Thursday, May 27, 2010

How Facebook Is Redefining Privacy



By Dan Fletcher

あと数週間のうちに、Facebookでは、5億人目となる活発な閲覧者が正式登録するだろう。Facebookサイトが土地だとしたら、それは人口ベースで世界第3位、つまりアメリカの人口の2/3さらに多い人口の国になるだろう。ネットサーフィンしている4人に1人以上の人は、Facebookアカウントを持っているだけにとどまらず、過去30日以内にFacebookサイトに再ログインしている。

ハーバード大学の学部生だったマーク・ザッカーバーグが、アイビーリーグの学生とお互いにお互いを登録しておく方法として、寮内でFacebookを立ち上げる手助けをしてからたった6ヶ月で、Facebook社はウェブサイト業界の大物の地位に参入した。マイクロソフトのおかげでコンピューターはが誰にでも使い易いものになった。googleは情報検索の手助けとなっている。YouTubeは我々を楽しませる。だが、これらのサイト以上にFacebookには多大な利点がある。それはユーザーが感情出資できる点だ。Facebookによって、私たちは笑ったり、身震いしたり、後でオンライン上で自分たちを見れるように写真に釘付けになったり、誰も気のきいたコメントを返してくれなくていらいらしたり、高校卒業後太った誰かを馬鹿にしたり、新婚さんが身分を更新するため結婚式中はネットを中断したり、独身に戻ったという身分を設定することで離婚を記述したりできる。(俺は俺たちがまだ友達でいられることが嬉しいよ、エリーゼ。)

我々の多くがFacebookのある生活を快適に過ごしているということは、要するに、すさまじい早さで文化的シフトが起こっているということだ。とりわけFacebookサイトのユーザーの28%が34歳以上で、その年齢層はFacebookで最も増加している層となっている。Facebookは我々の社会的特性を変化させ、よりオープンな状態に順応された。しかし、Facebookサイトは反論があることを前提としている。つまり、Facebookでは親しくなる機会―姪が初めて歩いたことを祝福したり、親友の死を悲しんだりする機会―は豊富にあるが、あなたたちがオンライン上でそういった瞬間を掲載することで、Facebook社はお金を稼いでいるのだ。あなたがFacebookで経験した感情は偽りのないものだ。と同時に、あなたが提供している情報は収益を伴っている。

Facebookユーザーが情報―食中毒症状の記載(気持ち悪いですね)から、削除されない上司への感情(分別がないですね)まで―の共有を快諾していることは、Facebookの成功にはかかせない。今までは会社の方針はさらなる共有を勧めることであったので、情報の多くが不満ばかりならば制限をかけることにしている。そういうわけで、Facebook社は個人情報保護について激しい議論の真っ只中にいる。2007年にそれは勃発した。Facebook Beaconというシステムの初期設定のせいで、Facebookの友人全員に、ある別なサイトで行なった購入歴の更新情報を送ってしまっていた。Beaconはユーザー―自動的に登録されていたユーザー―間で騒動を引き起こし、ザッカーバーグは公式に謝罪した。

そして、騒動は再燃している。ユーザー、そしてアメリカと海外で選ばれた議員らの最近の心配事を鎮めるために、Facebook社は個人情報保護の改定案を明らかにする準備をしている。5月5日に電子情報プライバシーセンターが連邦取引委員会に申請した不服申し立てをした直後に変化が訪れている。その申し立てでは、Facebook社が頻繁に方針を変えていることと、だますのでなければ、より使いづらい個人情報保護を設計する傾向にあることを問題としている。(当社の広報担当者でさえ、同僚が私よりも使いやすい個人情報保護機能を持っているわけを私に説明しようとしていることに気づいた。)38ページに上る不服申し立て書には、連邦取引委員会がFacebook社に共有した情報がどうなっているかということはもちろんのこと、我々が投稿した情報それぞれに付加するプライバシー設定についても明確にするよう強要すると申し立てをしている。

Facebook社は、個人の好みを堀り下げようとしてプライバシーに対する関心がそれほど高くなかったので、プライバシーの政策の見直しを図っている。4月に、Facebook社はOpen Graphという新しい試みを開始した。それはユーザーにウェブ上に好みを加えるもので、たとえばTIMEの記事からリーバイスのジーンズといったものまで示すことができる。理屈は、友人が何かをお薦めすると、自分もそれに対する関心度が高まるだろうという仕組みだ。そして、Facebookはかなり多くのユーザーを抱えているので、また、多くの企業が自社のユーザーの注目をあげたいので、Facebookはどこのどのウェブサイトでもユーザーの好みを公開するにはよいポジションにある。Open Graphが公開されてから1ヶ月もたたないうちに、10万以上のサイトがその技術を統合した。

