Wednesday, October 21, 2009

Narita air port-worth long struggle to build?

Narita air port-worth long struggle to build?
Amid Japan slide,Asia rivalries,Haneda starts to make more sense
By Kazuaki Nagata

成田空港-長い闘争や困難を経て建設する価値はあるか

日本の零落、拮抗するアジアの国々、そして今、羽田がいっそう意味を持ち始める

1978年の開港以来、成田国際空港は航空産業において重要な役割を果たしてきた。しかしこの日本の主要国際空港の歴史には収用権をめぐり長期間の政治的紛争が暗い影を落としてきた。戦後の重大な社会的泥沼紛争の舞台のひとつとされ、政府対、地元農家と主として左翼系からなる支援グループとの戦いが繰り広げられてきた。

成田空港は現在、ソウルに近いインチョン国際空港やシンガポールのチャンギ国際空港を含むアジア主要空港間で激化する競争に直面しているのだと専門家たちはいう。

以下は成田国際空港の過去、現在、そしてこれからについてのQ&Aである。

成田空港についての概要

千葉県北部の成田市に位置し、面積は1,125ヘクタール。それぞれ4,000メートル、2,180メートルの二本の滑走路と二つの旅客ターミナルからなる。

2008年では3千300万以上、一日あたり平均91,616人のひとびとが利用した、国際線利用客にとり一番の日本の玄関空港である。

成田はまた主要な貿易空港としても機能している。昨年は206万トンの貨物が成田を通過し、貨物取扱量では世界でも最も利用数の多い空港に数えられる。

成田空港が直面している国際的競争とは何か、また何故か?

取扱貨物量に関して言えば、成田空港は世界でトップであったが、近年、インチョン空港と香港国際空港に追い越された。

アジア各地の多くが、主要空港施設を拡大し世界の中心空港になるべく、戦略的に投資をしてきた。それが収容能力に限界のある成田空港との競争をあおっている。空港施設拡大の流れはまたアジア地域における日本の経済的存在感の低下でもある。

2007年、成田空港の貨物取扱量は220万トン、一方インチョン空港では250万トン、香港空港においては370万トンであった。国際線旅客数では成田空港は7位にランクインしており、香港、チャンギ空港については、それぞれ5位と6位であった。

成田はサービスの質においても、アジアのライバルたちに大きく水をあけられている。

国際空港評議会が2008年に行った調査によると、インチョン空港は2001年に開港し、サービスの質では世界一位に利用客から選ばれた。あとの順位はシンガポール、香港、日本のセントラル空港、そして台北と続く。

政府は成田空港の狭く混雑した施設を拡張することが難しいとみている。それは開港31年を経た今も、地主らからの根強い反発があるためでもある。では、どのような歴史的背景があるのだろうか?

1971年、政府は二度にわたる強制収容を経て、空港用地を公用徴収したため機動隊と反対派の間に武力衝突を引き起こすこととなった。

超左派のグループが土地所有権を守ろうとする農民たちを支援するために集まり、輸送関連機関との長期にわたる闘争へと先導した。

2回目の強制収容時には、3人の警官の死亡、150人以上の負傷者、375人の反対派の逮捕をうむこととなった。

政府側が、開港日を1978年の3月30日に決定すると左翼活動家たちが管制塔を数日にわたり占拠した。この事件により開港は5月に至るまで持ち越されることになった。

1991年になり初めて両サイドは話し合いによる平和的解決を求めることに同意をした。

5人の学識経験者からなる組織が、農民と政府との会談を調整した。

政府側が公式謝罪を行ったのち、反対運動はほぼ終息を迎えた。一方で、闘争を続けた活動家や農民もおり、なかには訴訟にまで発展したケースもあった。

空港運営側は現在短いほうの滑走路を10月までに延長する予定だが、収容力を押し上げることになるだろうか?

収容力の向上は望めるが、大きな変化は期待できない。

2180メーターの滑走路を2500メーターへと拡張する工事が開始された。この工事により、成田の年間取扱量は現在の約20万便から22万便に増えるだろうとされる。

空港運営側は当初第3の滑走路となる横風用滑走路の建設を予定していたが、その計画は流れた。

地域住民とのあつれきという負の遺産を背負うがため、空港側は土地の権利や騒音公害といった問題には細心の注意を払わねばならないのだ。

空港を改善し国際線利用者にとり使い勝手がよくなるよう、政府が考慮しているほかの方策については。

京成電鉄は新しい急行の導入を計画しており、来年には成田と東京都心をたったの36分以内でつなぐことになる。

現在の急行では、都心まで約50分かかり、普通列車を利用した場合はおよそ90分もかかる。

さらに大きな動きとしては、国土交通省が長い間のタブーを破ろうとしていることである。都心にほど近い羽田空港を国際空港に変更しようというものだ。

政府はこれまで長い間羽田空港を国内線の中心空港に、成田空港を国際利用にと指定していた。

政府にとり、主要機能を成田から羽田へと移行することはタブーとされてきた。成田空港の運営に地方自治体と住民が支払わなければならなかった高い政治的代償を考慮してのことだ。

しかし、アジアと世界における日本の経済的地位は下降している。国土交通省はついに政策転換に動きつつあり、最近では羽田空港への国際チャーター便の増便を許可している。

国土交通省の最終的な目標は、羽田空港を完全な国際空港に転向させることだと考えられている。

羽田航空は来年4番目となる滑走路の運営を予定している。これにより、航空交通量は11万便増え、そのうちの6万便は国際便になる予定だ。

Monday, October 19, 2009

What Women Want Now

By NANCY GIBBS
 http://www.time.com/time/specials/packages/article/0,28804,1930277_1930145_1930309,00.html













