Thursday, September 24, 2009

Coke's Recession Boomlet





BEVERAGES

Coke's Recession Boomlet.
コーラ、不景気時の小ブーム

世界経済がこれほど険しい様相を呈するのは、大恐慌以来のことだ。ということはコカ・コーラ社にとっては運気があがってきたのに違いない。1929年の大恐慌後の1年間で、コーラは記録的な収益と3%の販売成長を発表した。タイム誌はこれを「おそらくこれから耳にするであろうなかでも、もっとも注目すべき1980年の発表となるだろう」とした。
80年近くが経過した2009年の上半期、コーラは3%の販売成長を記録した。


消費者が値段の張るもの、たとえば新車、または新しい服にさえにも散財することができないとき、清涼飲料水といった安く手に入れることができる快感に救いを求める。コーラ事業が非常に複雑に発展した今も、その論理は変わらずにシンプルでありつづける。


1930年コーラの利益は1300万ドル、事業網は二十数カ国にあった。昨年の利益は58億ドル、売上319億ドル、200カ国以上に渡る事業からのものだ。


グローバル企業のさきがけであるコーラは、これまで以上に世界を対象にした売上をあてこんでいる。
ヨーロッパと北アメリカにおいては頭打ちだ。とくに企業の看板商品であるコカ・コーラは新世代飲料や水に猛攻撃によって力を削がれつつある。コーラはビタミンウォーターといった商品を獲得することでその動向に対応したが今年の全体の売上は北アメリカで2パーセントダウンした。
それでも、コーラは2009年度の第二4半期においてインドで33%、中国では14%の販売成長を享受した。


コーラは常に、国ごとの一人当たりの消費量を測定基準として使い、売上の将来性を測ってきた。そのはかりによると中国とインドは未開発の噴出油田なのだ。
ふつうのアメリカ人が1年でコーラ製品を422本消費するのに対し、中国では28本、インドでは7本だ。
10億人を越える人口を抱える 「インドと中国は企業の未来を担う」 と、マーク・スワーツベルグ氏は言う、彼はスタイフル・ニコラス社のアナリストだ。「世界には、今でも多くの経済成長の可能性がある、そして、中国とインドが、確実にその先頭を切っている。」


中国とインドは過去においても未来であった。コカコーラ社は、1927年に中国に参入し、1949年に撤退した、そのころ中国には大衆向け飲料が参入する余地がなかったのだ。1979年に戻ってきたとき、鄧小平が経済改革政策を立ち上げた年であった。2001年、中国はコカコーラ社にとって7番目に大きな市場であったが、現在は、合衆国、メキシコに次いで3番目である。


その後、大陸での成長は、広大な国を網羅する小売流通にともない、炭酸飲料メーカーや瓶詰め業者の立ち上げの着実な発展であった。コカコーラ社は現在、殆んど全ての地域で販売されている。


コークブランドは、昨年、中国の炭酸飲料市場において、52.5%のシェアを占めた、これは調査会社であるユーロモニター・インターナショナルによるものだが、一方、ペプシは32.8%だった。ペプシは、より大きなライバル者に対して引かなかった、洗練されたコマシャル活動を行って、そのコマーシャルは、多くの中国の若者にとって、よりカッコいい飲み物だと位置づけた。コカコーラ社は、NBAのセンタープレイヤーである姚明や、オリンピックの板飛び込み選手である郭晶晶のような、スポーツスターたちのスポンサーになり、一方、ペプシはポップカルチャーを支配している。最近は、中国の音楽レーベルを立ち上げたし、アメリカン・アイドルのような形式の音楽コンテストのスポンサーになっている。看板商品であるコーラの対決では、コークの22.2%に対して、ペプシが23%の市場シェアという僅差で勝っている。しかし、そのどちらも、中国では1番の炭酸飲料ではない。その栄誉は、シェア23.4%を占めるレモン・ライム・スプライトのものだ、そしてスプライトはコカコーラ社のものだ。