Sunday, May 23, 2010

The End of the Euro

By Niall Ferguson

NEWSWEEK Published May 7, 2010
From the magazine issue dated May 17, 2010
http://www.newsweek.com/2010/05/07/the-end-of-the-euro.html


Crisis、語源のギリシャ語"krisis"は病状における山場を意味するが、古代アテニア人から借りてきた数多くの英語の単語の中のひとつであるが、最近、古代アテニア人の末裔はこの言葉の本来の意味を、私たちに思い出させている。

"経済回復" という言葉を使い始めても大丈夫だろうと思われたばかりなのに、ギリシャの経済危機が世界経済と、世界で2番目に力のある通貨の存在を脅かしている。

ちょうど10年前、ユーロはいいアイディアのように思えた。ヨーロッパは、共通の法律をもつ合同体としてはいうまでもなく、ひとつのブロック経済圏としての統合の状態はすでに目覚ましいものだった。貨幣統合は、様々なかたちの魅惑的な利益を提供したのだ。1970年代のブレトン・ウッズ協定の固定金利以降、ヨーロッパを悩ませ続けてきた為替レートの変動を終わらせたし、旅行者やビジネスマンにとって、手間とお金が掛かる通過換算がなくなった。さらに、より一層の価格透過性はヨーロッパ内の貿易の流れをスムーズにするものだった。

ヨーロッパの単一通貨制によって、貿易の条件がよりよくなるようにも見えた。過大な公債の問題を抱えているヨーロッパ諸国は、ドイツ式の低インフレと低金利を取り入れられる。ドイツは、ユーロが超強力なドイツマルクよりも少しだけ弱いことをひそかに望んでいたかもしれない。

通過統一には地政学的な魅力もあった。ドイツ東西統合のすぐ後で、フランスは、ヨーロッパがその最大の加盟国による新たな支配を受けるのではないかと懸念していたが、ドイツに貨幣主権を提供させることによって、第四帝国になる可能性のあるドイツに対する他の加盟国の勢力を高めることが出来る。それに、一番いいことは、強力なアメリカドルに対抗できる代替の準備通貨を作ることが出来ることだ。

それでもやはり、欧州委員会の代表であるジャック・デロワが通貨統合を最初に提案した時、乱暴なくらい大がかりな計画のように思われた。1992年のマーストリヒト条約において欧州連合の第三の支柱として通貨統合が正式に採用された時でさえ、私自身を含む経済学者の多くが、懐疑的なままだった。

当初加盟した11カ国が"最適な通貨区画" を構成したのは明白だとはとても言えなかった。単一通貨統合は、生産性の高いドイツとやや効率の劣る他の加盟国との根本的な格差を、減少させるというよりむしろ広げることになるだろう。

しかし、経済通貨統合の仕組みにおける最悪の欠点は、我々が訴えたのは、加盟各国の財政政策を全く統一しないままでヨーロッパ各国の通貨を統合したことだった。確かに、財政赤字額が国内総生産の3%を、国債残高が60%を下回っていなければ加盟できないと明確に記された "収斂基準" はあったのだが、これらのことが、安定・成長協定に固定された財政規則になったときでさえ、強制力がないものだった。

欧州通貨統合の立案は人間の制度に関する重要な真実を深淵に例証している。起きなければいいのにと思っていることのためにしっかり準備しなかったからといって、それが起きないとは限らない。それが、イギリスがこの単一通貨制度に加盟しないと決めた理由の1つである。1998年に流出したイングランド銀行の極秘書類が推測していたのは、ある国("I国"とだけ言っておこう)が、もし、許容されていた以上の財政赤字を抱えていたとしたらどうなるかだった。イングランド銀行が警戒したその結果は、とてつもない混乱だ。

何故?何故ならば、新設された欧州中央銀行は、そこまで巨額の財政赤字をかかえた国を、直接政府に融資することによって救済することを禁止されていたからだ。さらに一方で、I 国が通貨統合から離脱する方法がないのだ。この硬直性が、ハーバード大学の経済学者マーティン・フィールドシュテイン氏が、単一通貨制はヨーロッパに調和ではなく対立をもたらすと予想した理由の1つであった。