もしも貴女が、40年前の女性でにこの雑誌を読んでいたとしたら、貴女の夫がこの本を買うためのお金を出した可能性は高いだろう。貴女は夫が投票した候補者に投票しただろうし、もし貴女が乳がんを患っていた場合、乳腺切除手術の同意書にサインするようにと言われるのは貴女の夫だろう。貴女の息子が大学に進学したとしても、娘は進学しないだろう。貴女がもし働いていたとしてだが、上司は、結局のところ、貴女は小遣い稼ぎでしかないだろうと言って、貴女の給料を安くする理由を説明したかもしれない。

ものごとの変化の緩やかさは不思議なもので、我々は、すっかり変わってしまうまでは、その変化に気がつかない。年末までに、歴史上初めて、アメリカの労働者の過半数が女性になるだろうと予測されている ― その主な理由は、不況が男性をあまりに激しく攻撃したからである。これは、一世代の間に起った尋常ではない変化であり、この変化は加速しつつある:労働統計局によれは、成長の分野は、典型的な女性の職業である、たとえば、看護師や小売業や接客業である。より多くの女性たちが、家庭の主要な稼ぎ手になっていたり(およそ40%)、家計にとっての重要な収入を提供している。彼女たちの購買力はこれ以上ないほど高く、― その選択眼は、これ以上ないほど厳しい。

このような背景で、ロックフェラー基金はTIME誌と提携して、個々のアメリカ人がどのように反応するかを調べるために、性差別の問題に関する大々的な調査を行った。性差別の戦いは終わったのだろうか?もしそうだとしたら、誰がかったのだろう?男性たちは、女性の勢力を、いまどんな風に見ているのだろう?どれだけの敵意、戸惑い、あるいは感謝の気持ちがあるだろう?ファミリーライフの形を変えてしまった、そして、経済の形を変え、男女それぞれの役割を新しく作り直してしまう力に対して。そして何が、もしそれが有るとすればだが、全てがうまくいくために、誰もが必要だと賛成するものは何だろう?この調査によってわかったことは、男性も女性も、殆どの人にとって問題なのは何かについて広義で賛同しているということ;過ぎ去ってしまったのは、女性の台頭は男性の犠牲のもとにあったという考え方である。旧経済が終わりを告げ、共働きの増加に圧力をかけると、子供達に及ぶ影響への恐れや、世の中の変化を認めない制度への不満を、人々は分かち合ようになる。現在、我々が闘ってきた戦いは我々を定義付けるものである。

A Quiet Revolution
1972年春、TIME誌は、「女性解放運動」の苦しみの中での女性の地位を評価するために、特別号を発行した。アメリカ社会、がまるで、向う見ずなティーンエイジャーのようにあっという間に変わってしまっているとき、フェミニズムは失速し、行き詰まった。女性の平均収入は確かに男性と比べると安かった;その4年前と比べれば、わずかながら女性の高級官僚がいたが(2%もいないが)。アイゼンハワー政権以降、女性の閣僚はいなかった;FBIや、全国ネットのニュースキャスター、最高裁判所判事にも女性はいなかった。国内の大学は社会的反乱を起こすのに忙しかったが、ハーバードの、421人いる終身在職権付きの教授団にさえ、女性は6人しかいなかった。現代美術館で、過去40年の間に開催された1,000回の個展のうち女性によるものはたった5回だった。ヘッドハンター達は、女性を役員席に着かせるよりもむしろ、男性を月に連れて行くほうが容易いと嘆いた。「ムーブメントなどない」と、全米女性機構が設立された2年後に、その指導者的な役職を退いた活動家は不満を漏らした。「ムーブメントというのは「何かに向かっていく」ものだけど、この活動は何処にも向かっていっていない。未だかつて何も成し遂げられていない。」

それは気難しい誇張表現だった; 目に見えるものよりもむしろ多くの変化が感じられた、希望や期待の変化は、家父長制度の基盤を壊していた。「実際の力に関していえば、(経済的にとか政治的に)我々はまだ始めたばかりなのだ」グロリア・シュテイネンは認めた。「けれど、自覚とか気づき、それは決して同じものにはならないのだ。」

だから、我々が冷戦を終わらせ、多分か社会を構築し、そして史上もっとも長い好景気を謳歌するのに忙しくしていた間にいったい何が起こっていたのかを見る為に立ち止まることは価値がある。スローモーションのようにぎこちない家庭生活を過ごしていると、単にうまくやっていくこと、記念日をチェックし、台所のドアで子供達の身長を測り、そして、ムーブメントを見逃すことは簡単だ。1972年に高校でスポーツに参加していた女子は、たったの7%しかいなかった;現在、その人数は7倍まで上がった。女性の中退者は半減した。大学キャンパスには、かつて60対40の割合で男性が多かったが、現在その割合は逆転している、そして、法律と医学の学位を取得する学生の半数近くは女性であり、10%にも満たなかった1970年より増加している。アイビーリーグの学長の半数は女性であり、全国ネット3局のうち、2曲のアンカーマンが間もなく女性になる予定だ、ここ最近の4人の国務大臣のうち3人は女性だった。145を超える機関が、世界中の女性に権力を与えるために作られている、貧困と病気に対抗する最強の武器であるという信念の元に作られたのだ、1972年にそういった大きな機関は1つしかなかった(the Ms. Foundationというものだった)。初めて、同じ年に、5人の女性がノーベル賞を受賞した(医学、化学、経済、文学の分野で)。そして、選挙年を過ごしたばかりだ、候補者たちである、ヒラリー・クリントン、サラ・ペリン、ティナ・フェイそしてケイティ・コーリックは脇役ではなくて、主役だった。それに、アメリカ合衆国大統領は、母子家庭で育ち、自分よりも地位も収入も上の弁護士と結婚している。