コカコーラ社のインドにおける上昇は、長年に渡る混乱を伴う。1958年から1977年まで、コークはトップクラスの清涼飲料ブランドだった、1977年に、インドの経済環境は、国家主義へと一変した。政府からその配合比を公表するように、また、少数株主になるようにと要請されると、コカコーラ社は撤退した。ペプシは1988年にインドに参入した、国有企業と、ヴォルタス社との共同事業者として、ヴォルタス社は、タタ・グループ複合企業の傘下にある。コカコーラ社が居ない間に、この企業は、徐々にその市場を拡大した。


コカコーラ社は1993年に、それはインド経済自由化の後だった、競合社のボトリング・ネットワークと、サムズ・アップやリンカ・レモンのような地元のソフトドリンク・ブランドを買い上げて再び参入した。その後10年に渡って、コカコーラ社は10億ドル以上も投資し、2001年になって初めて、インドでの利益を上げた。

しかしコカ・コーラ社に浮かれている間などほとんどなかった。二年後、ペプシ、コカコーラ社はともに環境科学センター(the Center for Science and Environment :CSE)という環境維持問題を扱うNGOの調査の対象となった。CSEがこの二社の飲料のサンプルテストをしたところ高い残留農薬を示す数値結果がでたと申し立てたのだ。両社ともに、売上も評判もひどく落ち込んだ。

団結することなど、まずありえなかったペプシとコカコーラ社はそのNGOを非難する共同記者会見を行った。
同じ申し立てが2006年にも再びもちだされ、炭酸飲料の年間売上は落ち込んだ。保健家族福祉省
(インドの政府機関)によって選任された専門委員会はその後、CSEの試験方法に問題があったことを発見した。


そのスキャンダルにより、二つの巨大清涼飲料水会社は自社製品を保護せざるをえなくなり、また水資源の保護といった社会的環境政策もはっきり打ち出さざるをえなくなった。
もちろんペプシコ株式会社の最高経営責任者でありインド出身のインドラ・ヌーイ氏はある目的をもったNGOに振り回されるつもりはなかった。
「その二社の汚名の返上が早かったとすれば、ある程度の誠実さと透明性を示すことができたからでしょう」とニューデリーを拠点とするマーケティングコンサルタント会社、フューチャーブランドの最高経営責任者であるサントシュ・デサイ氏はいう。

「売上は短期間では影響を被りましたが、顧客に安心感を与えることに成功しました」。2005年よりコカコーラ・インド社でCEOをつとめるアトゥル・シン氏は、自社についてかつて語った。外資系企業であったため「絶えず疑われ、試されてきました」と。今ではそういった監視の目も歓迎している。「実際に順調にいっているときは自分自身で水準をあげるに限るのだ」。と語る。


安全性に関するスキャンダル問題が起こったのち、コーラとペプシは消費者を引きつけるのに小さなサイズのボトルと割引に頼ることにした。小サイズのボトルで売り上げは増えたが、両社と、双方の炭酸飲料メーカーの利潤率は下がった。
2005年、シン氏は40%から60%への値上げを行い、その後1.25リットルのような新パッケージを導入し、家庭での消費を増やすこととなった。
2006年の売上の落ち込みが一度あってから、インド市場は2007年にふたたび盛り返しはじめた。
「まあ、こんなものですね。」とインドの南にあるコーラメーカー、スリ・サルバラヤ製糖会社のS.B.P.ラモハン氏はいう。「もう、なにがなんでも(売上?)量だというときではないのです。」


しかし中国では、コーラは売上量に依然焦点をしぼってきた。たった15セントほどで、小さなボトル入りのソーダを売っている。そして従来のプラスチックボトルの半分より少し大目の355ミリリットル入りを35セントで、輸出の不振によりひどく打撃をうけている南沿岸省のような場所で販売し始めたところだ。
コカコーラ社中国の代表であるダグ・ジャクソン氏は厳しい経済状況のなかでもやれることをやるまでだと述べる。
「もし手持ちのクゥワイ(元)がさびしかったら、誰もが1クゥワイ節約ができるところを探すのです。何も飲まないのではなく、安いほうなら手にとるのです。私どもは、まさに選択肢を提供しているのです。」と中国通貨を話言葉で呼びつつ話す。