G国の場合

ギリシャが2001年1月1日に12番目の欧州通貨統合加盟国になってからほぼ9年に渡って、カッサンドラの予言は間違っていたように思われていた。ユーロは順調な成功を遂げていた。長期金利は収束した。事実、財政規則は強制力がなかった―いかにも、ユーロを立ち上げた1999年にはどの加盟国も収斂基準を満たしてはいなかった―しかし、これまでは好調にきていた。財政赤字は縮小した。それに、望まれたほどのインフレ率や経済活動の収斂はなかったのだが、懸念する材料はほとんどなかったように思われた。ヨーロッパ諸国だけでなく、世界中がユーロを支持した。1999年から2003年の間は、世界中の国際銀行がドル立てを上回る額の債権をユーロ立てで発行した。加盟しなかった国は、バスに乗り損ねたというよりもむしろ豪華な馬車を逃したのではないかと思い始めていた。

そして、2009年10月、新たに選出されたギリシャ政府はが実情を告白したのだ。ギリシャの財政赤字は、旧政府が発表していた国民総生産の6%ではなく、12.7%ととてつもなく大きく、これは2009年初頭、欧州委員会に約束していた3.7%の3倍を上回る額だった。さらに、欧州中央銀行が、ギリシャ政府への緊急融資を経由して、政府負債額の3分の1を上回る額を、ギリシャの銀行に間接的に資金提供していたことが判明した。("救済してはいけない" 規則の反証)この報道がきっかけとなって、ユーロ懐疑論者たちがつねに恐れていたことが連鎖的に起こり始めた。金融機関は、つねに、ドイツ国債と比較して高い利子をギリシャ国債に課していた、ユーロ全盛期にさえも、しかしその調達運用金利差は突如として1%から5%に膨れ上がり、やがて10%に達した。ギリシャは財政的な死のスパイラルに陥った、つまり、金利引き上げが債務処理の経費を嵩ませ、ギリシャの財政赤字を悪化させたのだ(現在は13.6%まで増加している)。自暴自棄になって、ギリシャは欧州の同盟国に援助を求め始めた。その救済額は1月のうちは比較的高額ではなかったが、ドイツ政府は躊躇した。世界規模の金融危機とドイツ国内における景気後退、それから地方選挙が迫っている時期に、ドイツの有権者は、国家の会計額を勝手に書きかえていたような外国を救済する気分になれなかった。しかし、ドイツが躊躇している間に、ギリシャ救済のための費用はどんどん高額になってしまった。

最終的に、4月末にある対策が打ち出され、それによってギリシャは1億1,000万ユーロを受け取った、そのうち3,000万ユーロは国際通貨基金から提供され、残りはユーロ圏諸国から提供された。条件として、ギリシャ政府は、厳重な財政節約を約束した、支出削減と増税を組み合わせて、2014年までには財政赤字を3%縮小することを宣言した。

問題は解決しただろうか?残念なことに解決はしていない。今回のギリシャの悲劇はまだ幾つか幕が残っている。

まず、ギリシャの約束不履行があるだろう。根深い景気後退の時期に、ギリシャ政府がそれほど深刻に財政を引き締められるとは単に信じられないということではない。たとえ全てが計画通りにいったとしても、負債額は国民総生産の150%まで上昇するだろう、国民総生産の7.5%という破滅的な額を利子返済に充てなければならないのだから。ギリシャには問題解決のための明白な政治的結論がない。予想すると、ゲオルギオス・パパンドレウは失墜し、その後継者が、ギリシャ国債の債権者たちに30%の減額を強いるだろう。

次の場面はより劇的になるだろう。生国ギリシャの財政危機ががそこまで深刻になった原因が悪影響を及ぼすということ、つまり、もしこういったことがギリシャ国債に起こりうるのならば、他の公債にも起こりうるだろうという、投資者のなかにある現実感である。他にもユーロ圏の2カ国(イタリアとベルギー)が、膨れ上がった負債を抱えており、また他の2カ国(ポルトガルとスペイン)がギリシャ同様、外国からの融資に過度に依存していることが、資料の解析によって明らかにされた。

先週、格付け評価会社ムーディーズはポルトガルの長期国債をAa2に格下げの可能性があるとして再検討した。さらに、スペインが5年国債を利回り3.5%で販売した時には、―その2か月前には利回り2.8%だったのと比較して―マドリッドがギリシャを上回る救済を必要としているのではないかという噂が渦巻いた。

