Monday, April 19, 2010

Hu's Visit:Finding a Way Forward on U.S.-China Relations


By Joshua Cooper Ramo

http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1978640,00.html

昨年の秋のある日の午後、北京はいつになく湿気の多い日だったが、町の中心部では、デザイナーや兵士、共産党員らが中華人民共和国建国60周年記念式典の準備を完結したという噂が広まっていた。式典は中国が唯一10億人の視聴者に届けられる番組の一つとして全国的に放送される。共産党は、Eternal Peace Street沿いに飛ばす戦闘機飛行隊とミサイルのパレードと、10年に1度の儀式を計画していた。その儀式とは、国家主席が人民服を着て、1950年代型リムジンのサンルーフの上に立ち、紫禁城の周辺を車で周るというものである。その光景は西洋人にとっては幻想的に見える。それはまるでアメリカ大統領が1776年の冬から10年ごとに催される記念祭で三角帽をかぶってデラウェア川を渡るような光景である。しかし、中国人はそのような象徴が重要なのだと考えている。改革がはっきりしない状況で、中国人ははっきりと境界線を引いたのだ。我々が来た方向(過去)を見るのだ。そして我々が向かっている方向(未来)を見据えるのだ。

催しの一つの要素である、夜間の花火打ち上げに取り組んでいる共産党員らは、デザイナーに特別な依頼をした。中国は、党員の悩みどころなのだが、多くのほかの国のようだ。そのような国では、健全な愛国心と国家主義の境界線は、そこに踏み入れるまでわからない。党員が軍事的な刺激を受けて一日を過ごした後、花火打ち上げの夜を過ごすのはあまりに激しすぎるといらいらした。そこで、党員らは頼んだのだった。大きくて、美しく、静かな花火にアレンジできませんか?

静かな花火。中国生活での魅惑と危険について多くを物語るには、一種の要望であった。中国は矛盾で成り立っている国家だ。中国には現在、記録的な経済成長を生み出す考え方と、一方では壮大な環境保全都市計画という市場社会主義の考え方がある。その考え方はまるでヘルシーなチーズバーガーのようだ。中国は、改革時期にうまくやるエリート党員が今、与党である共産党についてかつてないほど大げさに不満を言うような国家なのである。いつもなら魂、野心、奇跡があるのだが、過去と未来の境界線を引き伸ばしている、それが今日の中国なのである。中国はもっと爆発的な変化を望んでいる、まぁ、本物の爆発は起こさずに。

中国とワシントンの間にある悩ましい緊張が続いた過去数ヶ月が我々に思い出させたように、中国がもつ複雑なまた別の野望のため、この全てが重要な意味を持つ。別の野望とは、国際的な仕組みを崩壊させずに中国の地位を向上させることである。そんなこと起こりそうにない。歴史上ほとんどの国家がそのような偉業を成し遂げられなかった。そして、偉業を今成し遂げるために、危険と意外性のある現代で、財政市場から国家保全までのあらゆることが爆発する恐れをなして詰め込まれているような国家がどこにあるのか。そのような冒険が成功につながる多くのチャンスをはらんでいるとは想像し難い。

だからこそ、尋ねる価値がある。実際、バラクオバマは、来たる核安全サミット開催中、中国の胡錦濤国家主席の隣に座っているとき、ワシントンで誰を見ているのか。友好国?敵国?中国がそんなに早急に変化しているという事実を我々は実はまだ知らない。オバマが本当に注目していることは、はるかに重要なことである。つまり、これからの50年間を世界勢力と定める関係を再建するために、力強く、創造的な政治的手腕を行使する機会を狙っている。国際政治の問題は、首尾一貫した中国の戦略なくして解決されない。だから、さらに面白い論点は、胡錦濤の思惑ではなく、オバマの意思であるということだ。オバマは自分が扱っているような人間の明瞭な感覚を持っているか。そして我々の関係性の中にある緊張情勢をどのように形成しているのか。オバマは、できるだけ中国と真の友好関係を築くための権力の使い方をわかっているのか。それとも壊滅的な膠着状態を招いてしまうのか。

Saturday, April 17, 2010

The map that changed the world

世界を変えた地図
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/magazine/8328878.stm

半世紀前に描かれて間もなく忘れ去られていた一枚の地図が、現在我々が知っているのと同じ世界を見せてくれ、またアメリカという国名をつけるのに一役買った。しかし、トビー・レスターが発見したように、世界最強国アメリカの国名は語呂合わせでもあった。

