Tuesday, June 2, 2009

Thursday, Apr. 09, 2009

Why South Africa's Over the Rainbow
http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1890334-2,00.html
by ALEX PERRY / EAST LONDON

何故南アフリカは虹の彼方に?




  1月中旬のある温かい夏の日、南アフリカの政権を握る政党アフリカ国民党は、国内の南海岸にある東ロンドンで、再選挙に向けてキャンペーンを立ち上げるべく集会を開いた。市のスタジアム内の、ステージと、黄色と黒と緑のANC色を身に付けた支持者の海に挟まれた囲いの中に党のVIPたちが立った。多くの男たちはグッチを、女はプラダを身につけていたが、その中に60人くらいの人たちが混じっていた、男も女も、軍服を身に付けた彼らの迷彩柄の帽子は、彼らが解散したANCのゲリラ部隊であるUmkhonto we Sizwe ("国家の槍")の兵役経験者であることを明らかにしていた。盛装した若い男性の野球帽は、彼がポルシェ世界ロードショーのファンだったことを表明していたが、彼が話していた相手が来ていた赤いTシャツは:「さあ若者たちよ、南アフリカの若いコミュニストリーグに参加しよう、残酷なシステムである資本主義をぶち壊して共産主義を広めよう」と表明していた。矛盾は、駐車場でも見られた、そこでは、レンジローバーやBMW、そしてメルセデスベンツに、「福祉社会の建設」を約束する巨大なANCステッカーが貼りつけられていた。

  ANCは4月22日に、ひき続き4期目の、南アフリカの議会と大統領選挙に勝つと期待していた。けれども、1994年のアパルトヘイト終了とともに政権を握って以来、初めて、その結果は保証されていない、そしてどんな判断からも - 人気、会員数、道徳的権威 - この政党は下り坂になっている。リーダーたちは、汚職と不手際を含む一連のスキャンダルに巻き込まれている。政府として、激しい暴力事件や世界最大のHIV/AIDSの蔓延を止めることに失敗していた。エリートと深い関係のある億万長者を作り出してきた経済的好景気を統括してきたが、数え切れないほどの国民の生活が変わらないことを放っておいている。政党としては、警察や官僚を政府化していると、そして、そのために戦ってきた、本質的な民主主義を軽蔑ししていると非難されている。

  政党は11月に分裂した、その時に、不満を持った党員が離脱グループを立ち上げ、それは人民の議会(COPE)である、そして、かつての仲間がもどってきた。ノーベル賞受賞者である大主教デズモンド・トゥトゥはANCに投票することを拒否する、奴らはネルソン・マンデラの偉業を裏切ったと言って。ヘレン・スズマン、卓越した白人のアンチアパルトヘイト運動家はそのパフォーマンスを「桁外れの期待外れ」と呼んだ、彼女が元旦に亡くなる前に。

  多くのことにおいて、ANCの新しいリーダーである、ヤコブ・ズーマは、党の崩壊を具体化する。2007年終盤に前任者であるタボ・ムベキとのひどい戦い ー このことが党を分断した ー の末、リーダーシップを勝ち取り、COPEに導いた。2005年に彼のビジネスアドバイザーであるシャビール・シャリクは、ズーマに賄賂を求めたとして15年の判決を受けた、そして、何年もの間、その賄賂や恐喝、詐欺、マネーロンダリング、そして脱税などの起訴に関連することに直面してきた。先月、シャリクは、高血圧症を理由に、早期釈放を保障された。4月6日、ズーマを法廷に召喚しようとし続けて3年後、検察局はこの案件を棄却した。検察官は、ズーマ政府がまもなく始まることによる圧力に屈したことを否定した、一方で主張するのだ - 何年もの間否定した後で - それらのの案件は、前のムベキ政権による圧力によって、取り返しがつかないほどの妥協をしたのだと。