これもまた、ギリシャ経済危機がヨーロッパじゅうの経済にウィルスのように蔓延する唯一の道ではない。欧州諸国の貸借対照表は危険な国債で一杯になっており、ギリシャの銀行はリーマン・ブラザーズの領域に向かっている。ブルガリアやルーマニアのようにギシリャの銀行に融資を頼っている近隣諸国にとってこれは信用収縮を意味する。

さらに由々しいことに、他の欧州の銀行へのギリシャの負債が露呈した、国際決済銀行によれば、その総額は1億9,300万ドルである。









Paris' Plan to Kick Cars Off Its Riverbanks



By Jeffrey T. Iverson

近頃パリの日曜日は、ベビーカーを押した夫婦、ローラーブレーダー、自転車に乗った人たちがセーヌ川の左岸を行き交い、普段にはない静かな広がりを楽しんでいた。普段この道は、勢いよく進む何千もの車であふれているが、週に一度、静寂のオアシスに変貌を遂げる。パリの川岸を車両通行止めにしたときに起こる状況について調査するため市役所が行っている実験の一部のためである。今のところ、実験は過去数年間継続しているが、、評判が良いと立証されている。Delphine Damouretteさんは31歳、モンマルトルの住民で、彼女が住んでいる石畳式の住宅街はローラーブレード地獄であるが、車が通らない日曜日は、彼女が最も好きな町の空気を感じることができると言う。夏休み中、パリはゆるやかになり、車は姿を消し、歩行者はセーヌ川を取り戻す。「もし、パリが一年中ずっとこうだったら素敵だわ。」と彼女は言う。まもなく、彼女はその願いを叶えるかもかもしれない。

もしベルトランドラノエ市長が自分の考えを押し通していたら、2012年までにオルセイ美術館とアルマ橋間の左岸にある高速道路1.2マイルは永久に車両通行止めになり、一方、右岸の交通速度は緩やかになるだろう。両岸とも首都高速を小さな都市の大通りに変えるという目標を持っている。およそ500万ドル計画―別名“セーヌ川両岸の奪還”は、カフェ、スポーツ施設、水上レストランなどを併設した川岸35エーカーの開発を提唱している。「つまり、汚染と自動車交通量を減少し、パリの人たちに幸せな機会を増やすことなのだ。」とドラノエ氏は4月14日の企画発表会で発言した。「もし我々がこのことを続けることが成功すれば、私は計画がパリを大いに変化させると信じている。」

しかし、パリの人たちはパリ中の自動車支配の終結を目指す、極端ではたまたそうでもない政策の下で既に数年過ごしている。彼らは別の改善可能な輸送計画に対応する心積もりをしているか?環境問題対策副市長デニスボーパンは、2001~2008年まで交通政策担当責任者として、路面電車、バス車両、自転車用通路、公共レンタル自転車事業ベリブ、その他各計画を開始した。その間に浴びた猛烈な批判や緑のクメールというあだを切り抜けてこれら全ての計画を始めたのだ。そんな彼は、何がきても大丈夫だと考えている。「もし、我々が今日セーヌ川両岸の再開発について議論できたら、我々は始めに日曜日を車両禁止にするので、住民が持続可能で、喜んで、積極的になる考え方に慣れてもらうだろう。」と彼はTIME誌に話す。「考え方が変わり、そして野望は、都市がどこかに向かっていくために、変化し、より環境にやさしい野望に成長している。」

Monday, May 17, 2010

Twilight Zone: Why Do Babies Have the Same Name ?

トワイライトゾーン: 子供に同じ名前をつける理由
by Claire Suddath
http://www.time.com/time/nation/article/0,8599,1988092,00.html
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
子供に、あの吸血鬼にちなんだ名前を付けるのが流行っている。社会保障庁が発表した2009年版最も人気のある子供の名前リストによると、一番人気はイザベラとジェイコブだった。偶然なことに、どちらもトワイライトシリーズの主要な登場人物と同じ名前である。 実際、イザベラは1990年代以降着実に人気が上がってきてるし、ジェイコブは10年連続で一番人気である(つまり2005年に発表されたトワイライトよりも前からである)。しかしながら、人気上昇中の名前のうち1つは、ほぼ確実に、ステファニー・メイヤー作品である吸血鬼のラブストーリーから影響を受けている:カレンという名だ。このメイヤー作品に登場するセクシーな吸血鬼の苗字は、1年で297も順位を上げて、現在は、男の赤ちゃんのファーストネームとして485番目に人気のある名前になっている。

