刻な問題を早口で話し合ったりするのだが、これを、数年後のウッディ・アレン映画に登場するニューヨークっ子たちが引き継いでいる。しかし、サリンジャーはそういったことを全部何か新しいものに変えていった、その雰囲気は、世俗的なものと宗教的なものからとか、この世のものとこの世のものではないものから、有頂天と気だるさから引用したものだ。例のグラス家の7人兄弟(芸能人と聖職者が入り混じった複雑な構成のグラス家は、サリンジャーのもう一つの不朽の創造物である)が、サリンジャー自身の様々な面の集合写真を構成していると見なすのが一般的である。7人それぞれがサリンジャーの異なる特徴を映しだしている:作家と俳優、出世を望むものと研究者、宗教的熟練者とずっこけた馬鹿者。それが事実だということは十分ありうる。サリンジャーは誰にも確かめられないようにしてしまった。ホールデン・コールフィールドが言うには、「絶対に誰にも何にも言うな」。このセリフはサリンジャーの言葉かもしれない。

ジェローム・デイヴィッド・サリンジャーは1919年1月1日、ニューヨークで生まれた。母親はスコットランド生まれのプロテスタントだったが、ユダヤ教徒の義理の家族に合わせるため、マリーという名をミリアムと改名した。父親であるソロモンは、食品輸入業者であり、サリンジャーが13歳になった頃、家族でパーク・アベニューに引越し、成績の悪かったサリンジャーをマンハッタンの私立学校に入学させられるほど成功していた。サリンジャーは2年で退学になった。それからフィラデルフィア郊外にある、ヴァレー・フォージ・ミリタリー・アカデミーに送り込まれた。この学校が、後にペンスィ―・プレップ、つまりコーンフィールドが逃げ出した学校のモデルになったようだ。

ヴァレー・フォージを卒業後、サリンジャーはいくつかの学校から逃げ出している。ニューヨーク大学を中退するまでには、2セメスターをやっと修めただけだった。父親は、サリンジャーを家業に参加させようと決め、ハムについて色々と学ばせるためにオーストリアやポーランドに連れて行った。「結局あの人たちは、2か月もかけて、ブィドゴシュチュまで僕を引きずって行ったんだ。」とサリンジャーは後年に書き残している。「そこでは、僕はブタを解体して、大きな解体熟練者と一緒に雪の中を運んだんだ。」ハムはサリンジャーの未来ではなかった。アメリカに戻って、また別の学校に気乗りしないまま挑戦した、今度はペンシルバニア州の田舎町にあるウルジヌス大学だった。サリンジャーは1セメスターを終えると、ずるずるとマンハッタンに戻ってきた。

この頃までに、サリンジャーは曖昧な目標を心に抱いていた:作家になりたかったのだ。1939年の秋に、ウィット・バーネットが教鞭をとる、コロンビア大学の作家養成講座に参加した、バーネット氏は、評価の高い小さな文芸誌で、ウィリアム・サローヤンやジョセフ・ヘラ―、カーソン・マッカラーズらを排出したストーリー誌の創設者であり、編集者だった。バーネットはすぐに教え子サリンジャーの才能に注目し、サリンジャーの作品は最初にストーリー誌に掲載するように取り計った。1940年3-4月号のストーリー誌は、後にサリンジャー作品に登場することになる若者たちの原型である、とあるパーティでの大学生たちを辛辣に描写した短編 "若者たち" を掲載した。

その後数カ月の間、サリンジャーは、コリアーやエクスカイア―のような大衆雑誌に取り上げられ、夢見ていたニューヨーカー誌に、気をもませる書き下ろし作品を掲載し、単にプロの作家ではなく芸術家でもあることを証明した。