  ズーマの支持者は主張する、彼はただ南アフリカの自由の最初の年に影に放っておかれたものたちのためだけに戦う男なのだと。しかし、人種の和解のためのズーマの公約に関してはいくつか疑問がある - 有名なのは、未だに人種差別の暴力に苦しんでいる国では、彼はズールーの戦いを讃える歌を選ぶ、「私のマシンガンを持ってきて」テーマソングとして - そして彼の能力と判断に関しても疑問がある。彼は、政策に関する質問に答えることを拒絶した、ぐずぐずとANCの幹部委員会にかこつけて。彼の口の重さは賢明かもしれない:彼が公言してきた意見は驚くべきものだった。2006年のレイプ裁判で、判決は無罪放免だったのだが、そこで彼は、シャワーがHIVの伝染を防ぎうると思っていたと暴露した。支持者たちの中で、それら全てのことは彼のアピールにただ付け加えられる:ズーマには、非白人居住指定地区に大衆の支持者がいる、そこでは彼の土臭い感じがムベキのエリート主義とよく対比される。

新たな苦闘
  ANCの衰退は、かつて占めていたモラルの高さを考えると、ますますもって劇的だ。アパルトヘイトの戦いだった数年間、その使命は明瞭で、その正義は難攻不落であった。ANCメンバーは政府に抑圧された自由戦士であり、彼らの人種差別主義は、ヨーロッパ帝国主義の最悪を思い出させた。マンデラ、27年間投獄されていてただ迫害者たちを許すために表に出てきた彼は、この世の天使であった。そこには曖昧さはなかった。ANCとマンデラが共に一方にいて、アパルトヘイトが別の側にいて、南アフリカは言葉通り黒と白の問題だった。

  この初期の数年の間、トゥトゥが「虹の国」と命名した国の、建国の父としてのマンデラの統括によって、多様性、いってみれば、多様性はもはや分裂の原因ではなくなった、多様性は強さ、希望、まして美しさのうちの何かとなった。マンデラの新たな未来像の採用が、ANCの庶民の多くが古い白黒の世界観を削除しようと奮闘していた事実を隠した。ANCは、過去もそして今も、かつて力を持った全ての平等化運動が直面するのと同じジレンマに立ち向かっている。単にこう言おう:よい革命家はしばしば悪い民主主義者をつくる。革命家たちは、密かに計画し、要請に答え、彼らを導くことによってそして人民に奉仕する。民主主義者たちは、公に議論しそして、人々の意見を聞くことによって彼らに奉仕する。革命は決然とし、ロマンティックで、独りよがりである。民主主義は融通がきき、しばしば退屈で不信に満ちている。

  歴史は、スウィッチを作り損ねた革命家でいっぱいだ。殆どは、人民による統治を約束したが、永続する革命状態を甘受した - なかには、ロバート・ムガベやヒューゴ・チャベスのような、戦うべき根拠のない外国の敵を魔法のように出すものもいた。(それらのランクに、今、影響力のあるANC青年団のリーダーを付け加える、ジュリアス・マレマ、彼は、東ロンドンの集会で、若者は「この国をイギリスに、植民地開拓者の手に、差し出した奴らを決して許さない」だろうと語った)それらの人々にとって、この終わりなき戦いは独裁政権時代に普通に経験したものだ。あまりにも多くの解放運動のリーダーが、別の革命家が力を握った時にのみ政権を離れる。

  これは、アフリカでとりわけはっきりと公言されてきたひとつの傾向である、独立後の歴史はBig Menによって支配されてきた、モトゥブ・セセ・セコのような独裁者、32年間に渡るザイールの統治者、彼はこの国を、そこを「解放」したことへの個人的な報酬として手に入れた。しかし、それはまた世界中で見られるのだ。ラテンアメリカや中国や東南アジアでの左翼の反乱の波は、同じような腐った全体主義の遺産を放っておいた。インドでは、ガンジーファミリーが60年のあいだ、その民主主義からひと際抜きんでていた。中東では、1993年にイスラエルとの歴史的平和協定をまとめるのを助けた後で、ヤッサー・アラファトのファタハー(テロ組織)運動が急速に権威主義と堕落へと転落した。若いころ、ヘニング・メルバ-、彼はスウェーデンのウプサラにあるDag Hammarskjöld財団の理事長なのだが、彼はナミビアで白人支配に反対して戦った。彼は、仲間の解放運動家が一旦戦争に勝つと国民を攻撃し始めるのを見て、革命と民主主義は”相容れない”のだと学んだ、という。