ほぼ500年前の1507年に、マーティン・ヴァルドゼーミュラーとマティアス・リングマンという、東フランスの山岳地方に拠点のある2人の無名なドイツ人研究者たちが、地理学的考察の歴史において、いくつかの最大の飛躍のうちの1つをおこした、実際にはより広義な考察の歴史を変えのた。

「宇宙構造論への誘い」と銘打ったもう1つのの平凡な論文の終わりのほうで、ヴァルトゼーミュラーとリングマンの2人は、世界が古代より知られていたように、アジア、アフリカ、ヨーロッパの3大陸のみで成り立っているのではなかったという驚くべき情報を読者に向けて発信した。これまで発見されていなかった第4の大陸が、イタリア商人であるアメリゴ・ヴェスプッチによって最近発見された、そこでヴェスプッチの功績をたたえて、新大陸をアメリカと命名することにしたと、宣言したのだ。

しかしそれは始まりでしかなかった。ヴァルドゼーミュラーとリングマンが「宇宙構造論への誘い」を執筆したの、実は、彼らの代表作である大きくて革命的な新世界地図への単なる手引書としてであった。この新世界地図こそ1507年のヴァルトゼーミュラー地図として今日知られているものだ。

このヴァルトゼーミュラー地図はかつて(そして今でも)素晴らしく目を見張るものである。コロンブスが最初の大西洋横断をはたした15年後に、横8フィート縦4と1/2フィートという並はずれた大きさのこの地図は、地球の構造について基本的な新しい知識ををヨーロッパの人々に浸透させた。

この地図は膨大にある史上初のものを意味した。アメリカにその名をつけたことに加えて、新大陸を独立した大陸として描いた最初の地図だった ― コロンブスやヴェスプッチや他の昔の探検家たちは、大陸はアジアの極東限までつながっていると終生主張したかもしれないが。

ヴァルトゼーミュラー地図は、探検家フェルディナンド・マゼランが後に太平洋と呼んだものを最初に示唆したものであるが、新世界発見の歴史標準によれば、ヨーロッパの人々が、この時より数年後までは、太平洋地域について知らなかったと考えるとはこれは奇妙な見解である。

世界は4大陸

ヴァルトザーミュラー地図はごく最近ポルトガル人が一周したアフリカ大陸の海岸線全域を表記した最初の記録書である。もしかすると最も重要なことは、経度360度全体を用いて世界地図を配置した最初の地図のうちの1つでもあったということだ。要するに、今日われわれが知っているのとほぼ同じ世界を描いた最初の記録書として、まさに現代の地図の母だったのだ。

1507年から数年のうちに、ヴァルトゼーミュラー地図の複写版が、中央ヨーロッパ中の大学に出回り始めた。大学で講義室に展示され、地理学者や旅行者のような人たちが議論したりして、この世界地図は一般の人たちに4大陸世界の考え方を浸透させた。

ヴァルトゼーミュラー自身は、後に、自身の地図が1,000枚印刷されるという記録を作ることになった、この数字は時代を考えると実に大したものである。しかし、急速なペースの地理学的発見によって、間もなくヴァルトゼーミュラーの地図は、より新しくより最新式の世界地図にとってかわられて忘れられてしまい、1570年までには人々の記憶からほぼ消え去ってしまっていた。

地図製作者アブラハム・オルテリウスが、その年(1570年)、地図製作者の先駆者たちについてとそれぞれの地図の総覧を出版した際に、ヴァルトゼーミュラーについて言及したが、この偉大な1507年の地図は取り上げていなかった。

残っていた最後の地図

幸運にも、複写が1枚残っていた。1515年から1517年の間のどこかで、ニュルンベルグの数学者ヨハネス・シェーナーがヴァルトザーミュラー地図の複写版を手に入れて特大の二つ折りのフォルダーに挟み込み、自身の参考図書にしていた。

それから数年の間、シェーナーは地図を詳しく調べたが、何十年かが過ぎてより新しい地図が手に入るようになると、シェーナー自身の興味は地理学から天文学へと移ってゆき、ヴァルトゼーミュラー地図を開いてみることもしだいに少なくなっていった。シェーナーはその地図を、1545年に死亡するまで何年ものあいだ開かなかっただろう。その最後に残ったヴァルトゼーミュラー地図の複写は、シェーナーのフォルダーの中で美しいまま保たれ、長いまどろみにつき始めていた―そしておよそ350年もの間再び目覚めることはなかったのだろう。歴史的に貴重なものが時としてそうであるように、その地図は偶然発見された。