1942年4月、真珠湾攻撃の4ヶ月後に、サリンジャーは招集された。最終的に、ナチ協力疑惑のある人を尋問するようなことをするためにアメリカ兵を訓練していた、米軍諜報部隊の一員として船でイギリスに移送された。サリンジャーは小さなタイプライターをいつも持っていて、ヨーロッパ中を持って歩き、いつも書いていた。作戦決行日には、歩兵連隊の隊員としてノルマンディに上陸した。8月までに、サリンジャーの連隊はパリまで進軍し、そこからドイツまで強硬進軍した。その秋と冬には、1カ月も続く、凍える、泥だらけで地雷だらけの森の中での激闘だったヒュルトゲン森の闘いを含む、いくつかの最も恐ろしい軍事作戦に参加したようだ。

戦時中に、サリンジャーに何があったのかはあまりよく知られていない。しかし、悩ましい伝記作家である、イアン・ハミルトン(サリンジャーはハミルトンが自分の文章を引用できないように裁判を起こし勝訴している)は、戦後まもなく、サリンジャーが神経衰弱になったと考えている。ハミルトンの著書 "J.D.サリンジャーをつかまえて" の中で、1945年にサリンジャーが、一年前にパリで出会ったヘミングウェイに宛てて書いた手紙を紹介している、手紙の中でサリンジャーは、軍を離れて、ニュルンブルグの病院で、精神障害を引き起こすかもしれない症状の治療を受けていたことに触れている。もしそうだだったのだとすれば、彼の作品である、ある種の入院の後で、"精神を無傷に保とう" と苦しむ米兵について描かれた優れた、そして複雑な物語 "エズムへ、愛と堕落をこめて" の中心にいるのはサリンジャー自身だったことは確実である。その年の9月、サリンジャーはなにか、もしかすると安定剤に頼っている男の行動かもしれないような奇妙なことをしでかした:ドイツ在住のフランス人女性と、突然結婚したのだ。サリンジャーは、翌春、アメリカに帰国する時に彼女を連れて帰って来たのだが、その後まもなく、我々には解らない何らかの理由で、彼女はフランスに帰国し、結婚は解消された。

ニューヨークに戻り、また両親と暮らし始めたサリンジャーは、1日中執筆する生活に戻り、ようやく、ニューヨーカー誌の高い壁を越えた。1946年、ニューヨーカー誌は、かつておざなりに扱っていた、ホールデン・コールフィールドの物語を掲載した。2年後、サリンジャーはニューヨーカー誌に正式な作家として取り上げられ、6か月に3篇の作品を発表した。その時からずっと、サリンジャーは他の何処にも自分の作品を掲載していない。そして、1953年の短編集 "ナインストーリーズ" 中の2作品は別として、彼は他のところでかつて発表した作品に背を向けてしまい、自分の作品集に収めることを決して許さなかった。






Thursday, February 18, 2010

Behind the Troubles at Toyota

トヨタ問題の背景

http://www.time.com/time/business/article/0,8599,1963595,00.html
By Bill Saporito with Michael Schuman and Joseph Szczesny
Thursday, Feb. 11, 2010















カリフォルニア州、デーリーシティにある特約販売店に並ぶ2010年型トヨタ・プリウス
Robert Galbraith/ ロイター通信


トヨタの何が悪かったのか?

大したことではない。少なくとも、技術面、構造面、さらには品質において大して悪いところはない。ずば抜けて優れた車を作ったのでない限りは、大概の場合、国際的な自動車産業にトップギアで突っ込んだりはしないものだが、トヨタはやってしまった。自動車は身近なマシンだが、非常に複雑でもある。新型の自動車を作るために、企業はそのスタイルを考え、設計し、骨組みを作り、購入し、1万に及ぶ部品を集め組み立てる必要がある。780万台、トヨタは、2009年(自動車業界にとって最悪の年)に世界中に販売したのだが、その中には何10億ものガタンと壊れてしまうおそれのある新型の部品が使われている。実際に壊れるものが出てくることは避けられない。