  自分たちの戦争に勝ったとき、ANCのそれは、革命のない革命的運動だとわかった。アパルトヘイト政府がつくりだした変わらない不平等を正さなければならなかっただけでなく、国力の道具を利用してそうしなければならなかった - 政府、法律、警察 - そのための戦いに何年も費やした。一つの方法、それは、現在のANCに現れているアイデンティティーの危機 - blingと迷彩の混合は東ロンドンで見られたプラダ労働者階級によって纏われた。さらに深刻なレベルでは、ビジネスにおいて、市民社会と報道は南アフリカ政府に対してはるかに大きな抑制を供給できる、彼らが、ジンバブエでやるよりも、党の批評家たちは同様の根本的な悪い力が働いているのを知る。
 
  アンドリュー・フェインシュテインは2001年に、兵器に関する50億の賄賂についての調査を受けてがっかりさせる党に抗議して辞職した、元ANC MP(ズーマが利益を得ていたと言われていたのと同じ事件)、彼は言う、ここ数年間は「アフリカのBig Manの常套句にしみ込んでいる、アフリカの最も誇れる民主主義」が見られたと。レイモンド・スットナー、元ANC運動家で1975年から1983年まで監禁されていた彼は、かつて政権に就いた党がどのように“野心と貪欲”を“非道徳的で犯罪的な無法地帯”に導いたかを語る。COPE創始者であるモジョア“テロリスト”レコタはTIME詩に語る:「自由のために戦うためには、解放運動家の組織が必要である。しかし、南アフリカは今動いている。我々には、以前の活動家の忠誠心に報いるのではなくて、民衆に奉仕できる政党が必要だ。」

  平等に言って、ANCは、自己強化と独裁主義に陥った革命運動の最悪の例からは程遠い。しかし、南アフリカは、大陸最大の経済で当然リーダーなので、ANCは模範となるものであり、南アフリカの国境を越えての影響力を持つ。それはいつもいいことばかりではない。ムベキ、彼は1999年に大統領としてマンデラの後継者となったのだが、彼は、ANCに政府における”民主主義的革命を”採用するように命じることによって、革命と民主主義の間の道を築こうとした。この取り組みは、一貫性の無さを証明した。ムベキは民主党員として、自由経済を認可し、印象的な成長を監視し、世論を高める平和交渉者としてアフリカ中から喝采を浴びた。ムベキは革命家として、自国のAIDS蔓延を西洋の陰謀とみなし、そのスタンスで治療をやめさせ、2000年から2005年の間に330,000の南アフリカ人の命を犠牲にした、これはボストンの公共健康のハーバードスクールによる11月の報告による。


  海外では、前の大統領は仲間の解放運動家や隣国のムガベを抑えられなかった、ジンバブエのリーダーであるムガベが警邏隊をけしかけた時に、国の経済を鈍らせ、何万人もの難民をつくりだした。国連では、南アメリカは、世界中のよくない地域のいくつかを一貫して擁護してきた - ビルマやスーダンをジンバブエと同様に - 懲戒的な世界の評価に反対して、その国の政府が自国民を扱うやり方よりも、西洋からのひどい扱いについてを、明らかにより心配した。フェインシュタインが言うように、ANCは「アフリカの中の、民主主義と進歩を築こうとしている他の国に、いいサインを送ったことがない」。