もうひとつの重要な点で、コーラ社の伝統の戦略でもある点は、とにかく冷やしておくということであった。インドと中国では習慣と冷蔵庫の不足が理由で、コーラはぬるいままで飲まれることが多い。冷たい飲み物は不健康であるとさえ昔から考えられている中国のある地域では沸騰させ、レモンと生姜と一緒に供されることがある。コーラ社の理想とする温度は3度で、消費者が冷たいコーラを飲む気分にさせるようすることも昨年の北京オリンピックと関連広告のスポンサーとして支払ったとされる4億ドルの目的のうちのひとつであった。

インドでの売上が復活し、メーカーは電力なしで12時間も保冷可能な超断熱の小売用冷蔵庫をはじめとする新しい技術を導入した。田舎では送電線網はたよりにならないためだ。
コカコーラ社はインドにおいてインフラを拡大するため2011年までに2億5千万ドルをつぎ込む予定だ。

30年前に鄧小平が打ち立てた経済成長中心政策はコカコーラ社がなんとか事業を拡大するためのある程度の安定した足がかりを供給してきた。
「私たちは、自分達がどこに向かっているのかしっかりと認識しているのです」。とジャクソンは説明する。「中国政府は、今年から年間2千万人の人々を都会化し、引き続き2020年までその政策を続けていくつもりだといっています。これからの10年間で、ほぼアメリカ人口と同じくらいの人々を都会化させるのです。この会社にかけて損はしませんよ、確信をもっていえます」。
もちろんジャクソンは中国当局がコーラ社の24億ドルもの中国のジュースメーカー、ヒュイユアンの買収取引を阻止するだろうとは思っていなかった。実現していれば中国産業史上で最大規模の外国企業への売買であったろう。しかし、商務部(中国)はトラストの規制を理由にあげ、合併を許可すればコーラ社の国内ジュース市場の支配力が強くなりすぎるとし、阻止をした。

 その吸収合併が拒絶された一件は、コーラ社にとっての敗北、また中国の保護主義の台頭として大方に受け止められたがヒュイユアンを獲得できなかったことはコーラ社にとり、そう悪いことばかりともいえぬかもしれない。「当局の決定のおかげで、コーラ社はヒュイアンという高い買い物をせずにすんだわけです」スタイフル・ニコラス社のアナリストであるスワルツバーグ氏はいう。ジャクソン氏はコーラ社はひとりでに成長するだろうという。「2020年の目標は変わりません。買収して進出していくより自社自身を成長させることで発展するでしょう」。

近い未来、コーラ社の中国への投資は大規模なものになるだろう。コーラ社は1979年以来16憶ドルを費やしてきたのだが、これからの3年間の成長に20憶ドル投資する予定だ。(昨年、ペプシは4年間で中国へ10億ドルの投資をすると発表した)。

コーラ社は今年9千万ドルをかけリサーチセンターを上海に建設し、そこで中国版ミニッツメイドにグレープ、レモン、ミックスフルーツ味を加えたような新製品グオ・リ・チェンという果肉入りのジュースを開発した。

西地域のシンチアンや東地域の内蒙古のような未開発エリアにも進出中であり、内蒙古には39番めとなるボトリング工場を建設中だ。
不景気時というのに大胆な動きだろうか。

そうかもしれない。が、しかし前例がある。1930年代、コーラ社は20ヵ所にのぼる国や自治区に新たに進出し、その年代当初からすると74%の拡大を成し遂げた。2010年代を世界大恐慌の再来とはいえないかもしれない。が、同じ戦略をふたたび試す価値はあるようだ。

Wednesday, September 23, 2009

Ardi Is a New Piece for the Evolution Puzzle

http://www.time.com/time/health/article/0,8599,1927200,00.html
By MICHAEL D. LEMONICK AND ANDREA DORFMAN
Thursday, Oct. 01, 2009
Science magazine with the skeleton of Ardipithecus ramidus, aka "Ardi." T. White

