11月以降のおよそ900万台に及ぶ加速制御不能やブレーキ作動不具合に陥りやすいトヨタ車のリコールがとてもショッキングな事件になった理由は、トヨタが若干手抜きの自動車を製造していたことや、さらにはトヨタの酷い危機管理体制ではなかった ― しかしながら、こういったことによって、トヨタは修復のためとして20億ドルを超える代償を強いられた上に今年の売り上げを見込めなくなったのだが。もっと酷い致命的なことが起きた:蒸気閉塞がトヨタの神話化された企業文化に襲い掛かり、世界中で最も評価の高い企業の1つであるトヨタを、数多ある落ち目の自動車メーカーの1つに変えてしまったことだ。トヨタは、これまでよりも多くの欠陥自動車を製造しているだけではなく、問題点を解明し修理しさらにそういったことを利点に変えてしまう比類ない手腕で知られている企業であったが、実は全然何も解っていなかったように見えてしまった。

今回のリコールは突然のように見えたけれども、その兆候は積み重なっていた。マサチューセッツに本拠地を置く安全性の研究と戦略(SRS)という消費者救済団体によると、2002年に、トヨタ車における "意図しない加速" の事例数が急増したというのだが、これはトヨタが電子制御スロットルを導入したのとほぼ同時期であった。この問題は当初、フロアマットや装備品に原因があるとされた、そういったものが適切に装着されなかった場合、スロットル全開状態のアクセルペダルに挟まってしまう可能性があるとされていた。これに続いて、米国道路交通安全局が調査したいくつかのうちの最初のものが2003年にあった、その後2005年と2007年に小規模のリコールがあった。ところが、事故件数は増加し、昨年11月にトヨタは、今回の問題に対処するために、およそ3,800万台のアメリカにある自動車を引き取らなければならなくなった ― これはかつてないほど大規模なリコールである。

フロアマットの改良、にもかかわらず、事態は終息しなかった。トヨタは当初、ペダルにシステム上の問題があることを信じるのを拒み、フロアマットを適切に取りつけていない顧客に責任があると主張した。1月21日に2度目のリコール、今回の2,300万台を申請する頃までに、トヨタはそれまでの高い評価を地に落とした。

今回の責任は無視出来なかった。トヨタは、アメリカの部品製造会社であるインディアナ州エルクハートのCTSグループを、欠陥ペダルの納品業者として名指しした、一方で同じ部品を製造している日本企業デンソーの責任は追求しないままだった。ところが、CTS社の最高責任者ヴィノド・M・クヒルナニ氏はその責任を負うつもりはなかった。彼が言うには、CTS社はトヨタの技術規格基準を満たしている、さらにこう言及している、今回のリコールの原因である "意図しない加速" は2002年製造の自動車にまで遡って関連している。「CTS社がトヨタに部品を納入し始めたのは2005年以降だ」と述べている。

これにはまだ続きがある。2月上旬、トヨタが40万台を超えるプリウスや他のハイブリッド車を自発的にリコールした時には、残っていた政治的信用を少しでも、なんとか取り戻した、今回は、凸凹の多い路面を走行した場合に事故を引き起こす可能性のあるABSのプログラム更新をやってのけた。レグザスはトヨタで一番売れている高級モデルである(これも相当悪い)が、プリウスはトヨタのお気に入りである、プリウスは、他の自動車メーカーのガソリン電気ハイブリッド車への進出を留まらせている技術的問題について、トヨタは解決できる実力があることを実証し、それと同時に、トヨタの環境に関する信頼性も解決した。つい先月、デトロイト・オートショーで、取締役たちが、トヨタの将来成長の基軸としてプリウスを紹介したばかりだ。トヨタは年間100万代のハイブリッド車を世界中に輸出する計画だった、そのほとんどは北アメリカだった。

Thursday, February 11, 2010

What is Robert Gates Really Fighting For?