1901年の夏、イエズス会の地理学教師であるジョセフ・フィッシャーが南ドイツにあるヴォルフエッグ城の書庫を調べていて偶然シェーナーのフォルダーを見つけ、すぐに何を見つけたのか気がついた。

数ヶ月間、彼の発見は世界を駆け巡った。「待望の地図発見」、と、ニューヨークタイムスのある見出しが1902年3月に報じた。「最古のものとして知られているアメリカという言葉の記録書がついに白日のもとに」と。

その地図は、それから100間ヴォルフエッグの所蔵品のままだった―2003年にアメリカ国会図書館が、1,000万ドルという大金をはたいてヴォルフエッグ城の所有者からその地図を手に入れたことを鳴り物入りで発表するまでは。

この金額はアメリカ国会図書館がその膨大な商品のなかのどれに支払ったよりも高額であった。自信満々に、記者会見の席でアメリカ国会図書館はこの地図のことをアメリカの「出生証明書」だと言った。

金額ほどの価値は?

その金額に見合う価値があったのだろうか?そんな価値はなかったとぼやく有識者たちもいた。ところが最近国会図書館で公開展示されているこの地図は、その分野の研究者も他の分野の研究者も新たな視点から見るようになり、かつて予想されていたよりもずっと意味深く、独特で非常に歴史的な価値のある記録書であることがわかってきた。

ヴァルトゼーミュラー地図には、いくつかの異なる地図の寄せ集めであることが如実に表れていることがわかった:古代ギリシャ・ローマ人によって描かれたようであり、ヨーロッパのキリスト教神学者たちによって図式化されたようでありまた、地中海と大西洋を定期的に往復していた水夫たちによって図表化されたような世界である。

他にもある。例えば、アメリカの国名には、おそらくアメリゴ・ベスプッチに対する敬意だけではなく、「新生」と「どこでもない場所」の2つの意味にとれる異なる言語を組み合わせた語呂合わせも見てとれる―トマス・モアにひらめきを与え、海の向こうの新世界を考えださせた、ふざけた新造語の1つの意味もまた「どこでもない」であった、ユートピアのことである。

この地図自体は他でもないニコラス・コペルニクスその人に強い印象を与えたようでもある。コペルニクスは、代表作である「天体の回転について」の冒頭で、アメリカを、自身が見たヴァルトゼーミュラー地図に描かれていたとおりに記述し、それから第4の大陸(アメリカ)の存在は、地球だけでなく宇宙における従来通りの形を再考しなければならないということを意味するのだと主張した。

最後に残ったヴァルトゼーミュラー地図は、アメリカにその名を与え、ヨーロッパに新大陸の存在を知らせただけでなくコペルニクスが宇宙について再考するのに一役買ってもいたのだ、1,000万ドルはまさに妥当な金額だったようだ。

トビー・レスターはその著書「第4の大陸」において、ヴァルトゼーミュラー地図について述べている、プロフィール・ブックスより出版。



Sunday, April 11, 2010

Why Obama in Disappointing Asia-Even in Indonesia



By Hannah Beech / Jakarta

http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1973182,00.html


スニーカーを履き、空中で蝶々をつかみんでいる10才のバラクオバマのブロンズ像は、すぐに観光名所となった。外国人はアメリカ大統領に敬意を表してジャカルタにある国立公園に群がっていた。アメリカ大統領は幼少時代4年間インドネシアの首都に住んでいた。地元住民も訪れるが、彼らは賞賛としてではない。「インドネシア人は大概抗議しに来た。」と公園の管理人Yunusは言う。「地元住民にとってはここに像はいらなかった。」地元オバマのファンクラブがモ像のために1万ドルを集めてから3ヶ月もたたないうちに、像はオバマのかつての学び舎の近くに2月にすぐに移された。「私はオバマに反対しているわけではない。」とProtus Tanuhandaruは述べている。彼はFacebookというHPのインドネシア人創刊者の一人で、Facebook「だが、インドネシアに何も貢献していない人物の像を国定公園に置くのは間違っている。」