ヒトの起源について解き明そうとするのは、非常に大きくて複雑で、ほとんどのピースを失くしてしまったジグソーパズルを組み立てようとするのに似ている。多くのピースはもう見つからないだろうし、見つかったピースは何処に当てはまるのか分からないこともある。時々ではあるが、化石探索者はパズルの大きな部分をいっぺんに埋める発見に出会い、そして同時に、今まで組み立ててきたと思っていたパズルの絵そのものの形を変えることがある。

まさにそんな発見の道が、1994年11月に、エチオピアの埃っぽいアワッシュ河中流域から、ヒト科の手のひらの骨が2欠片発見されたことによって、始まった。数週間のうちに、今後15年間続くだろう集中的な発掘調査活動によって、さらに100を越える骨の欠片が発見され、ついに、今週明らかにされた進化論の証拠に関する鍵を発見した;それは、4,400万年前の、アルディピティクス・ラミダスとして知られているヒトとみられる骨である。

10月2日発行のサイエンス誌特別号に掲載された一連の研究において(この11件の論文は10カ国から47人の著者によるものだった)、研究者たちは、アルディピティクスのベールを剥いだのだ、125片のヒト科の骸骨は、著名なルーシー(アウストラロピテクス・アファレンシス)よりも1,200万年前のもので、今までに発見された骨の中では飛びぬけて最古のものであった。カリフォルニア大学バークリー校のティム・ホワイト氏、この新しい化石を発見し研究しているアワッシュ調査チームの共同責任者である彼はが言うには、「生物学を理解するために、皆が心から欲しがっている部分は、頭蓋骨、骨盤、脚や腕、そして手足なのだが、我々はその全てを手に入れた」

アルディのいいところは、良い骨だということだ。アルディの骨の完璧さは、その周囲の同じ時代の堆積物から採集された150,000を超える植物や動物の化石と同様に、我々ヒトの最古の先祖の可能性があるものの1つであるアルディピティクスについて、かつてないほどの情報をもたらした。この骨によって、科学者たちは、アルディピティクスを直接的に、その子孫と思われる、ルーシーの種族であるアウストラロピテクスと比較することが出来るようになった。もしかすると、最も重要なことに、ヒトとチンパンジーが共有した最後の共有先祖の、その種族が、700万年前に分岐する前に似ていたかもしれないことについてのヒントをアルディが提供している。

アルディは、最も古く最もよく記録されている共有祖先の子孫である。むしろ「その分岐点に非常に近いところに」存在する、とホワイト氏は言う、驚くべきことは、アルディが、我々と最も近い現存する霊長類であるチンパンジーと似ていることだ。定義しがたい共有祖先の骨はいまだ発見されていないが、科学者達は、手に入れられる証拠を元に研究している(特に、アウストラロピテクスと現代のアフリカ猿の分析である)、それで、我々の早々祖父を、拳で地面を突いて歩き、木にぶら下るサルに最もよく似ていたと予想していた。しかし、「アルディはチンパンジーらしくない」ホワイト氏によれば、それはつまり、最後の共有祖先もおそらくチンパンジーに似ていないということだ。「この骨は、ヒトの進化についての我々の理解を覆したのだ」とケント州立大学の人類学者であるC.オーウェン・ラブジョイ氏は語る、彼はアワッシュ中流域チームの一員である。「明確なのは、ヒトは、チンパンジーがちょっとだけ変わっただけなのではないということ、両者におけるゲノムは類似しているけれども。」