By Elizabeth Rubin

米国防長官のRobert Gatesは、Doomsday Planeと呼ばれる冷戦の遺物に乗って、戦争地域やその隣国、中国やロシア、スリナムへと世界中に飛び回っている。その飛行機はBoeing社で1970年代に製作され、核戦争の真っ只中でも上空に留まれるために設計された。それはまるで飛んでいるペンタゴンだ。飛行機はかなり重いので、長時間のフライトでは上空で燃料補給する必要がある。大統領専用機の在外乗組員が私にこんなことを教えてくれた。浮かんでいるタンカーの燃料ノズルが怒り狂った宇宙生物のように操縦士側のフロントガラスを強打することがある、と。その飛行機は、核攻撃シールドで覆われ、全てのアメリカミサイル格納庫に対して発射コードを放つことができる数少ない飛行機のうちの一つである。


操縦室を過ぎたところには、プラグ、インターネット、漆塗りのテーブルが備え付けられた会議室がある。ローファーを履き、ジーンズとボタンダウンを着て、アフガニスタンとイラクから帰る途中ですっがりリラックスした長官がそのテーブルのところの席に着いている。長官と私は、議会公聴会で感じたストレス、若い男女を戦争に派遣しなければならないという重責について話し合っていた。そして、ちょうど会話が終わりに近づいたときに、長官は言ったんだ。「私にとってはテキサスA&M大学でのフットボールがこれまで遂行してきたどの仕事よりもストレスだったとよくみんなに話してたんだ。それで、みんなはいつも私が大げさに言っていると思ったんだよ。」私は信じられないことだと言ったが、長官はその言葉を曲げなかった。


「私はあるとき妻に、「それはどうして?」と聞いてみた。そしたら彼女は「だってあなたコントロールしないじゃない。」って言ったんだ。」長官は話を中断した。・・・「ここでは、私だってコントロールの一つや二つしているだろ。」と機内の会議用テーブルを叩きながら言った。


それは昔ながらのゲイツだった。ひょうきんで、タイミングに気を払い、若干自分を卑下するところもあるが、ひどく自分をよくわかっている男である。そういった性格も明らかだった。ゲイツは、注意深く、節度があり、控えめだがとことん効率重視で自分の権力を行使する長官である。(そんな性格を表す出来事を紹介しよう。)2月1日にしたように、彼は、コスト超過と技術的欠陥が因で、ペンタゴンの新しいF-35ステルス戦闘機プログラムを監督していた軍当局者を解雇した。さらに、Lockheed Martin社に対し、罰金として料金の中から6億1500万ドルを差し引いた。多くの国防省の請負人やプログラムマネージャーは要求された目標に
達していないが、ほとんどたいていはうまくやってのけている。ゲイツの下ではそうはいかない。


ゲイツの同僚で、冷戦の生き残りであるDoomsday Planeのように、ゲイツは権力、支配力、そして驚くほど長い在任期間を具体的に表現するようになってきた。身長たった5フィート8インチ、小さな手足、カンザス州出身のおとなしい66歳のゲイツは、ほとんどの彼の同僚の官僚や政策立案者と同様に、長官の座を7年続けてきた。彼は、最高位の仕事=CIA長官にのし上がるには、まだ初心者レベルのCIA分析官である。そして、反対政党の政権において、そのまま留任するよう頼まれた唯一の国防長官である。ゲイツは、忍耐、実用主義、そして官僚としての手腕を組み合わせることで成功を収めてきた。また、これまで、押し寄せてくる様々な問題―ペンタゴンの改革、ミサイル防御、アフガニスタン問題、そして軍隊における「聞くな、教えるな」政策を撤回するペンタゴンの動き―を対処してきたことで、ゲイツはオバマ戦争内閣の中で最も重要な長官となった。それは、すさまじい功績である。なんたって、彼は民主党国家安全チームで唯一の共和党民なんだから。


「どんな地位を選んだとしても、ゲイツは影響力No.1の長官である。」と、Leslie Gelbは述べる。彼は、外交関連閣僚団の名誉会長で、アフガニスタンに対する政府戦略に疑念を抱いている。12月初頭、オバマ大統領が米国陸軍士官学校で、戦争地域にさらに30000人の兵士(2009年に動員した32000にさらに追加した)を送還し、2011年7月に呼び戻し始めることを決定したと公表してから数日後、ゲイツはサンデートークショーに行き、撤退は現地の状況次第だろうと言ったことを、Gelbは指摘している。「大統領はゲイツに異議を唱えなかった。」とGelbは言う。今の政権におけるゲイツの役割と権力についてあなたが知る必要のあることの大部分を、このことが物語っている。