国内の問題
  もし南アフリカに、ANCが、その民主主義と進展を築く努力に焦点を当てたかもしれない地域があれば、それは、東ロンドンの近くの東ケープである。車でその町を出て1時間も行けば、急な坂に向かって下り坂に入る、樹木に囲まれた深い峡谷がその地面を蛇行するケイ河に沿っている、白人が納める南アフリカと、大草原のうねりの古い境界線でそれは、アパルトヘイトの権威たちがつくりだした黒人の“ホームランド”トランスケイである、“ケイを渡る”という意味である。「アパルトヘイト時代」、トランスケイは貧困の地だった:何千もの泥の壁、草の屋根の粗末な小屋、そこで人々は、水道も電気もそして道もなしで生活していた。アパルトヘイトの支配者たちは、自らをこの貧困に対するどんな責めからも解放した、黒人はホームランドの中でやりたいことを何でもできる自由の身だと主張することによって - しかしそれは望みがないあるいは不可能だったと判明したのだ。それは彼らの反対者にとって信じられる主張ではなかった。東ケープの貧困はマンデラとムベキのなかの反乱の炎に火をつけた、2人ともそのムササの不潔で貧しいトランスケイ市の近くで生まれ育ち、キング・ウィリアムズタウンのそばで成長した。今でも、ANCとCOPEの両方は東ケープは彼らのハートタウンだと訴えている。

  ANCがその地区の改善を殆どやらなかったために、そこは孤立した。現在、東ケープのかなりの部分は、水道のない泥の壁や草の屋根の貧しい小屋によって象徴される、そこでは、少年は馬に乗り、少女は赤ん坊を背中に背負い、家族は、牛、羊、ヤギ、鶏、そしてトウモロコシで生計を立てている。新しい電線が殆どの家に行きわたり - しかし供給は一定しない。殆どの道は未舗装のままである。マササでは、人口の74%の稼ぎは月に150ドルに満たず、43%は失業している、これは南アメリカ医療ジャーナルの2008年6月の報告による。2007年、東ロンドンのデイリー・ディスパッチ紙が明らかにしたのは、この市のフレレ病院での質の悪い妊婦治療は毎年200人前後の死産をもたらしていた - そしてその死骸は貧困者用の共同墓地に埋められていた。マササ・ジェネラル病院の視察はその状態は質が悪いと示唆する: 朽ちた屋根のペンキは剥げているし、その床は不潔で、救急病棟では、老女が車いすで前かがみに座っている、尿にまみれて。

  そして暴力がある。マササの親たちは、強盗やもっと悪いことを恐れて、自分たちの子供を学校まで歩かせられない。南アフリカ医療ジャーナルは、マササの殺人の割合が、2005年10万人あたり133人であったことに着目した、これはコロンビアの殺人率の2倍、そして南アフリカの平均の3倍に近い。町のメイン通り、ネルソン・マンデラ通りのことだが、その壁や街頭は、次のような勧誘のポスターがベタベタ貼られている“一日で、安全な中絶を”とか“迅速で安全な中絶、3時間”や、それぞれに“100%保障、2時間”と書いてある外科手術の無料チケットまである。ノブ・シポカ、彼はマササ子供虐待支援センターの所長であるが、彼女は言う、子供のレイプの発生に関する正確なデータはないが、彼女は、医師がそれは尋常でなく高いと示唆したという実体験に基づく証拠によってセンターを立ち上げた。「これは失業と貧困の兆候となる」と、彼女は言う「ここは幸福な街ではないのです」1時間ほど離れたムヴェゾの村では、そこでマンデラが90年前、狭い吹きっさらしの山脚の小さな貧しい集落に生まれたのだが、住民人は、かれらのANCに対する幻滅について率直に語るひとたちだ。「私の生活はアパルトヘイト時代の方がよかったよ」、とヴィンセント・ンツワイ氏は語る、53歳の彼はヨハネスブルグで、白人が支配していた間、安定して職を得ていたが、その後は断続的にしか職を得られなくなった。「自由とはただの言葉だとわかった。本当の自由、本物の力、それは金から来る - そして私は金を全く得ていなかった。」