つまりどういうことだろう?アルディの解剖によって、チンパンジーは実はヒトよりも更に進化していたのかもしれないという考えが浮上した ― 過去700万年かそれ以上の間の科学的な意味における変化のことだが。これは、アルディがチンパンジーよりもむしろヒトに似ているという意味ではない。ホワイト氏は、アルディのことを、たとえば、ヒト特有の特徴との「興味深い組み合わせ」と表現する。アルディは全長47インチ(120センチメートル)で、体重はおよそ110パウンド(50キログラム)、これはルーシーのおよそ二倍の重さだ。アルディの骨盤上部、脚の骨とそして足の構造は、アルディが、よじ登る機能を保持しながら同時に、地面に対して直立に歩いたことを示唆している。アルディの足は、木の幹を掴むために挟み込めるような大きなつま先を持っていたが、サルが木の枝や蔦を掴んで登るのに必要な柔軟性を欠いていた(「ゴリラやチンパンジーの足はもはや手のようだ」とラブジョイ氏は言う)し、土踏まずもなかった、アウストラロピテクスや猿人は土踏まずがあったので真っ直ぐに歩けたのだ。アルディは器用な手を持っており、それはチンパンジーの手よりも動かしやすかったので、地面のものをつかんだり、二本足で歩きながらものを運ぶことが上手だった。アルディの手首、手、そして肩の骨は、彼らが、ナックルウォーカーで、サルのように木の上にいたり、ぶら下ったりして過ごさなかったことを示している。むしろ、アルディは、絶滅したサル特有の、手のひら歩行という原始的な方法を用いて、枝を移動したのだ。「”アルディ”は、見事にダーウィン論的な生物だ」とペンシルバニア州立大学の古人類学者であるアラン・ウォーカー氏は語る、彼は今回の発見には関与していない。「つまり、共有祖先とアウストラロピテクスの中間の特徴を持っているのだ。」

科学者たちがこのことを知ったのは、アルディの化石だけではなく、彼らが発掘した、他の110の骸骨、アルディ・ラミダス属の少なくとも35種の骸骨について調べたからだ。それらの骨と、同じ遺跡から発掘された何千もの植物や動物の化石を組み合せによって、およそ200,000世代前にアルディが生活していた場所の、非常に明確な絵を描くことが出来た。それは、ところどころに深い森や新鮮な湧き水のある草の多い森であった。コロブス猿は木の上でキーキー鳴き、一方ヒヒや像、うずまき状の角を持ったアンテロープ、そしてハイエナがその地域に生息していた。トガリネズミ、野ウサギ、ヤマアラシやそして小型の肉食動物は藪の中をチョコチョコ走り回っていた。色々な種類のコウモリや、少なくとも29種の鳥類、たとえば、孔雀やハト、ボタンインコやフクロウなどがいた。エチオピアの堆積物に埋もれていたのは、エノキの種、化石化したヤシの木やそして、イチジクの木の花粉の痕跡だった、そういったものの実の部分は、雑食であるアル・ラミダスが食べたに違いない。

この絵は、これまでに確立されてきた進化論の学問のある一面を崩してしまう。古人類学者は、かつて、我々の先祖を最初に二本足で歩かせたものは、気候の変化、つまりアフリカの森がサバンナ化したことだと考えていた。そういった環境では、つまり、直立姿勢の霊長類は、ナックルウォーカーよりも有利だっただろうから、なぜならば、直立姿勢だと背の高い草より上から見渡して、食べ物を見つけることが出来ただろうし、捕食者を避けることも出来ただろうからだ。ルーシーの仲間が、しばしば、より木の多い環境の下で生活していたという事実が、この学説を弱めはじめた。さらに何十万年も前に、アルディが、同じような環境で直立歩行していたという事実が、他の理由があったに違いないのだということを明確にさせるのだ。

理由が何であったかは謎だが、アルディの社会的行動に関するある学説がそのヒントを握っているかもしれない。ラブジョイ氏は、アル・ラミダスは、ヒト以外のどの霊長類にも見られなかった社会体系を持っていたと考えている。ゴリラやチンパンジーの場合、オスは、メスの関心をひくために、他のオスと激しく戦う。しかし、アルディピティクスは、とラブジョイ氏は言うのだが、オスはそういった競争を放棄し、メスとツガイになって、子供を育てるために一緒に暮らしていた可能性がある(必ずしも一夫一婦であったり生涯を通してというわけではないにしても)。この円満な生活の証拠は、全てに見られる、アルディピティクスの歯:その犬歯は、オスのチンパンジーやゴリラが闘うための尖った、ダガーナイフのような牙と比べると比較的丸い。「オスの犬歯」とラブジョイ氏は語る、「それは、突き出てもいないし尖ってもいない。もはや武器ではない。」