ホワイトハウスが国家安全の縛りの中にあることがわかるとしたら、ガミガミうるさい共和党員をかわすためにどのようにゲイツを利用しているかもそこからわかる。FBI役員がクリスマスの日に起こった爆破犯の被疑者、Umar Farouk Abdulmutallabを逮捕したとき、彼らは黙秘権を被疑者に読み聞かせる前に、たった50分しか尋問しなかった。その事件からずっと、共和党員はホワイトハウスを非難している。なぜ、より完璧な尋問が行われる前に弁護士に接見することを許可しなかったのか?なぜ、被疑者は軍事裁判の代わりに文民裁判を受けているのか?どういうわけか、話は、ゲイツが両決定を承認したということに収まった。私がゲイツにそのことについて尋ねたとき、彼は慎重に答えた。爆破の被疑者をどう処理するかということについての結論は、ゲイツが問題なしとする前に既に話はついていたそうだ。Abdulmutallabは、それから調査官に協力し始めている。彼がどこで裁かれるかについては、ゲイツがこう述べている。「私は法務長官の判断に従う。」

Wednesday, February 3, 2010

Never forgetting a face

http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/magazine/8474827.stm
By Pam Rutherford

この人たちをパッと見ただけで後から思い出せますか?

多くの人は、人の顔と名前を一致させるのに苦労する時があるものだが、もし、何年も前にほんの一瞬見ただけの人の顔と名前を識別できるとしたらどうだろう?

道を渡っている女性を知っている。でも何処で会っただろう?

ああ、その女性は、数年前に選挙に行ったときに会った、投票所のヴォランティア・スタッフの一人だった。その女性に会ったのはおそらくほんの2~3分だろう。それも数年前に。

すぐに思い出せるようなタイプの顔だったように聞こえただろうか?

ジェニファーにとってはそうなのだ。彼女は、"スーパー・レコグナイザー" 、人の顔と名前を思い出すことに関してかなりの並はずれた能力を持った人物である。

実際、ほぼ絶対に人の顔を忘れないでいることができる。最初に、普通じゃないかもしれないことに気がついたのは家族との休暇中、飛行機の中で、あまり有名でない俳優を見分けた時のことだ。家族は信じなかったが、正しかったことが証明された。

しかし大学で本当に実感することになった、ジェニファーは他の人とは違っていたのだと。

「最初の数週間に沢山の人と会ったんだけど、全員のことを覚えてた、会った時間がどれだけ短かったかは関係ないの。そのあと、パーティーで会った人たちは、みんな私のことを覚えてないみたいだった。私はこう考えたものよ:あの人はすごく嘘つきだわ、3週間前にカフェで30秒間会ったのに、みんな私のことを覚えていない振りをするなんて信じられない、って。」


偶然の出会い

会ってから何年も過ぎていてたとしても問題ない。

ジェニファーは子供のころに2~3度会った人に、地下鉄で会った話をしてくれた、今、20歳年をとって白くなった髪をドレッドスタイルに纏めていたその人が誰なのかはっきりとわかったという。

「人は年をとるものだけど、私には顔が同じに見えるの」とジェニファーは言う。「私にとっては、人の顔は変わらないのよ、子供の時も大人になっても。何故だかわからないけど、記憶が呼び覚まされるのよ。」

まるで小気味良い手品のようだし、もしくは仕事の役に立つかもしれないが、研究者にとってはそれ以上の意味があるようだ。

ジェニファーの能力は、彼女とは逆の状況にある人たち、"フェイス・ブラインドネス" として広く知られている、相貌失認症に苦しむ人たちの研究をしている科学者の助けになるかもしれない。