自身を、アメリカ初の太平洋大統領と呼んでいるので、予定しているオバマ大統領のインドネシア訪問は、帰郷であると喜ばれることである。何百万のインドネシア人は、Barry Soetoroが、オバマのインドネシアの継父の名だと既に知っているので、彼のことを名誉市民だとみなしている。しかし、オバマ氏が記憶の道筋をたどる時でさえ(続いてオーストラリア訪問が続くが)、幼少期の像の行方からすると、オバマ氏、そしてアメリカがアジアに対して抱いている問題が浮き彫りになるのは明らかである。ジャカルタ市職員がオバマの像を移設するのに暗幕を用いたすぐ後に、アメリカの最高外交特使は、北京で、世界第3位の経済大国との危うい関係をまさに修復しようとしていた。一方、世界第2位の経済国である日本は、アメリカとのより対等な関係(従順ではない)を要求していた。というのも、昨年、半世紀ぶり2度目の政権を握った日本の民主党が、アメリカとの外交政策が密になりすぎていた旧政権を打開すると公約したことが選挙の勝利につながったからなのである。

新しいアジア

アジアでは正当性を主張するリーダーが増加しており、彼らは、アジア大陸が経済的・地勢的勢力を増していることをアメリカが認めるよう要求している。オバマ氏は、アジアとの個人的なつながりにかかわらず、アジアが思っている自己評価ほど、アジアに敬意を払っていないと、多くは感じている。タイは一般的にアメリカ派の国家である。そのタイで最も売れている英字新聞バンコクポストに掲載されている社説で
一般意見を要約したものがこれだ。「オバマ氏のアジアでのアメリカの利益を回復するための望みは、内容よりも会談をもっとこなすことだと今のところ証明している。」

アジアはアメリカにとって重要である。中国は、カナダ、メキシコに次ぐ第3位のアメリカ製品消費国である。第4位の地域は、東南アジア諸国連合(ASEAN)である。ASEANは1960年代に共産主義に対する砦として、アメリカ支援を受けて設立した10カ国からなる連盟である。中国の経済回復力(2009年度はGDPで8.7%増)は、アメリカや他の先進国が世界的金融危機による痛手の更なる悪化を防ぐ手助けとなった。こんな暗雲立ち込める年に、立派な経済成長を計上した経済国って他には主にどこがあるか?インドとインドネシアだ。アジアは、言い換えれば、世界経済を支えているのではないだろうか。そして、その努力を感謝してもらいたいものだ。

オバマは、アジアの重要性について説得しながら演説している。昨年11月、大統領として初めてアジアを訪問した際、オバマはブッシュ政権がワシントンの太平洋同盟国をないがしろにしていたという認識に取り組むことを誓った。「私は各国民にアジアの未来に関わり合いがあると知らせたい。」と東京でオバマ氏は述べた。「なぜならここで起こることが、本国のわれわれの生活に直接影響するからだ。」しかし、それからオバマ政権がアメリカ-アジア貿易の促進を途中でやめ、地域の自由貿易協定の実行をおろそかにした。「我々は、オバマのアジア訪問が、サンタクロースがやってきて、ただわずかな贈り物を贈り、それから飛び去るようなことではないと望んでいる。」とタイの福利通商大臣Alongkorn Ponlabootと言っている。彼は多くのアジア人がアメリカの保護貿易主義だと見抜くことを批判している。「なぜなら、我々がアメリカに必要としていることは、信念と誠意、つまりは偽りのない行動なのだ。」


インドネシアが重要なわけ

インドネシアは、まさにその価値がある。アメリカ人に、地震大国ではなく、地震が起こってもアメリカの利益にとって重要な国であると紹介するためにオバマの訪問は欠くことができない。17000の島からなる諸島、インドネシアは、世界最大のイスラム人口を有していることを誇りにしている。また、世界第3位の民主主義国(インド、アメリカに次ぐ)である。ただし、イスラム教が必ずしも政治的に自由を害していないとするなら。オバマがジャカルタで生活していたころにさかのぼると、ジャカルタではオバマの母は人類学者で救急隊員だったが、インドネシアは独裁者による支配がなされ、貧困に陥っていた。今日、インドネシアは裕福な経済国からなるG-20の名誉ある会員である。インドネシアの多くはまだ貧しい(貧困層は18%にのぼる)一方で、市民の生活を向上させるため、天然ガスや鉱物のような豊富な天然資源が生み出す利益を最終的に用いている。「外国人はかつてはインドネシアを自然災害地域だと思っていた。」とGita Wirjawanは言う。彼は、国家投資委員の委員長で、今年初めにアメリカを訪問し、自国で必死に利益を獲得しようとしていた。「だが、現在彼らはインドネシアが上向きの軌道に乗っている5500億ドルの経済国であることを認識している。」