これは、メスが、牙の小さなオスと好んでツガイになったことを示す。メスがそんなに力を持っていたということは、ラブジョイ氏の主張では、アル・ラミダスは、オスが協力的であるような社会体系を確立させていたに違いない。オスはおそらくメスと自分の子供を助けたのだろう、例えば、食料を調達して分け合ったりして ― 行動の変化が二足歩行の生じた理由を説明する助けになるかもしれない。森の中で食料を運ぶのは難しい、やはり、直立に歩くことによって前足を自由に使えなければ。

そのような社会的行動の詳細を推測することは、正直なところ、空論なのだ ― そして数人の科学者達がすぐさま指摘する、これらの著者による、今までと異なる重要な結論は、この上さらに進んだ議論が必要だと。1つ問題なのは、アルディの骨にはほとんど木っ端微塵な状態で発掘された部分があり、大規模なデジタル復元処理が必要だということだ。「ティム [ホワイト] が、私に見せてくれたんだ、地中にある骨盤の写真を、それはアイリッシュ・シチューのように見えたよ」とウォーカー氏は言う。確かに、その実物を見て、古人類学者たちはそれぞれに違った解釈をするかもしれない、アルディがどんな風に動いたかとか、アルディは、ヒトとチンパンジーの最後の共通祖先について何を暴くのかとかについて。

しかし、サイエンス誌は特別号をよく発行するわけではない、つまり、これらの新しい論文に言及されている、通常ではない数と種類の化石が意味するところは、科学者が本物の証拠について議論しているということだ、それは通常のような、ここで発見された一本の歯や、また別のところで発見された足骨の欠片についてではない。「我々が(アワッシュ河中流域で)この研究を始めたとき」ホワイト氏によれば、「ヒトの化石の記録は、およそ3,700万年前まで遡ったのだ」。現在、科学者達は、ヒト科の起源まであと700,000年くらいまで近づいた時代の情報の宝の山を手にしている。「これはただの骨ではない」と彼は言う。「我々は、これまで空白だった時代の、ステキな、解像度の高いスナップショットを作り上げることが出来るのだ。」より多くのピースを探すことは続けられるが、このパズルの大まかな絵は、少なくとも、鮮明になってきたぞ。

Sunday, September 20, 2009

Fair Trade: What Price for Good Coffee ?

Small farmers find growing coffee is hard labor fir scant return, even Fair Trade.
Eric Bauer / Archibolatino
http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1926007,00.html



3世紀前に、イエズス会の修道僧がグアテマラへコーヒーを運んで以来ずっと、コーヒー豆の栽培は、小規模農家にとって割の合わない仕事である。状況は悲惨だ ―100ポンドの肥料を山の上まで引きずりあげてみたらわかる―そして、コーヒーは、世界中で2番目に、オイルの次に、重要な貿易品であるにもかかわらず、コーヒーがもたらす報酬はわずかである。「生計をたてるのに十分ではありません」と、ルイス・アントニオはかたる、彼は、グアテマラ西部の高地にあるケツァルテナンゴの近くで、30年間、コーヒー豆を栽培してきた人物だが、年を追うごとに膨らむ負債に苦しんでいる。「我々の稼ぎでは、子供達に十分な食べ物を買ってやることが出来ません」

アントニオや、世界中に2,500万人いる小規模コーヒー栽培者たちには、職業選択の余地があまりない。だからといって、彼らコーヒー栽培者たちはフェア・トレードに執心していると思われるかもしれない。(フェア・トレードとは、25年間、コーヒーからキノワにいたる全ての作物に、市場価格よりも高額を支払うことによって、苦しんでいる第三世界の農民を、アントニオもその中に含まれる、貧困から救い出そうと努力し続けてきた国際活動である)その間、フェア・トレードは、スターバックスのような巨大小売チェーン店を採用してきた、スターバックスは、フェア・トレード保証付きコーヒーの地球最大の買い手である。