クレアは49歳の4児の母親で、その症状を抱えている。

彼女は、2004年5月にウイルス性脳炎を発症し、重度の記憶喪失の上さらに、人の顔を見分けられず苦しんできた。

「退院して、誰だかわからない人たちの家に来たの、この人たちが自分の家族なんだと信じるしかなかったわ。エドは自分の夫なんだと信じるしかなかったし、自分自身に言い聞かせるしかなかった、この人が私が愛してる人で、この子供たちが私の子供たちなんだって。」

クレアの、顔に関する問題は続いている。彼女は今でも、子供たちが友達と一緒にいると、自分の子供を見分けることが出来ないでいる。しかし、最近の自慢話を披露してくれた、人ごみの中で、夫のエドを見つけ出したことを。それでもまだ、友人や家族を見分けるのに、様々な方法が必要なのだ。

鏡に映った自分の姿さえ、驚きを隠せない。

困難な状況

この症状を抱えて生活し、克服する方法を身につけるのは努力を要する上、クレアにとって人生は困難なままである。

「他人の者のように思える生活を続けるのは簡単なことじゃないし、それに、より多くの人と付き合うようになればなるほど、この相貌失認症というものがより大きな障害になるの。誰かの顔を見たときに捉えた知識と情報は当然全部必要なものよ。」

「誰も、その情報全部が自分からパッと消えてしまったらどんな感じがするか考えたりしないものよ。誰にもそんなことが起きてほしくないわ。」


この症状は、相貌失認症、平常者、スーパーレコグナイザーと、たった3つの顔認識グループに分けられるものではないのかもしれない。


むしろ、顔認識の範囲というのがあるのかもしれない、と言っているのは認知神経科学研究所およびロンドン大学相貌失認症研究センターのブラッド・デュケイン氏である。


クレアの場合は、脳の損傷によって後天的に相貌失認症に陥ったのである。が、"発育性"相貌失認症と呼ばれる多くの場合さほど深刻ではないもう1つのタイプがあり、こちらは先天的な障害である。


さらに、驚くことにこちらの症状はよくみられるのだ。50人に1人が相貌失認の可能性があるのだが、ほとんどの場合本人は知らないだろう。


一方で、科学者たちはスーパーレコグナイザーについての研究を始めている、相貌失認症の注目度が高まったためにしばしば接触するからだ。


科学者たちは、スーパーレコグナイザーの脳を解明し始めた、彼らの神経回路を解析し、脳灰白質にどういった構造的または機能的な違いがあるのかを分析しているのだ。


標準的な顔認識テストでは、スーパーレコグナイザーたちは常に全問正解だ、ところが、その顔が非常にぼやけている場合でさえ彼らはほぼ全問正解するのだ、と認識の専門家である、ゲティスバーグ大学のリチャード・ラッセル教授は言っている。


「この研究が意味する最も衝撃的なことは、はみんなが同じものを見ていると思っているのだが、少なくとも顔を見ることに関しては、同じものを見ているわけではないことをこの研究が示唆しているということである。」

「スーパーレコグナイザーたちは、他の人とは異なる方法で世界を見ている、それは顔を見ることだけに限らず、違った捉え方で世界を見ている可能性がある。そこで、我々は、このことが、精神や脳の働きについて理解する上で、非常に役に立つだろうと考えている。」

相貌失認症患者のように障害に苦しんではいないとはいえ、スーパーレコグナイザーたちは時々それでも自分の態度を変えることを選んでいる。









Out of the Ruins


http://www.time.com/time/specials/packages/article/0,28804,1953379_1953494_1957366,00.html

By JAMES NACHTWEY


ハイチで起きた地震の余波を目にしていると、起きているのに悪夢の中に迷い込む感覚に襲われる。
この地図なき旅路上で目印となるのは、略奪者の群れ、手足のない子供たち、小枝やシーツで組み立てられた都市、粉々になった大聖堂、通りに倒れている死人の周りを回っている犬だ。