  南アフリカには何千人ものムヴェゾ住民がいる、何百人ものマササ住民と何百人もの大都市の黒人居住区民もいる。2006年、南アフリカ人種関係研究所が予測したところによると、420万人の南アフリカ人が、2005年は1日1ドルで生活していた、1996年の190万人より増加している。2009年の選挙公約では、ANCでさえ、不平等は増えてきたと認めている。「僅かの裕福なひとがその生活を劇的に変えてきた」とスズマンは死ぬ前にTIME誌に語った。「しかし膨大なな大多数がその陰に取り残されたままだ。そして、我々が経験した、配達不可能と暴力と抗議の間には明確なつながりがある。人々はうんざりしていて、そしてそれはもっともだ。」

  暴力については、2010年のサッカーワールドカップが近づいてきたために、国際的な関心を高めている。しかし、まず、選挙がある、そしてその取り組みとして、南アフリカ人は、ANCが、その党がそのために作られなかったとして、過去の公約を全部果たさなかったという疑いについて考えている。ANCを強力な過半数が認めることによって - 前回の一般選挙で66%の得票で勝った - 義務を果たす必要性を回避する:この国の生活基準を改善すると見せかけることに焦点を当てる代わりに、ANC自信を改善することに照準をしぼる。それは築かれないまま終わった、そしてズーマの人気取りのアピールにも関わらず、いま罰を受けるだろう。「かれらは、いかさま師だ」ラッキー・マクツははっきり言う、33歳の、ムササの失業した建設現場監督で、セント・ジョーンズ・アポストリック・フェイス協会でボランティアをしている。「選挙に来てくれ、ANCはよく見た方がいい。奴らはショックを受けるよ」

  不信 - そしてそれは投票箱に現れる可能性がある - は、民主主義の基礎である。もしANCが投票日に落胆すれば、単に過半数を割るだけでなく、その前の革命グループから教訓を得るだろう。2006年のパレスチナ選挙における、ファタハーの、ハマスの失脚は軍を活気づけたことはもちろん、しかし、ハマスのよりよい社会貢献への所信表明を届けた。ムガベの、権力を握るための努力は、彼に永遠の支配を許すように憲法を改革することであり、それは、民主主義的変化を望む反対運動の組織形成に拍車をかけた。

  投票箱の衝撃は、ANCが人々を救うためにそこにいることを思い出させる多くの必要とされるものを供給するかもしれない、そして、他のみちではない。付け加えると、ANCの弱さと反対勢力の強さは、今までアフリカのもっとも誇るべき民主主義を蝕んできた1政党支配を正すのを助けるかもしれない。レコタは言う、今回の選挙は、南アフリカの民主主義を“育てる”かもしれないと。

  南アフリカは、その最も偉大なリーダーでさえ、革命から民主主義への返還に苦労したのだと知ることによって慰めを得ることができる。政権において、マンデラは、フィデル・カストロやムアマール・ガダフィのような独裁者たちへの称賛を表明し、1997年の彼のANC党大会での退任演説で、南アフリカの暴力犯罪は、前アパルトヘイトの白人によって「国を始末に負えないように変えるために」企まれた“革命の反動”の一部だったと訴えた。しかし、引退にあたって、マンデラは、彼の心の中に民主主義者を再発見した、独裁政治に対して反対意見を述べ - 彼自身の党ででさえも。2007年3月のアデレイド・タンボの告別式で、彼女は彼の長年の親友のオリバー・タンボの妻であるが、この老人は集まった党のリーダーたちに説教した。ANCのリーダーは“我々のこの国を、思いやりのある寛大な社会”にするべきである“そのために偉大なアフリカ人は命の全てを捧げ、そのために多くの犠牲をはらったのだ”と彼は語った。

  マンデラの後継者はうまくやるかもしれない、彼の中にいて、彼を最も素晴らしくさせたのは、革命家ではなく民主主義者であったことを思い出して。


1 comment:

Yuko said...

Hi Thanks to your translation, I realized that the title linked to "the Wizard of OZ".
It's too sad to know the fact that the country which dreamed of itself is still over the rainbow after Mandela did great job.