しかし、フェア・トレード・コーヒーの動向の将来には問題がある、フェア・トレードが支援出来うる限界に達してしまったのではないかという懸念を掲げる支持者もいる。中央アメリカとメキシコにいる179のフェア・トレード農家への、昨年の民間業界の調査では、TIMEが入手した資料によると、半数以上が、未だに、1年のうち数ヶ月間は家族が飢えに苦しんでいるのだと答えている。「結果を見たとき、ショックでした」とリック・ペイサーは語る、彼は、この調査を依頼した、バーモントにあるグリーン・マウンテン・コーヒー・ロースター者の社会支援団体の局長である。「辞めようかと思いました」、とマサチューセッツのフェア・トレード企業、イクォール・エクスチェンジのスポークスマンであるロドニー・ノーズは認める、「バイヤーが考える、フェア・トレードの達成目標と、現業とが食い違っている可能性があります」ラテン・アメリカからアジアにいたるまで。

フェア・トレードは、アントニオの有機コーヒー1ポンドにつき、1ドル55セント支払う、それは市場価格よりも10%近く高い。しかし、アントニオの手元には1ポンドにつきたった50セントしか残らない、フェア・トレード加盟費や国税、それに維持費を支払うからだ。年末までに、アントニオが言うには、彼が栽培する数千ポンドのコーヒー豆で、およそ1,000ドル手に入れるだろう(グアテマラの乏しい最低賃金のおよそ半分だ)もしくは1日あたり2ドル75セント、それはスターバックスの1番安いラテの値段にも満たない。他のグアテマラの栽培者達にも同じことが当てはまる、例えば、マッテオ・レイソノ、彼もまた、ケツァルテナンゴ出身である。フェア・トレード無しでは、と彼は言うのだが、「我々はもはやこコーヒー栽培をやっていけないかもしれない」。しかし、フェア・トレード価格でさえ、小規模農家が支払わなければならない費用を「賄えない」、と付け加えた。



ほとんどのコーヒー栽培者たちにとって、それでも、フェア・トレードは公開市場価格よりほんの少しは割がいい。2年前、ドイツに本拠地のある、国際フェア・トレード表示機構(FLO)が、ここは世界価格と基準を設定するところであるが、非有機コーヒー1ポンドあたりの最低価格を、9セントから1ドル35セントまで引き上げた(そのうち10セントは、栽培者の子供達のための奨学金のような社会プログラムの資金になる)。これは、現行の市場価格よりも15セント高い。しかし、カリフォルニア大学バークリー校でフェア・トレードの研究をしているクリストファー・ベーコンによれば、栽培者達が必要最低限の生活よりも少しでも向上させるために必要な1ポンドあたりの価格は、実際のところ2ドル以上である。農業支援者はFLOに対して、そのくらいの価格引き上げを考慮するよう世鬱せ井している。が、そのような大幅な価格引き上げで、おそらくは、フェア・トレードは少数の栽培者しか救うことが出来ないために、―スターバックスでさえ、その価格ではコーヒー豆の購入を控えるとみえる―FLOはためらっている。何百万人の代わりに、「数万人の栽培者しか救えないとしたら、コーヒー1ポンドにつき2ドル得をして何の意味があるのか?」とポール・ライスは問いかける、彼は、カリフォルニアに本拠地を置き、合衆国のフェア・トレードを監督する非営利団体フェア・トレードUSAの所長であり、最高責任者である。「目先の利益に目がくらんで将来を不意にする危険がある」それよりむしろ、FLOの主要な成長戦略は、スターバックスのような買い手を獲得し続けることだ。「我々は、次第にメジャーになってきている」とFLOの執行責任者であるチューリア・スィヴァネンは語る。「我々は、コーヒー栽培者の市場を拡大するために努力しているのだ。」





Sunday, September 13, 2009

Secrets of bird flight revealed

Secrets of bird flight revealed
http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/7205086.stm
Secrets of bird flight revealed
By Rebecca Morelle Science reporter, BBC News