大多数のハイチ人は、奈落の底が身近にあり絶壁の上の狭い暗礁に沿って築かれた社会で通常生活している。
裕福な人は彼らが住む地域上方の高台に生活し、黒塗りのLand Cruiserで移動していて見られることはない。もっと高いところには、まるで空中に浮いているように、塵一つなく、人目を引く白い大統領官邸がある。そこは、全ての独裁者が密かに手中にしたいと望む場所だったが、現在は官邸の3つのバロック様式のドームの重さで粉々になってしまった。暗礁が崩れ落ちた所では、死者は置き去りにされた。暗礁が保たれている所では、人々は身を寄せ合っていた。人々はほとんど何も持っていなかったのに、一瞬にしてそれ以上に何もなくなった。ハイチの人たちは彼らの歴史に耐え続けている。困難や苦難が最高潮に達していても、精神力、プライド、そして威厳を持つことで抵抗した。彼らの国家というのは、奴隷状態を克服して生まれた国だ。つまり、ハイチは貧困、戦闘、信仰といったもので形成されてきたのだ。


地球は肩をすくめた・・ハイチは崩壊した・・そして世界は応答した。
「同情疲労」は、皮肉屋や広告販売員の架空の相手として表出した。大惨事は、手付かずの石油埋蔵量による利益や地政的利得抜きにして、大いなる寛大をもたらした。国連はこぞってハイチにいるのだが、実際のところその正体というのは、地球の各方面から、ただ現れ、勘に頼って飛んできた小規模のNGOなのだ。それらの頭文字を一列に並べても、赤道地域には不十分だろう。頭文字を列挙してみよ、あなたはきっと奇妙な言葉を話すだろう。


ハイチの人たちは手を離してただくつろいでいるわけではない。彼らは多くの重いものを持ち上げている。ただ、はたから見れば、自然の中ではかなり微々たることで、やっているのかわからないように見えが・・・。全世界からたくさんの救援物資が、貨物船やヘリコプター、C-130で輸送されている。ハイチの人たちは、頭上に必要なものを乗せて運んでいる。彼らは、大きな黄色いマシーンではなく、素手で、生存者を瓦礫の外へ助け出している。全ての人が、利用できるものは何でも使ってできることを行っている。


フォトジャーナリストとして、私は過去30年間の歴史を記録する仕事に携わっている。私の仕事の多くは、戦争、闘争、社会的不正に焦点を当てている。もし、人々がニュースを見たとしたら、同情心によってえも言われぬ感情にかり立てられるだろうし、暴力、侵略、そして容認できないほどの基本的人権の剥奪を目の当たりにして、怒りの感覚を分かち合うだろう。この感情は、怒りによって燃え上がり、信念によって動かされている。これらの結果は全て人によってもたらされるもので、怒りの感情が時に変革の過程に刺激を与える場合もある。地震は自然の摂理である。何万人もの人が数分のうちに死ぬ。同情は自然災害における究極の動機となる。難題は長期間その感情を維持することである。決して新聞の見出しと共に消えてしまってはいけない。


ハイチの人々は己の歴史を着実に進んでいる。奴隷たちはヨーロッパの権威ある帝国の一つを打ち破るために立ち上がった。地震はそれ自体、地球の内なる力を露呈する。しかし、ハイチの人たちの魂もまた、自然の力である。事実上、腐敗を連想させる国家(ハイチ)において、政治的シンボルとなるもの全てが取り除かれた。ハイチの人たちは、彼らの歴史の新たな章の白紙のページに何を描くのだろうか?