カレン(Cullen)という名前にはまた別の傾向も見受けられる:enという音で終わる2音節の男の子の名前である。エイデン(Aiden) もその例の一つである(これは12番目に人気のある名前)。8位のジェイデン(Jayden)や、17位のローガン(Logan)、24位のネイサン(Nathan)、44位のケヴィン(Kevin)、46位のジャスティン(Justin)、それから、これまで聞いたこともなかったような名前、ブライデン(Brayden)。この名前は47番目に人気がある、つまり、20年後には何人ものブライデンに会うことになりそうだということだ。同じように、女の子に人気の名前50位までのうちおよそ半分がa の文字で終わっている、イザベラ(Isabella) のように。どうしてこういったことが起こるのだろう?何故、親たちは赤ちゃんにみんな同じような名前をつけるのだろう?

簡単に言ってしまうと、人はまわりの人の真似をするものだからだ、変わったことをしたがる人はそういないからだ。まるでファッションや音楽の流行が変化していくように、子供の名前の流行も変わるのだ。1980年代に生まれた女の子たちは、y やie で終わる、元気で溌剌とした名前を付けられた―例えば、ティファニー(Tiffany)、やアシュリー(Ashley)、ケイティ(Katie)、ブリタニー(Brittany)。社会学者やジャーナリストはしばしば子供の名前に関する理論を提案するのだが、大概の場合、根拠のない憶測以上のものは打ち立てられないでいる。CBSニュースはかつて、2002年にエマ(Emma)と言う名前が人気があったのは、フレンズというドラマの中でジェニファー・アニストン演じる登場人物が子供に付けたからだと言いきったことがある。ところが、エマという名前は、1980年代から人気が出てきていて、レイチェルとロスがドラマの中で情熱的な夜を過ごす前に、すでに丸々3年間20位以内に入っていたのだ。つまり、フレンズの影響はほとんどなかったと言える。

もう少し掘り下げて考えると、赤ちゃんの名前の流行は少し複雑なものになる。ハーバード大学のローランド・フライヤーしとシカゴ大学のスティーヴン・ラヴィット氏によれば、1970年代までは、黒人も白人も、子供に同じような名前を付けていたが、そのあたりから、病院ではいわゆる黒人っぽい名前がよく見られるようになっていた、例えば、エボニー(Ebony)、シャニース(Shanice)、ダーナル(Darnell)などだ。人種間における名前の住み分けは現在非常に強く、フライヤーしとラヴィット氏が言うには、カリフォルニアで生まれた全てのアフリカ系アメリカ人のうち40%が、どの白人の出生証明書にも記載されていないような名前を与えられている。(研究を簡単にするために、カリフォルニア限定の調査になっている)

地理的要素もまた一因になっているかもしれない。2009年、ヘブライ大学の研究者であるジェイコブ・ゴールデンバーグ氏とモッシュ・レヴィ氏はアメリカ国内でも週によって人気のある名前が違っていることに着目した。親達が住んでいる町や都市や州など、地域で人気のある名前を、子供に付ける傾向があることを発見したのだ。社会保障庁の名前データベースから判断すると、まさにその通りのようだ。イザベラと言う名前は、まず最初にコロラドとロードアイランドで上位5位に入った。コロラドから、カリフォルニア、ネバダ、アリゾナにまで流行が広がった。ロードアイランドからは、マサチューセッツ、ニューヨーク、ニュージャージーに人気の波が押し寄せた。そして今、アメリカ全土で一番人気の名前になった。

しかしなぜ、コロラドとロードアイランドでその人気に火がついたのだろう?それに、1991年にイザベラという名前が、698位から、たった一年の間に210上昇して、突然に、それでもまだあまり一般的でない488位になったのは何があったからなのだろう?残念なことに、実際のところは誰にもわからない。結局は、子供の名前というのは、名付け親の気まぐれの産物なのだ。親達は、世界中のイザベラやエマやマディソンたちに責任があるのだ、独創的な綴りは言うまでもない(Keighty instead of Katie, Danyale instead of Danielle) こういった綴りは、子供達を一生煩わせるに違いない。