鳥たちが最初に飛行できるようになったのは、どのようにしてなのだろうか。その謎の解明に一歩近づいたのかもしれないと科学者たちは考える。

鳥が飛べるようになったその過程を解明する重要な鍵は、翼をはばたかせる角度にあるのではないか、と「ネイチャー」誌に掲載された論文が示唆している。

アメリカの研究チームが鳥は走るとき、飛ぶとき、また滑空するときも、翼を一定の限られた角度で動かすということを発見した。

初期の鳥類は、ちょうどよい角度で翼をはばたかせることを単に会得したことで、飛び始めたのかもしれないと結論づけた。

「その単なる羽ばたき方が鳥の進化、そして飛び立つ段階に至るまでの源基であるようだ」

研究を行ったのはケン・ディアル、ブランドン・ジャクソン、そしてパオロ・セグレで、三人ともモンタナ大学の航空学研究室が研究拠点だ。

ディアル教授はいう。「少なくともここ150年間の鳥の起源とその飛行についての人々の関心はかなりのものでしたが、悲しいことに今までその問題はスムーズとはいえないとりかかりからアプローチされてきたのでした」。

教授によると、この領域を調査している科学者たちは、二つのグループに別れる傾向があるのだという。鳥が飛ぶことを学んだのは、木から飛び降りて滑空するという「トップダウン(上から飛び降りる)」方式によるものだったと考える一派と、おそらくは捕食者から逃れるために走ったり羽を羽ばたかせたりすることによる「グラウンドアップ(地面から飛び立つ)」方式によって飛ぶことができるようになったと考える一派だ。

しかしこれら双方のシナリオによると鳥類が浮揚するためには、まずさまざまな翼の動きが確立されている必要があったであろうということになる。

ひらめきの瞬間

2003年 ディアル教授とその研究仲間たちは、鳥たちが急な傾斜を駆け上がるときにも翼を利用していることを明らかにした論文を発表した。

「これは重要な発見でした。鳥たちが見せている動きですが、以前なら私たちは全く気にもかけなかったものです」。と教授は解説する。

「鳥たちが翼を使うのは飛ぶときのみではないし、また足を使うのは平地を走るときのみでもない、実際は、それが巨礫であれ、木であれ、崖であれ、急な傾斜をよじ登るときには翼と足の両方を使うのです」。

この新しい研究が、次に述べる発見につながったのだと教授はいう。

高速ビデオを利用し、ディアル教授は小さなウズラに似たイワシャコという鳥の翼の動きを、急な傾斜を走り登るとき、滑り降りるとき、飛ぶとき、について観察した。

教授はBBCに語った。「驚いたことに、得たデータすべてが鳥たちは全く翼の角度を変えていないということを示していたのです」。

「額をピシャッと叩いて、こうつぶやきたくなる瞬間ですよ。翼の羽ばたき方は動作が違えば変わるものだとずっと思ってきましたが、母なる自然は、あらゆる動作を行うのにたった一通りの羽ばたき方でよしとしたのだということがわかりました」。(自然の摂理によって、あらゆる動作はたった一通りの羽ばたき方で行われるのだということがわかりました)

研究チームは、その後さまざまな種類の鳥たちを研究し、同じ一定の角度で羽ばたいていることを確認した。

また、巣立とうとするひなたちが飛び方を覚える際の翼の動きも観察した。

孵化したてのひな鳥たちの羽は小さくて未発達なため飛ぶことができない。しかし急傾斜をかけ上がるとき、その翼を羽ばたかせる。それは成鳥たちが同じく傾斜を駆け上がるため翼を羽ばたかせるときのと同じ動かし方と角度であるのことがわかった。

鳥たちは、傾斜から滑降するときも翼の角度を同じにとるのだ。

ひな鳥たちの初期の翼は、数例の恐竜にみられる未発達の翼の原形に似ていると研究者たちは考える。

恐竜たちは、あたりに散在する岩や障害物を飛び越えるため翼を発達させたのかもしれないとダイアル教授は述べる。

その翼が体重をサポートできるほど、大きく強く発達し、ちょうど良い角度で羽ばたかせることができたなら飛ぶことが可能になっただろうと結論づけた。

「単なる羽ばたき方を学ぶことが飛べる段階に至るまでの最も大事な問題であったようなのです」とダイアル教授は語った。