Tuesday, February 2, 2010

Starting Over: Can Obama Revive His Agenda?


http://www.time.com/time/politics/article/0,8599,1955401,00.html

By Joe Klein

「思い返してみよ。」大統領が口にした。「医療保険制度改革に取り組んでなかったとしても、この一年は骨の折れる一年だった。」 私たちは、大統領執務室で、医療保険制度改革がどのようにして失敗に陥ってしまったか議論していた。 その日は、オバマ大統領就任一周年を迎える前週の金曜日であり、Scott Brownという共和党員がTed Kennedyの上院席を勝ち取り、 民主党が(共和党による)議事妨害阻止を優位に運ぶことができなくなることでオバマ政権の意向を覆すことになった前週の金曜日であった。 その日は金曜日で、医療保険制度改革における方針を全て進めていくと決定したことが破滅を招く危険な賭けであると思われ始めたのも そのときだった。


私は、オバマ大統領に、ボストン郊外在住で、change(変革)を期待しながら、一年前自身を支持していた人々がどのようにしてオバマ政府を悟ったと考えるか尋ねた。 そして現在、大統領は、製薬会社や保険会社には何も言及せずに、Joe Liebermanに始まり、労働組合、ネブラスカの上院議員Ben Nelson (彼の臨時の低取得者医療扶助制度は国家の問題の種だった)、そして中絶合法化の反対勢力とは折り合いをつけていることをどのように見ているか尋ねた。 「私がchangeを約束したとき、何らかの形で国会議員が自身の選挙区内で事業を獲得しようと努めたり、病院の援助に努めるとは約束しなかった。」と大統領はあいまいに言った。 ところが、後に彼は認めた「ワシントンには政治的習慣がある。それはワシントンでしか通用しない習慣だ。そのことがワシントン外部の人々にとっては 法的には耐えられないことなんだと私は思っている。理解されない感覚だろう。医療保険制度改革が完全にまとまっていないことはさておき、 実際我々はワシントンではかなり良い成果を上げたんじゃないかと思う。が、外から見ると、単にテレビの情報だったり、耳にしたことの全てが報道によるものであったら、人々は間違った印象を受けるかもしれない。どういうわけか、ワシントン内部の人間は、耳を傾けることに時間を割いているんじゃないかとね。」


しかし、どう間違った印象を受けているのか?
大統領は言い張ったんだ、頼りない感じで、一般人の意見を聞くのに多くの時間を使ってきたんだと。しかし、彼はこの一年、国内を飛び回るのと同じ時間を外交にも 費やしてきたようだ。その上経済危機を直に経験してきた。そして狂気と混乱に満ちたワシントンの悪しき問題に向かってまっさかさまに落ちていったのである。 つまり歴代の目標であるアメリカ医療改革問題に立ち向かっていったのだ。そのことは、確かに価値のあることであり、民主党きっての解決されるべき問題の中心で、 長期的に国家経済の将来を考えれば欠くことのできない問題ではあるのだが、多くのアメリカ人にとってはあまり重要なことではないのである。圧倒的多数の人が、 現在受け取っている医療保険に満足しているし、それよりもほかの問題の方がはるかに心配だ、と世論調査機関に言い続けているのだ。ここで問題を明確にすると、 問題は大統領と民主党の考えは国民のものとはかけ離れてしまっているということだった。


非常に多くの問題をよく対処してきたことがかえって不運につながったのだ。オバマ政権は、2009年1月20日に宣誓した時点で直面していた問題についてはもちろん正しかった。 彼は財政崩壊と2つの戦争の真っ只中であり、重大局面を迎えていた時期に就任した。彼は、激動の経済状況を安定化させようと確固たる自制心を持って実行した。 外交においては、アルカイダや、アフガニスタンやパキスタン国境地帯の同盟国と積極的に交戦する動きを見せている間に、アメリカ外交政策を本来の立ち位置に 素早く回復させた。オバマの選択のほとんどが賛否両論のあるものばかりだった。緊急経済対策補助に対しては、ある者には小さすぎると言われ、ほかの者には大きすぎると たたかれた。アフガン問題の深刻化、気候変動への対処の取り組みについては、一方では弱すぎると、他方では急進的過ぎるともみなされた。しかし、それらのどれをとっても 恥ずべきことではなかった。オバマ政権は重要で中身のあるものだった。しかし問題は、問題の一年だったが、政治的に正しい判断ができないのかどうかということのようだ。 そしてその世代の中ではもっとも優れた大統領演説をした人物が、なぜ自分自身を国民に説明することがそんなにも難しいことなのかということのようだ。